第百五話 追放




弘治三年(1557)六月上旬 尾張国愛知郡鳴海城近郊 柴田 勝家




「右衛門尉殿」

「おぉ、権六。戻ったのか。犬山はどうであった」

本陣の陣幕をくぐると、大将の床几に腰を掛けている佐久間右衛門尉殿へ声を掛けた。儂が出向いていた犬山方面がどうなったか問いを受ける。

「城を出て来た下野守様を完膚なきまでに破り申した。今は殿が勢いそのままに犬山城を囲っておいででござる」

「左様か。それは良かったの。ご苦労であった」

右衛門尉殿が儂に労いの言葉を掛けるが、その表情が浮かばれない。むしろ犬山方面が順調と聞いて焦っているようにも見える。


お味方が桶廻間で今川本隊を破ると、犬山城主である織田下野守様が早速論功行賞を求めてきた。殿は大高や鳴海に今川勢が残っているのでまだ早いと仰せになったが、下野守様が危機は去ったと仰せになって譲らなかった。今川本隊を退けたのは我等や馬廻衆だ。手柄をろくに上げていない下野守様には焦りがあったのだろう。その内交渉は決裂し、下野守様が居城の犬山城から出兵して南の楽田城へ奇襲を仕掛けた。下野守様の奇襲で味方の城がいくつか落とされたが、殿が右衛門尉殿を鳴海城前の陣に置いて北上されると、今川を打ち破って士気が高い味方が瞬く間に下野守様の兵を圧迫した。野戦でも大勝利を収め、下野守様は居城の犬山城に押し込まれている。近い内に決着が付くだろう。それに比べてこちらは……。


「今川方の様子は如何でござるか」

聞かぬ訳にはいかぬ。状況を聞くと右衛門尉殿が困ったような表情を浮かべた。

「何度も攻めたが落ちぬ。城主の岡部丹波守が兵を良く纏めておる。このままでは味方の兵を徒に失うばかりゆえ、今は陣を構えて様子を見ておる所よ。今川の水軍が上陸しては城へ兵糧を補給するでな、敵の士気は変わらず高いままよ」

「水軍は止められませぬか」

「味方の水軍は小舟を集めた集団に過ぎぬ。今川の水軍とは規模が違い過ぎて話にならぬ。その方も今川の水軍を見てくるが良い。まさに壮観とはあの事よ」

「それ程でございまするか」

「うむ。金を喰う戦船をあれだけ用意できるとは、流石は今川と言わざるを得ぬ」

「上陸した所を攻めるのは難しいのでござるか」

「荷駄部隊の前に完全武装した兵が降りてくるのじゃ。これがまた強うての」

「左様でござるか」

打つ手が無いという事か。さてどうするか。


「今川は西三河で反乱が相次いでいるという。尾張と東三河から挟撃をしたいところであろうが、我等がここで尾張の今川勢を釘付けにしておれば挟撃は叶わぬ。我等も役目を果たしていると言えなくもないが、その程度では殿のお許しは得られぬであろうな」

「難しいでござろう」

右衛門尉殿の呟きに頷いて応える。何か策を考えねばならぬ。だがまずは今川の水軍とやらを見てくるか。彼を知ってから出来ることを考えるとしよう。




弘治三年(1557)六月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 寿桂尼




部屋に入ると、参議と三浦左衛門尉、それに朝比奈備中守が待っていた。妾の姿を見て頭を下げている。北條助五郎を少し後ろにして座らせ、妾が参議殿達の前に座った。

「御加減は如何でございまするか」

参議殿が笑みを浮かべながら優しく問いかけてくる。


「随分と良くなりました。心配を掛けましたね」

「我が子を失ったのです。御心中御察し致しまする」

「実の父を失った参議殿も悲しいはずですが、随分と落ち着いておりますね」

「当主たる某に涙を流している暇はありませぬ。心の中で泣いておりまする」

参議殿が幾等か哀愁を帯びた表情で言葉を放つ。言葉と表情を真に受けるのならば悲しみはあるという事か。それにしても出陣前の参議殿とは顔付きがまるで違う。以前から大人びた所はあったが今は大人に見えるだけではない。老獪ささえ感じる。


