第百七話 輻輳




弘治三年(1557)六月下旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




「こちらが今川方より受領した援軍の謝礼にございまする」

穴山伊豆守が丁寧に差し出して来た箱を受け取ると、箱の大きさに似合わぬ重さを感じた。中を検めると、光り輝く金粒が目一杯に詰められていた。重くもなるというものよ。しかしこの箱がまた美しい。漆を塗っただけと言えばそれまでかも知れぬが、木の目地が活きるように漆が美しく塗られている。春慶塗かの。

「確かに受け取った。大儀であった」

"ははっ"

伊豆守が頭を下げて左馬助と刑部少輔の次席に座ろうとする。同席している馬場民部と勘助が進んで席を譲った。伊豆守の室は我が姉だ。扱いは一門格になる。


「今川から謝礼も得た事じゃ。駿河へ攻め込む手筈を整えて行きたい所じゃが、まず皆に見せておくものがある」

「見せておくもの?」

儂が懐から文を出すと、左馬助が首を傾げてきた。

「そうじゃ。小県方の真田弾正から届いてな。山内上杉の関東管領殿が各地に文を送っているらしい。真田は武田と随分争ったからの。力になるとでも思うたようじゃ」

「関東管領様が?内容はどのようなものでございますか」

「それがの、左馬助。中々に面白き内容じゃ。関東管領殿は今、越後の長尾の元へと身を寄せている訳じゃが、上野より引き連れた手勢と長尾の軍勢で関東に向けて兵を挙げるとある」

「なんと。長尾は加賀や場北で何かと忙しいはず。その様な事を認めまするでしょうか」

左馬助が疑心の念をもった表情で問いかけてくる。


「確かにの。じゃが儂はこの話、長尾弾正少弼は乗ると思うておる。乱波どもの報せによれば、昨年の越後における刈り入れは芳しくなかったようじゃ。長尾の手元は寒かろう。ここで関東管領殿を奉じて北條を攻めれば、関東から米を奪う事ができる。依頼に応えて名を上げつつ兵馬の腹を満たす事が叶う」

「長尾が北條を攻めれば……。我等が今川を攻めても北條は援軍どころでは無くなりますな。もしやすると、北條が今川に援軍を乞う位かも知れませぬ」

「そうかも知れぬの」

刑部少輔が言葉を放つと、左馬助が同意を示した。


「関東の様子がどうなるか。今しばらく見つつ、今川が三河で本格的に戦いを始めたら出兵じゃな。問題は刈り入れの前になるか否かじゃ……。一月程度ならよいが、二月三月と大軍を動員する場合は、今川からの金で買う兵糧では到底足らぬ。棟別を課さねばならなくなる」

「民は税に苦しんでおりまする。これ以上の税は課せられますまい。一揆が起きては出兵どころではなくなりまする。ここは富士郡の利を条件に商家等から徴収すべきかと」

「刑部少輔様。酒の利は某。左様でございまするな」

「伊豆守殿、それは某も分かっておる。富士には酒だけでなく竹に紙と色々と銭になるものがある。尤も、この銭になるものがあるゆえに甲斐から銭が駿河に流れているのでござるがな」

刑部少輔の言葉に伊豆守が安堵したような表情を浮かべる。刑部が儂の方へと顔を向けて来た。


「刑部の策は一理ある。じゃが商人がどのような反応を示すか分からぬ。それにせっかく得る利を商人に渡しては面白くない。ここは借用とし、富士郡を治めたら上がる棟別で返すのが良いな。何、貸し渋る者がいたら脅してでも出させる。此度の戦、何としても勝たねばならぬ」

「ははっ」

儂の言葉に皆が頷いて頭を下げた。もはやこの中で今川との戦に尻込みする者はおらぬ。


「して御屋形様。奥三河と若殿は如何がされまする」

暫くすると馬場民部少輔が身体を儂の方へ向けて問いかけて来た。勘助の方へ目を向けて説明を促す。

「下條兵部少輔殿へは既に使いを出して兵を南下させるよう命をしておりまする。今頃は奥三河に入っておるかと。若殿は出兵の直前に屋敷へと兵を出して抑えまする。御裏方様も同じように致しまする」

