第百六話 思惑




弘治三年(1557)六月中旬 山城国上京 清涼殿 草ヶ谷 之長




「蔵人」

「はっ」

目の前の主上に呼ばれて頭を下げながら応える。まさか清涼殿に呼ばれる事になるとは。流石に少し緊張を覚えた。


朝廷から義元公に対して正三位権大納言の贈位贈官がされる事となり、先程無事に式が終わった。主に文を書かねばならぬ。そう思って清閑寺の御所へ戻ろうとしていると、関白殿下から呼び止められた。主上から内々のお話があるという。言われるがまま殿下に付いていくと、清涼殿へと案内された。清涼殿は基本的に主上の御殿にあたる。時折略式の除目が清涼殿で行われることはあるがそれ程多いわけでは無い。ましてや外様で、形ばかりの蔵人である麿が清涼殿に入る事は稀と言っていい。幸い蔵人として昇殿の勅許は頂いている。清涼殿に上がることに差支えは無いが……。


「よう来た。近うよりゃれ」

主上が扇子を動かして殿下と麿を近くに招く。主上の他には参議山科内蔵頭様がお見えであった。山科卿が見えるという事は銭に関する話かも知れぬ。

「五位蔵人を連れて参りました」

殿下が申し出ると、主上が笑みを浮かべて応じられた。

「高辻五位蔵人におじゃります」

「そう畏まるでない。楽にするがよいぞ」

優しくお声を掛けて下さるが、自分の肩肘が少し張っているのが分かる。府中にいた頃からは想像も付かぬ場所で、いと畏し御方を前にしている。肩も張るというものだ。


「駿河の亜相においては、誠に惜しい人物を亡くした」

主上が、麿の背の向こうにある庭を眺めながら呟くように仰せになった。そのお顔には寂寥の感がある。廷臣として応えるべきか、今川の手として応えるべきか逡巡する。

「亡き権大納言殿は尾張を掌中に収めて秩序ある静謐な地を広げ、御宸襟を安んじ奉らんとしておじゃりました。志半ばで散る事となり、さぞかし無念でおじゃりましょう」

無難に応えたが、麿の言葉に皆が頷かれる。

「なれど御上、駿河には参議がおりまする」

「そうじゃな。朕もあの者には期待しておる。東宮の頃に見て堂々しておると感心したものよ」

主上と殿下が麿の顔を覗く。山科卿も微笑を浮かべて"仰せの通りでおじゃりまする"と言葉を続けてから麿の顔を見た。麿の後ろにある今川をご覧になられている。その様に感じた。静かに頭を下げて応える。


「ところで蔵人を呼び出したのは他でもない。改元についてそちの考えを聞きとうてな。亡き亜相の支えもあって、朕は即位こそできたが元号はもとのままじゃ。先帝からも新たな御代、新たな元号がよかろうと言葉を賜っておる」

やはり改元の事か。何となく内々の話という時点で予感はしていた。改元については主上が叡慮を零されるとお聞きした時に参議様へ意向を図ってある。主からの文には、“費えを出すのは構わないがあまり矢面に立つな”とあった。将軍家と三好の事を仰せになっているのだろう。

「亜相という支えを失って何かと心許ない。それに世はまだ戦続きじゃ。ここは元号を改めて世の静謐を祈念したい」

上手い言葉の選び方だ……。主上が庭先から麿の方へとご尊顔を動かされる。流し目が来た。

「御上にここまでご信頼賜るとは、今川も名誉なことよの」

関白殿下が主上に寄り添う言葉を発せられる。

「……誠に仰せの通りでおじゃりまする」

どうにも答えを窮するな。今川の臣として応えるべきか、朝家の廷臣として応えるべきか。……いや、ここは今川に寄って応えるべきだな。方々もそれを期待しているはずだ。麿が存在する価値等その程度であろう。今川に寄った回答をするのならば早い方がよい。他の廷臣のように勿体振って時をかけるのは性に合わぬ。


「既に御上の御叡慮を今川参議殿へ伝えておじゃりまする。参議殿は謹んで費えを献上したいと申されておりました」

「それは良い。重畳重畳じゃ」

主上がお顔を明るくされる。だが、関白殿下と参議内蔵頭様は僅かに顔を明るくした後、直ぐに渋いお顔を示された。理由は想像がつく。


改元は朝廷と幕府とが協議して行う習わしになって久しい。それを今川に話されているという事は、幕府を無視、或いは二の次にして行おうとしているという事だ。公方様が費えを出せぬばかりか、朽木に逼塞している以上致し方無いが、事を知れば公方様も室町も怒ろうな。武家伝奏の公家衆とて立場を蔑ろにされたと不快感をあらわにしよう。それに京の都を事実上支配している三好とも調整が必要だ。此度の改元は何かと骨が折れるし敵を多く作るだろう。


……そうか。だから麿に白羽の矢がたったという訳か。

麿はこの禁裏で今川の手として見られている。その立場を上手く使えという事か。フフフ、元々麿の身等今川あっての事だ。よし、やって見せようではないか。内なる闘志が燃えた。