「参議殿の事は頼もしいと思うておりましたが、ここまでとは思いませんでした。さて、そなたは忙しい身。本題に入りましょう。何か妾に相談があるとか」

「はい。御祖父様の事にございまする」

「御祖父様……。武田陸奥守殿の事ですか」

問いかけると、参議殿が低い声で“はっ”と応じた。

「陸奥守殿がどうされました。何か問題でも?」

「此度の戦において父上が討ち死し、我が今川は手痛い傷を負いました。今川の状況を見て、近隣の諸国が何かと我等に手出しをして参りましょう。盟約を結んでおるとは言え、甲斐の武田とて油断はできませぬ。御祖父様は大膳大夫殿に追われた身なれど、何時また武田と通じても可笑しくありませぬ。いや、既に通じているかも知れませぬ」

「それはそうかもしれませぬが、だからと言って如何致そうとしているのです」


「京の蔵人によれば、御祖父様は公家衆と文をやり取りする事が多いようでございまする。幕府の政所とも頻繁に文を交わしているとか。六郎のためか、余生を幕府に尽くそうとされているのかは分かりませぬが、何れにしても府中で事を成すにはやり難い事でしょう」

「府中ではやり難い……。そなたもしや」

「はい。御祖父様には京で相伴衆としての活動にご専念頂こうかと考えておりまする」

「相伴衆……」

そうか、陸奥守殿は相伴衆であったか。権中納言殿は……義元は義父に気を使う事も多かった。それを見ていた参議殿としては、煩わしくなりそうなものの芽を今の内に摘んでおきたい。そういう事なのでしょう。

「ふふふ。誠に大きくなられましたね。よろしいではありませぬか。妾はそなたの考えに賛意を示しますよ。ただ、陸奥守殿が京へ行く時はそれなりの隠居料をつけて差し上げなさい」

「御意にございまする。それでは御祖父様……、陸奥守には某から話をしておきまする」

「分かりました」

妾が承知すると、参議が頭を下げて応じた。これで相談は終わりと皆下がるのかと思ったがその様子が無い。どうしたのかと思っていると、参議殿が“今一つご相談の儀がございまする”と申してきた。


「何でしょう」

「陸奥守殿を京へ送ることで、府中での懸念は一つ払われまするが、朝廷や幕府がある京で不審な動きをされては困りまする」

参議殿が頭を上げながら言葉を放つ。上げられた顔と目が合うと、そこには鋭利な刀の様に冷徹な顔があった。自然と唾を飲む。

「……それは、その通りですね」

「ついては御祖母様にも上洛頂き、陸奥守の監視をお願いしたく存じまする」

「なんと!?妾に京へ上れと!?」

「はい。御祖母様が近くで陸奥守を見張ってくれるのならば何の心配もありませぬ。無論、御祖母様には不自由無い化粧料をお渡し致しまする」

低く、冷たい声で参議殿が話している。そうか。目の前の孫は陸奥守殿だけでなく妾もこの館から追い出そうとしているのか。動悸がした。胸が高鳴っている。


「そなたはっ……!氏親公以来三代に渡って今川を支えたっ……!この、この妾を追い出そうとするのですか。いつも近習をしていた備中はまだしも、左衛門尉もおりながらこの仕置は何ですかっ。義就っ!何か申しなさい」

「尼御台様、お家のためにございまする」

「御祖母様。某は御祖母様を追い出す訳ではありませぬ。京で今川のために引き続き尽くして欲しいと申しておりまする。それに左衛門尉は関係ありませぬ。某が、今川の当主である余がお願いしているのです」

妾が声を上げても、参議だけでなく左衛門尉も備中守も微動だにしない。よく手懐けているようだ。つくづく目の前の孫が恐ろしく思えた。


「……っ!」

「如何されました」

不意に昔の事が頭を過った。

氏親公が病に倒れた時、周りの大名は今川を喰わんと嗾けて来た。妾が立たねばならぬと思うて政を仕切った。その後は氏輝に任せて見たが、身体が弱いあの子に国は纏められなかった。弱き者に今川の当主は務まらぬ。そう思うたからこそ、我が子に手を掛けてまで義元に家督を継がせたのでは無かったか。


それを思えば、今目の前にいる孫の何と強き事か 。この孫は義元を越える当主となるかも知れない。その様に思うと、込み上げた怒りがすぐに鳴りを潜め、目の前の孫を支えようという気持ちが湧いてくる。

「……参議殿」

「はっ」

「苦難の道を行くのですね」

強い当主には孤独が付きものだ。この孫は義元にとって相談相手たりえた妾を遠ざけようとしている。雪斎も亡き者となっている。この孫は息子よりも強い存在となる代わりに一人を感じるだろう。