勘助が説明をすると、民部少輔が少し驚いた顔をした。

「高白斎が報せを寄越したでな。謝礼が用意されているなら後は受け取るだけじゃ。下條兵部が南へ進む頃には伊豆助が受け取っておると思うてな。今川参議も流石に驚くじゃろうな。頭を抱える様子が目に浮かぶわ」


権中納言が死んで今川が苦しいのは間違い無い。尾張と三河で懸念がある中、下條兵部が南下したところで武田を相手には出来ぬはずだ。下條兵部の動きを見て、参議は武田が盟約を破棄して南下するやもと疑念を持つかも知れぬ。だが、甲斐に備えれば三河の仕置きが緩む。痛し痒しだろうの。


三河の仕置きが緩むようなら、適当な寺に火を点けるなりして一向門徒を焚き付けてくれる。三河は手の付けようが無くなるだろうの。フフフ、松平も一向衆も今川も三つ巴で疲弊するの。その中で我等を相手にするのは苦しかろう。


それにしても長尾と北條が戦となるか。我等が今川を攻めるには追い風となるが、この勝敗が着くようでは困るの。どちらも強くなりすぎる。となると今川との戦を早く収めて介入する事も考えておかねばならぬな。上手くいけば漁夫の利もあり得るわ。




弘治三年(1557)六月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 駒井 高白斎




「駒井高白斎様」

「はっ」

「お待たせ致しました。どうぞこちらへお越し下され」

近習の案内で今川館を奥へと進む。館は前回の訪問からまた少し手が加えているようだ。いつも来る度に景色が変わる。


景色といえば市井の様子も随分と変わっていた。富士から駿河の府中まで街道がすっかり整備され、途中の町も随分と栄えていた。田子ノ浦では酒造りや製紙で賑わい、清水には戦船だけでなく商いの船も多く停泊していた。蔵も随分と立ち並んでいたな。府中の西には行けなんだが、用宗の湊も同じように賑わっていると聞く。明や南蛮の船も来る事があるという。御屋形様から、今川館までの道中では物の値や扱われる品、量をよく調べるよう命を受けていたので、怪しまれぬ程度にゆっくりと進みながら調べて来た。調べれば調べる程に今川の豊かさに驚く。何処を訪れても品数が豊富なのだ。力の差は既に明らかではないか。この国を相手にして叶うのだろうか……。茫漠とした不安を抱えながら謁見となった。


不安と言えば昨日視察した取引所を思い出す。甲斐でも存在を聞く事が多い“駿河の取引所”を訪れてみたが、人の多さに驚き、扱われる品の多さに驚き、物の値の見方を覚えると米の値に驚いた。儂が知っている値よりも随分と高い。ここ数日の商いで急騰しているらしい。となると甲斐での米の値も直ぐに上がるはずだ。甲斐での物の値は今や駿河に引っ張られている。あの値では兵を食わせる量を確保出来ぬ。やはり今川とは手を携えて行くべきだ。帰国した後は御屋形様に今川攻めを再考頂くよう具申するとしよう。


近習が立ち止まった。儂の方へと振り向いて"この部屋へお入り下され"と案内をする。随分と簡素な部屋に案内された。侘び寂と言えば聞こえは良いが、どうにも殺風景な気がする。胸騒ぎを覚えていると、上段に入るための障子が開けられた。




弘治三年(1557)六月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




剃髪をした翁が平伏をして俺を迎える。雪斎と同じ位の齢だったか。

「面を上げるが良い。待たせたかな」

「いえ、然程待ってはおりませぬ。ご尊顔を拝し奉り恐悦至極にござりまする」

高白斎が面を上げながら応えて来た。應揚に"うむ"と応える。この翁とは幾度となく会ってきたが、今日は些か緊張の様子が伺える。上段と下段が分けられている部屋の中で尤も簡素な部屋へ案内したからな。高白斎がこの館へ来る時は、優美な源氏の間が出来てからはほとんどあの部屋へ案内されていた。この様な殺風景な部屋は初めてのはずだ。