「恐れながら一つお願いの儀がおじゃりまする」

「申してみよ」

「はっ。改元に向けて室町、武家伝奏、三好等と根回しをして参りまする。ただ、麿のみの力で進めるには無理がありまする。御上の内意とさせて頂きとうおじゃります」

改元等という事を独断で進めては、梯子を外された時に謀叛人とされかねぬ。ここは方々の言質を取っておく必要がある。

「無論じゃ。それで事が進むなら構わぬ。良きにしてたもれ」

主上のお顔をじっと見てから関白殿下、内蔵頭様の顔も念入りに覗く。矢面に立つのは麿と今川だ。お二方にはせめてこの証人になってもらう。

最後に今一度主上の御尊顔を見た後、笏を立てて恭しく頭を下げた。



下げた頭に"参議に宜しく伝えてたもれ"とお言葉を賜る。応じながらゆっくりと頭を上げると、済まなさそうなお顔をされている殿下が目に入った。山科卿は安堵したような、同情をするようなお顔だ。


方々の前を下がると、誰にも聞かれぬようにして小さく息を吐いた。この件は骨が折れる話になるだろう。幕府へ話をするのは全て決まってからでいいな。先に話をしてもいい結果にはならぬ。問題は三好だな。花を三好に持たせるような形で改元が成れば……、表に出るのは三好になる。まず話してみなければ何も始まらぬ。確か主に家政の松永弾正殿と面識があったはずだ。文を書いて頂こう。武家伝奏はどうしたものか。関白殿下にご相談するか。時が掛かるな。改元という大きな事を成すのだ。一つ一つ確実に進めて行けばよい。


しかし幕府を無視して改元か……。戦乱とはいえ大きく世が変わりつつあるな。

親幕府の公家衆からの非難を想像すると、一人失笑した。只でさえ新参で銭持ちの当家には嫉みが多いというに、また敵が増えるだろうな。だがこの改元に向けた動き、数多の公家が色々と動きそうだ。草を増やして輿と牛車の動きを追わせよう。誰が誰に会うか。面白そうではないか。


警護もさらに厚くしなくてはならぬな。懐がかなり寂しくなりそうだ。帰って算盤を弾かねばならぬ。




弘治三年(1557)六月中旬 駿河国富士郡 富士山本宮浅間大社 穴山 信友




「こちらが駿河の御屋形様からお渡しするよう下知されている金にございまする」

富士浅間大社の大宮司を務める富士兵部少輔殿が漆で彩られた小箱を開いて儂の方へ預ける。中を改めると、甲斐で御屋形様が発行している金のような、ごろっとした大粒の金がいくつも入っていた。光輝くその様に思わず息をのむ。

「謹んで頂戴いたす」

丁重に蓋を閉め、押し戴いてから後ろに控えている近習へと持たせる。

「これは受け取りの証文にござる」

「確かに頂戴致した」

御屋形様の花押が入った証文を渡すと、大宮司殿が確と中をあらためてから受け取った。


盟約延長の回答をするために駒井高白斎殿が富士郡に入って大宮司殿の歓待を受けると、援軍の謝礼が既に用意されていた。直ちに使いが躑躅ヶ崎館に走らされ、儂が受け取りの使者として出向く事になった。どうやら謝礼は兵糧ではなく金となったらしい。今川は三河と尾張で戦続きだ。兵糧は手元に置いておきたいのかも知れぬ。御屋形様や左馬助殿は残念がったようだが、少なくない金の量だ。矢銭の足しになる。


「せっかくお越しになったのじゃ。一献如何か」

「是非にお供させて頂こう」

大宮司殿が儂を奥の部屋へと案内する。席に座ると直ぐに肴と酒が運ばれて来た。大宮司殿と盃を交わして酒を飲む。うーむ、旨い。これは誠に旨い。


「田子ノ浦で作られた酒にござる」

ほう。すぐ近くではないか。

「旨いでござるな。やはり水がいいのでござろう」

「ごもっともでござる。富士の水で作る清酒は飛ぶ様に売れてござっての。酒作りが追い付かぬ位でござる」

大宮司が満面の笑みで応える。随分と潤っているのであろう。初めて出会った頃の顔とはまるで違う。大宮司は今川の臣下となって腰を折る事になったが、その決は間違ってはいなかったと言える。


……これ迄は。


間もなく高白斎殿が府中に行って盟約延長の話をするだろう。それを受けて今川参議様は三河へ向かうはずだ。三河で激しい戦いが始まった時が勝負よ。今のところ富士郡までは大宮司の兵しかおらぬようだ。御屋形様に報告しておこう。侵攻時は富士川の以東と興国寺城あたりまでを速やかに抑える必要がある。そこまで落とせば今川の兵が来ても北條が出張って来ても迎え撃って戦える。


先頃深志まで呼び出されて御屋形様の決意を聞いた時には驚いた。今川と戦う事に不安が無いわけでは無い。だが武田がこのままでは今川に呑まれるという御屋形様の言葉も分かる。当家は甲斐へ物を流す事で銭を得ているが、甲斐が衰え銭を出せ無くなれば我が家も苦しくなる。今の内に手を打たねばならぬ……。