「……はっ」

「妾の上洛、委細承知しました。安心なさい。妾は何処にいても今川のためになることを致します。参議殿が今川のためにある限り、迷惑にはなりませぬ」

「お言葉胆に命じまする」

「参議殿」

「はっ」

「助五郎を都へ連れて行くわけには行きますまい。御頼み申します」

「承知致しました。ご安心なされませ。余がしっかりと面倒を見まする」

「お願い致します」

目の前の孫に平伏と呼べる程頭を下げる。孫が一人の道を覚悟しているのだ。妾が頭を深く下げたという事が孫の為にも助五郎の為にもなるだろう。




「助五郎。不意に別れが参りましたが引き続き励むのですよ」

参議達が下がった後、助五郎に相対して言葉を掛けると、助五郎が“御祖母様……”と呟いて不安そうな顔を浮かべた。

「いずれそなたは北條へと帰る事になるでしょう。それまではこの館で多くを学びなさい。参議殿もその方をしっかりと面倒見てくれるはずです」

「はい。御祖母様」

「まだ別れまでは暫く時がありましょう。それまでは精一杯そなたの為に出来る事をしておきましょう。ただ、今は一人にして欲しいのです。部屋に下がって軍学を学んでおりなさい」

「御意にございまする」


助五郎を下がらせて一人になると、肩の力を抜いて大きく息を吐いた。まさかこの歳になってから京に住まう事になるとは。中御門にいた頃とは随分と景色が変わっていよう。府中と比べて洛中はどうなっているか。都から今川の隆盛を見守る事にしよう。



……知らぬ土地に送られるよりは良い。そう思うた。




弘治三年(1557)六月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「お帰りなさいませ」

部屋に入ると、聡子が三つ指をついて丁寧に俺を迎えた。何時もの事ではあるが、疲れた心に和むものがある。

「今茶を淹れまする。少しお待ちくださいませ」

聡子が鐵瓶で沸かした湯を使って丁寧に茶を点てる。茶が点つと、俺の横に座って静かに佇んでいる。点ててくれた茶を飲んだ。中々に旨い。心が落ち着いた。


「そなたの茶が、張っている気をほぐしてくれるようだ」

「まぁ、それはよろしゅうおじゃりました」

聡子が柔和な笑みを浮かべた後、首を傾げている。気が張っていると言った事が気になったのだろう。こういう時、聡子は"どうした"と聞いてくることが少ない。狙っているのか、天然なのか分からないが、首を傾げたり目をきょとんとしたりする。奥ゆかしいというか、俺の気分で話したり話さなかったりできるので助かっている。


「父上が討ち死にして皆に少なからず不安がある。これを落ち着かせるためには皆を導く船頭が必要だ。だが、船頭が多くいては皆が混乱し、終いには船が沈む」

聡子が俺に寄り添うように身体を寄せ、言葉に耳を傾ける。


「だからな、御祖父様の陸奥守には京へと行ってもらう事にした。その監視として御祖母様にも京に上ってもらう」

「御祖父様と御祖母様に?」

聡子が少し驚いたような顔を浮かべた後、ゆっくりと頷いた。気が張った理由と船頭の意味が分かったのだろう。


寿桂尼に話した後、信虎の元へと赴いて、京へ上るように依頼という体の命を下した。はじめは訝しんでいたが、曲がりなりにも甲斐の国主だった男だ。すぐに俺の意図を察していた。静かに“分かり申した。某は京へと参りますゆえ、六郎を何卒御頼み申しまする”と、今までにない殊勝な態度で頭を下げて来た。あの顔を見ると、甲斐の武田と通じる可能性は低いと感じたな。とにかく六郎が可愛く、晴信が憎しといった様子だった。館からは追い出すが、五位蔵人に命じて陸奥守への気遣いは続けよう。上手く行けば手駒に出来るかも知れぬ。三河で六郎は頑張っている。少しでもいいから加増させて陸奥守を安心させるのも手だな。


聡子が俺の右手を両手で包み込むように取って優しく撫でる。

「この家を……、皆をお導きくださいませ」

「うむ」

「それに……」

聡子が俺の手を彼女の腹に持っていく。

「彦五郎様は一人ではありませぬ」

「もしや……」

「はい。ややができました」

聡子が照れた様に笑みを浮かべて俺の顔を見ている。可愛いじゃないの。


「それは嬉しい知らせだ。そなたと子のためにも励もうぞ」

聡子を引き寄せて肩を抱く。いつにも増してその存在を愛おしく想う。


暫くすれば三河へ出兵だ。

今はこの時間を大事にしよう。

心からそう思った。




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