第百八話 裏目
弘治三年(1557)七月上旬 遠江国敷知郡濱松 曳馬城 今川 氏真
「御屋形様におかれましては三河への御出兵の折り、我が城にお立ち寄り下さり恐悦至極にござりまする。遠江の臣下並びに国人衆を代しまして御礼申し上げまする」
曳馬城主の飯尾善四郎が頭を下げながら口上を述べている。少し涙ぐんだ声だ。本当に嬉しいと思ってくれているように聞こえた。
この善四郎、史実では氏真に謀反を疑われて切腹を命じられ、失意のうちに生涯を終える。だが俺はそんな事をするつもりは無い。善四郎の父である豊前守は義元に最後まで近侍し、桶廻間で見事な最後を遂げた。今や飯尾家は忠臣の家だ。連龍と名乗っていた善四郎だが、早速俺の太刀と一字を与えて
「うむ。先の戦では皆に苦労をかけた。余は三河の仕置きがつき次第、遠江の内政に力を入れるつもりだ」
「「ははっ」」
広間に集まっている遠江の者達が安堵したような表情で応じた。部屋には多くの者が集まっているが、遠江の家臣や国人の全てが集まっている訳ではない。井伊等、尾張に詰めている将はここにいない。裏を返せば、此処に来ている者は本隊崩壊の影響を受けて当主を失ったか、兵や銭を失ったりして苦しい状況にいる者がほとんどだ。
「本格的な内政は今暫く先になるが、今川のために戦ってくれた皆の慰撫は急ぎ行いたい。ついては皆の軍役を向こう一年は不要とする」
“おぉ”
“なんと”
俺の言葉に、嬉しそうな顔をする者もいれば、活躍の場を失いそうだと不安気な顔を浮かべる者もいる。だが、反対の声は上がらない。それだけ懐が痛んでいるという事だろう。
先の尾張出兵では、義元が三河と遠江の諸侯に檄文を発した。その文を受けて、大多数の将が本来の軍役を超えた兵を引き連れて参陣していた。皆が勝ち馬に乗り遅れまいと必死に兵を集めて参戦したという訳だ。大軍による短期決戦とも思っていたのだろう。だが、戦は尾張切り取りどころか大敗を喫して寄り親を失い、無理をして参戦した家の財政は火の車となった。荒鷲の調べでは、濱松の町の土倉に借入している家が多いようだ。府中で借りている家もあると報告があった。安心してくれよ。俺はしっかり皆に心遣いをするからな。
「それから、先の戦の為に銭を借りている家があらば、借用書を余に提出せよ。戦の為に借り入れた銭は全て余が肩代わりする」
“ま、まことでござりますか”
“なんとっ”
今度は皆が顔を合わせて嬉々としている。かなり銭の不安があったのだろう。
「ただし、変わりに今後の内政に向けた検地を行う。能吏を派遣するゆえ、皆はこれを受けるように。何、案ずるでないぞ。検地にあわせて米の収穫を増やす方法や特産物の生産等、実入りを増やす策を伝える故、皆励むようにな」
“検地”という言葉の響きに不安そうな顔を浮かべた者たちも、すぐに笑みを浮かべた。駿河や伊豆が年々豊かになっていることを知らぬ者はいない。自分たちも同じような恩恵に与れると思っているのだろう。
……今は安堵しているがよい。
ただ、俺が話した事は“毒饅頭”だ。
軍役の免除に銭の供与と、俺の話は至れり尽くせりに見えるかも知れない。
だが、軍役の免除はこの後直ぐに行う三河と尾張への征討で手柄を上げられない事を意味する。ここにいる者達の発言力は大きく落ちるだろうな。元々、遠江の家臣や国人には声の大きい者が多かった。雪斎が三河で不穏な動きがある度に遠江の軍勢を上手く使っていたからな。遠江の家臣は家中でそれなりの発言力を持っているが、これから大事な三河と尾張の戦に出ないのだ。発言力は大きく削がれるだろう。
それに加えて検地だ。皆の財力を把握し軍も再編する。特産も作らせる。農民の生活も豊かにしてくれよう。兵も徴兵から常備兵に変えさせる。戦に出る者は限られ、民は今までよりも今川の有り難さを感じるだろう。この饅頭の毒がまわったとき、将達は今川に弓を引く事が出来ぬ様になっているはずだ。ここにいる者達の兵を一年使えないのは不便にはなるが、無理をして足元がぐらついては意味が無いからな。