甲斐から富士郡は攻めにくい場所だ。過去にも何度か武田による出兵は失敗している。だが此度は失敗が許されぬ。御屋形様は富士郡が落ちた暁にはその利権を儂に下さると約束された。田子ノ浦の酒作りも儂のものになる。我が家の行く末を掛けて勝負に出る時だ。


大宮司殿が空になった儂の酒杯に酒を注ぐ。

儂も満面の笑みを浮かべて礼を伝えた。




弘治三年(1557)六月中旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 上杉 憲政




弾正少弼の近習に呼ばれて広間に向かうと、弾正少弼とその重臣が集まっていた。上座へと誘われて座ると、皆と相対する形になった。


「弾正少弼。急な呼び立てどうしたかな」

「関東管領様をお呼び立てする形になり申し訳ありませぬ。事実を確認せねば看過できない事態が出来致しましてお越し頂きましてございまする」

弾正少弼が丁寧な口調で余に話しかける。だが後ろに控える重臣達の顔はどこか疑心を持っているように見えた。大方あの事だろう。

「左様か。看過できぬとはまた穏やかでないの。何ぞ事でも起きたかな」

「はっ。さればお聞き致しまする。常陸の佐竹や下野の那須等から某に文が届いておりまする。管領様から兵を上げるゆえ参集せよとの檄が飛んできたが、これは誠かと内容を検めるものでございまする。管領様、文を送られた事と内容は確かでございまするか」

「うむ。相違ない。上野より引き連れた我が手勢に加え、長尾の兵を引き連れて北條討伐の兵を上げると送った」

“なんと”

“やはり!”

余の言葉を受けて弾正の家臣達が姦しくなる。弾正少弼が"皆控えよ"と声を上げた。


「管領様、某に相談も無く、長尾の兵が北條討伐に向かうと文を出されては困りまする」

「東海で覇を唱えた今川が織田に破れて混乱していると聞く。三国同盟の一翼、しかも北信でその方も煮え湯を飲まされた今川が動けぬのじゃ。これは北條征伐に向けた絶好の好機ぞ」

「なれど管領様。今川が苦しいとはいえ、まだ武田がおりまする」

「それはそうじゃが、この好機を逃さば今川は力を取り戻し、その後は再び北條の力となるやも知れぬ。さすれば関東征伐など絵空事になろう」

"関東よりも信濃でござる"

"加賀も能登もございまするぞ"

弾正の家臣等が声を上げて近隣の国を上げる。余が弾正に関東征伐させようとするのを非難したいのだろう。


「北條に苦杯を舐めさせられている将は多い。余が兵を率いて関東入りすれば、関東菅領の名の下に集う将は多いはずじゃ。のう弾正。ここが正念場よ。それにじゃ、余は此度の関東征伐の暁にはその方に管領職を譲ろうと思っている」

"なんと"

"御実城様が関東管領に"

先程まで反対一色だった家臣等が気色ばんでいる。弾正も眉が動いた。

……この男はこの話に乗ってくるはずだ。春日山に逃れて幾久しく、弾正少弼の様子を見て来た。人はこの者を無欲で義の人と言うが、この者は決して無欲では無い。無欲のように見られる欲を持っているだけだ。


「某を……関東管領にと?」

弾正少弼が眉を上げて驚いた表情で問いかけてくる。ようし、後一歩よ。

「左様。その方を余の養子として我が上杉家の家督を継がせたい。その為には関東を掌中に収める必要がある。弾正、関東へ出兵が必要なのじゃ」

儂とてまだ四十になっておらぬ。上杉の名跡を我が子に継がせたいとは思わない訳ではない。だが時が無い。北條を成敗する事の方が先だ。これこそ我が使命だ。


「弾正、この通りじゃ」

弾正少弼に向かって平伏する。

「管領様、お止め下され」

弾正少弼が身を乗り出して儂を起こそうとする。その手を取って“頼む”と懇願した。

「……分かり申した。関東管領様にそこまで願われては応えぬ訳には行きませぬ」

“御実城様!”

家臣等が騒ぐと、弾正が手で制す。


「儂は関東へ出陣する。皆兵を集めよ。加賀は上様と朝倉に使者を出して抑えさせる。兵も幾らか置こう。武田とは和議の最中だ。義を犯して我等に向かってくるなら容赦せぬ。此度は三国峠を越え、上野と言わず一気に北條を片付ける」

落ちた……。ふふふ、やはり落ちたか。

「おぉ!左様か。決めてくれたか!」

長尾の家臣たちが騒ぐ前に弾正少弼の手を取って声を上げた。


「管領様。この弾正少弼、微力ながらもあなた様のために尽くしまする」

「うむ。うむっ!是非に頼むぞ」

弾正少弼が余に向かって頭を下げると、長尾の家臣たちが渋い顔をしながらも弾正少弼に続いて余に頭を下げる。


忙しくなるの。小田に江戸、それに里見もだな。諸将に文をもっと書かねばならぬ。

北條左京大夫……。積年の恨み晴らさでおくものか。いまに目に物を見せてくれる。




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