「道中疲れたであろう。ご苦労であった。さて、ご老体を長く拘束してはいかぬ。用件を聞こう」

敢えて棘のある言い方をすると、高白斎の顔に緊張が増した。

「はっ。されば我が主、武田大膳大夫においては、今川家と武田家の盟約を続けたいと思うておりまする。こちらは我が主からの文にございますれば、お納めいただきたく存じまする」

高白斎が恭しく差し出した書状を三浦左衛門尉が受け取って俺の前まで運んでくる。ゆっくりと覆いを取って中をあらためる。


……引き続き誼をよろしく、か。

甲斐の狸が書いた文を読み終えると、高白斎にも聞こえるように大きくため息を吐いた。高白斎の目を確りと捉えて静かに、然れど腹からの声を出す。

「その方は南信濃の下條兵部少輔が兵を南へ向け、我が領である三河に踏み入っているのを存じておるか」

俺の言葉に高白斎が驚いた様な顔をする。ほぅ、知らなんだか。もしくは相当な役者か……。

「確かに、三河の奥には今川に不満をもつ国人がいる。織田との戦いで先代が亡くなり、増長している者がいるのも事実だ。だが、三河は我が今川が治める国だ。軽々と武田が踏み込んでよい地ではない」

「参議様の言やごもっともにございまする。急ぎ国に戻って主に伝えまする」

高白斎が慌てたようにして頭を下げる。この翁が知っていようが知らまいがどちらでも良い。下條兵部が一人で動くとは思えぬ。大膳大夫が裏で糸を引いているのは間違い無い。今川も随分と舐められたものよ。


今川を統べるようになって分かった義元の気持ちがある。家同士の格というか、立場を大きな視点で気にするようになった。駿河と伊豆を治める中で、国主として色々と学んできたが、この感覚は最近になってから強くなった。

第二次川中島の戦いの時、武田の援軍に出向いた義元が強気外交で長尾に和議を押し付けて武田よりも目立っていた。あの時はもっと穏便にやれないかと思わなくも無かったが、武田に今川の力を見せようとしていたのだと思えば分からんでもない。国と国の力関係をはっきりさせようとしていたのだろう。


「高白斎。その方は一度国に戻り、大膳大夫殿へ伝えよ。参議が今後の盟約に不安を覚えていたとな」

“立腹していた”では無いのが味噌だ。国と国の関係で怒りを露わにしては面子が解決を邪魔する事がある。不安なら解けばいいだけだ。俺が怒っているという事は、今日の接遇を見て高白斎が勝手に伝えるはずだ。甲斐の狸からは“誤解があるようだ”と白々しい文が来るかも知れない。

「は、ははっ。必ずや伝えまする」

高白斎が額を畳に付けるように頭を下げ、慌てたように前を下がっていった。




……しかし次から次にやる事が多いな。遠江の内政にも手を入れたがったが三河出兵が先だ。岡部丹波や松井兵部が尾張で頑張っているが、そろそろ俺が三河に出張らないと士気の維持が難しいだろう。兵糧の類が必要になるな。今回の出兵は備蓄の兵糧で十分に行えるが、出兵を理由に敢えて市場から買い揃えて武田を困らせてやろう。丁度このところ米の相場が急騰している。草ヶ谷蔵人が堺で買い占めた事で、東国の市場に流れてくる量が激減したからだ。ふむ……塩や味噌を適当に買えばいいな。生活必需品が総じて高くなるだろう。領内は必要に応じて配給で調整すればいい。史実とは違ったやり方の荷留だな。すぐに甲斐は干上がるはずだ。


強気外交が戦火へとつながる可能性があるのは確かだ。だが、弱気外交は何も産み出さない。前世の教訓だ。

武田晴信……。俺を怒らせたらどうなるか分からせてくれる。お前は既に甲斐と信濃の二カ国を持っているのだ。これ以上高望み等せず、俺の顔色でも窺っていれば良いのだ。



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