さて、明日には三河入りだ。俺が今回連れて来た三千と、元々今橋に置いている五千、合わせて八千で征討する。まずは下條を追い出して奥三河を固めて西へ進む。西三河は松平が城を次々と落としているが、空城が殆どだ。勢力の範囲は広がっても兵力は然程増えていない。根こそぎ動員しても三千か四千と言ったところだろう。問題は一向衆だ。荒鷲からの報告では本證寺や上宮寺といった一向門徒の拠点となっている寺に僧兵や武装した百姓が詰めているらしい。在郷の門徒も見込むと一万は下らないとの事だ。数は多いが正規軍ではないからな。何処まで手古摺るかは分からんが、伊豆の坊主どもよりは手強そうだ。信長も長島では苦労してるからな。油断せずに行こう。いっそのこと全ての寺を焼いてみるか。信仰の対象が無くなったら彼奴らどうなるのかな。
朝敵にでも出来れば問答無用で焼いてやるのだがな。草ヶ谷蔵人が頑張っているが、流石に朝敵にするのは難しそうだ。やはり朝廷は腰が重い。銭の事で分かってはいたが、現状の大きな変化を好まない。改元に向けた銭の拠出をちらつかせても難しいようだ。全く……。公家というのは超保守、抵抗勢力だな。ま、石山が京から距離で近いし、九條が縁としても距離を近づけているからな。銭はあっても、京の公家からすれば俺は遠国の田舎大名ということか。
尾張にいる兵だが、松平が西三河で不届きをしているため不安になる者が増えているらしい。特に鵜殿等は居城を攻め落とされている。兵達は気もそぞろになろう。大半が遠江と三河の兵だからな。織田と松平が誼を通じているとの知らせもある。武田の動きもどうにも胡散臭い。長尾と接している北信への威力出兵を繰り返しているが、駿河侵攻のための軍事演習に見えて仕方がない。荒鷲に調べさせてはいるが、多少兵糧の買い込みが増えている位で決定的な動きは無い。
溜め息が出そうになった。思ったより俺の状況は楽ではないな。まぁ武田に対しては手当てをした。沼津に兵は置いているし、買い占めによる荷止めも手配した。お陰で物価は値上がりムードだ。何かと懐に不安のある武田にしばらく戦は出来ぬだろう。
しかし、これだけ背を気にしなければ行けない同盟に意味はあるのだろうか?
再び出そうになった溜め息を飲み込んだ。
弘治三年(1557)七月上旬 駿河国安倍郡府中 駿府取引所 友野 宗善
“カンカンカンッ”
これで何度目の鐘になろうか。最高値の更新を告げる鐘が鳴り響くと、取引所に詰めかけている者達が一斉に掲示板の方を振り向いた。
“次は味噌じゃっ!味噌が高値を付けた”
“塩もすぐに上がる!買いじゃ買いっ!”
階下からは凄まじい喧騒が聞こえてくる。皆が流れに乗り遅れまいと買い札を重ねている。相場は完全に上げに入った。
六月の暮、軍楽隊の勇壮な音と共に御屋形様が三河へと出兵して行かれた。その出兵と同じくして、取引所の情報を伝える板に、商いを行っている者の心を揺さぶる掲示がされた。今川家からの兵糧に関する調達情報だ。板には塩、味噌、蕎麦粉、胡麻、油といった兵糧となる物の品目と購入量、予定価格が掲載された。今回の出兵のための臨時調達との事だが、肝心の価格は時の相場の二倍であった。今川家の調達は二日程でこなされたが、在庫の減少が相場の高騰に火をつけた。そこに拍車を掛けたのが関東からの引き合いだ。越後の長尾家が関東に向けて出兵の準備をしているという噂がある。堺の支店からも、直江津での荷受けが多くなっていると報告があった。この取引所には小田原や河越方面の商家も買い付けに来ている。今や皆が兵糧を欲している。
「買い札の量が売り札に比べてかなり多い。これはまだまだ上がりますね」
次々と更新される板情報を眺めながら手代の小左衛門が呟いた。小左衛門には蔵在庫の管理を任せている。取引所に顔を出す時は供にする事が多くなった。
「そうじゃな。塩や味噌はその内に落ち着こうが、米は如何ともし難いな。明らかに足りておらぬ。五位蔵人様が堺で買い占めたからの」
小左衛門に小声で呟くと“堺の久右衛門さんから聞きました。納屋さんが取り仕切って収められたとか”と小声で返して来る。久右衛門というのは堺の支店を任せている番頭だ。順調に儲けながら情報を次々と送って来る。
「蔵に幾らか米の在庫があったはずだ。手放してよいか」
「へぇ。非常の時に使う米は別に取ってありまする。手元の物だけでも三千石は動かせまする」
「よし。この辺りで売っておこう。御屋形様が三河の仕置きを早々に済まされれば兵糧を放出される可能性もある。さすれば相場は逆の動きになる事もあり得るからな。欲をかかずに利を確定する事も必要だ」
「店主、そうは仰せられてもこの米だけで元値の三倍近くにはなりますぞ」
「そうか、そうであったかの」
小左衛門の言葉に二人して笑いあった。
弘治三年(1557)七月中旬 相模国足柄下郡小田原町 小田原城 北条 氏康
「申し上げまする。越後の長尾勢が三国峠を越えて上野に入った模様にございまする。その数約八千」
「知らせ大儀であった」
儂の言葉に使いが“はっ”と申して下がっていくと、広間にいる者達同士で顔を見合った。広間には嫡男の新九郎、幻庵宗哲、左衛門大夫綱成、刑部少輔綱房といった一門衆、それに松田や大道寺といった重臣等が会している。
「佐竹や那須、宇都宮に同調する動きがありまする」
幻庵宗哲が息を吐くように話してきた。此度の状況は中々苦しいぞと申したいのだろう。
「宇都宮までもが旗を翻してきたか。つい先頃に儂の命で佐竹を動かし、宇都宮に反旗を翻していた壬生を成敗したばかりではないか。その恩義を反故にするとは不届千万だな」
「却ってそれが済んだのが大きいですな。それに正確に言えば、佐竹が動いたのは古河の公方様に命じられたからにございまする。宇都宮も公方様に恩を感じても後ろで糸を引いた北條に恩義は感じますまい。無論、北條のお陰とは分かっているはずですがな」
幻庵宗哲が正しながら説いてくる。思わず笑みが零れた。
「ふふふ、公方様を上手く使いすぎたか」
儂の言葉に宗哲が頷く。左衛門大夫も続いて頷いた。確かにその通りだな。
父の謀略によって、我が異母妹が先の古河公方様に嫁いだ。その妹が生んだのが今の公方様だ。だが、先の公方様には元々藤氏と名乗る長男がいた。先の公方様は力を持っている儂を嫌っている。そのためか先の公方様とそれに唆される連中は、古河公方家の重臣である簗田との娘に生まれた藤氏を古河公方にするよう望んでいた。儂は北條の武威を持って先の公方様を脅し、隠居させ、今の公方様を就任させた。公方様には北條に利となる文書を数え切れぬ程発給させたわ。公方とするために北條も財を使ったのだ。罰は当たるまい。幕府にお伺いを立て、京の公方様から“義”の偏諱を賜った。我が公方様は義氏と名乗り、簗田が押す藤氏公よりも正当性を持っている。
公方様を手駒にしたことに相甲駿の三国同盟も重なって、儂は関東で大いに暴れてきた。北條の勢力は急拡大したが、ここに来て諸将の相次ぐ離反が起きているのは、今までの歪みが来たという事であろう。
「今川に援軍を願おう」
「御屋形様。それは厳しいかと存じまする。今川参議様は三河で反旗を翻した松平の仕置きに向けて兵を進めておりまする。北條へ援軍を出す余裕は無いかと。援軍を願うなら武田が良いかと存じまする」
儂が今川への援軍要請を示唆すると、幻庵宗哲がすかさず反論を述べた。
「その方が言う事は儂も分かっておる。じゃが厳しいのは北條も同じじゃ。此度の戦、悪くなれば河越夜戦の再来になり得る。春を使って得た盟約、どこまで効果があるか試すのも一考じゃ。それに武田は長尾と和議を結んでおる。援軍を願っても兵は出せぬと返されよう」
儂の言葉に多くの重臣達が頷く。
「今川からの援軍が難しいのであれば、あるいは戦況が厳しくなれば、最後はこの小田原に籠ればよい。関八州広しと言えど、この小田原よりも大きな城等あるまい。敵が幾万押し寄せようと、烏合の衆でこの城は落ちぬ」
「ははっ」
松田左衛門佐や大道寺駿河守といった重臣達が儂の言葉に大きく頷きながら応じている。顔に不安は無さそうだ。よし、これなら大丈夫だ。後すべきは先の公方と藤氏への対策だな。古河に置いたままでは長尾と関東管領に使われる可能性がある。
「宗哲」
「はっ」
「永僊院の季竜周興禅師に急ぎ連絡をして欲しい。何とか古河城に先代と藤氏公を留めて置かれたしとな。左衛門大夫はその間に兵を遣わして二人を奪取。いや、御救いせよ」
「畏まってございまする」
儂の言葉に皆から笑いが零れる。
しかし先の古河公方も関東管領もしぶといの。こうなるといよいよ姿を消してもらう必要があるかも知れぬ。
弘治三年(1557)七月中旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信
「御屋形様、米どころか稗も粟もとんでもない値になっておりまする」
「それだけではございませぬ。塩も味噌も、いや、全ての値が上がっておりまする」
左馬助と刑部少輔が困ったように声を上げる。同席している勘助や馬場民部少輔も同じような顔だ。
「相次ぐ信濃方面への出兵もありまして、蔵に余裕はござりませぬ。面目ありませぬ」
蔵を管理している跡部尾張守が申し訳なさそうに頭を下げる。信濃へ出兵を繰り返したのは儂の判断によるものだ。“その方の責ではない”と声を掛けると、尾張守が少しだけ安堵したように応じた。
「米の買い取り値も上がっておりまするが、塩や味噌がそれ以上に高うなっておりまする。民は塗炭の苦しみを味わっておりまする」
民部少輔が民の気持ちを代弁する。民は年貢を納めて残った米で生きるために必要な物を手に入れる。物は総じて高くなっているが、甲斐では取れない塩や、塩が無ければ作れない味噌が極端に値を上げている。駿河から荷が入ってこないのだ。
「御屋形様、如何されまするか」
左馬助が儂に決断を促す。決めなければなるまい。今川に腰を折るか、戦うか。
「……左馬助。全軍を集めよ。すぐに南下を行う」
「御屋形様っ!それはあまりに」
「御意にございまする」
高白斎が儂を非難めいた目で声を上げるが、左馬助が続きを封じるように応じた。跡部尾張が驚いているが説明は後回しだ。
「勘助は太郎と室を抑えよ。恵林寺あたりに押し込めて置け。場所は任せる。殺すで無いぞ」
「はっ」
「それから織田と松平に文を書く。駿河へ侵攻するとな。乱波に急ぎ届けさせよ」
「御意にござりまする」
「民部少輔は飯富兵部少輔を捕らえるように。抵抗するのならば討ち取るのもやむ無し。太郎とは別の寺に幽閉せよ」
「畏まってございまする」
民部少輔が頭を下げて応じる。顔に迷いは無さそうだ。これまで話す限り、民部少輔の本音は今川との協調かも知れぬ。だが民部とは…、信房とは長い付き合いになる。儂の命に従うと決めてくれたようだ。
「刑部少輔は皆を広間へ集めよ。儂が皆に説明をする」
「ははっ」
刑部がすぐに席を立って小姓が控えている部屋の方へ向かっていく。
「高白斎」
「……はっ」
「その方はすぐに今川へ使者に赴き、今川の荷留のごとき買い占めを非難せよ。武田は民のため、否応にも立たねばならなくなったとな」
「そ、その様な事」
「通じなくともよい。武田の意を訴える事が肝要じゃ。それとその方の心は今川に向きつつあるようじゃ。最後の勤めを果たした後は甲斐に戻る必要はない。今川に庇護でも求めるがよいぞ」
「ご、御無体な事を仰せになられて」
「今までの忠義、大儀であった。下がれ」
高白斎の言葉を遮り、人を使って下がらせた。今川攻めの前に他の者に動揺が起きては困る。儂の決意を示すためにも高白斎は追い出す。
予定よりも事が早まったが、何れ行おうとしていた事だ。
胸の鼓動が徐々に早まって来るのを感じる。父を追放した時よりも緊張を覚えているのが分かる。あの時も何とか乗り越えた。此度もそうだ。
この高鳴りが収まった時、武田は海を手に入れ、海道に覇を唱える強国となっているだろう。
いや、なっておらねばならぬのだ。
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