第百三話 機転




弘治三年(1557) 五月下旬 和泉国泉北郡堺 納屋 草ヶ谷 之長




納屋の入り口をくぐると、見知った番頭が少しだけ驚いた顔を浮かべ、主人に取り次ぐと下がっていった。先触れも無く訪れたが、今井宗久殿は奥にいるようでよかった。伴として連れて来た弟の左近衛将曹知長と顔を見合わせると、知長がお道化た表情を浮かべる。賭けは麿の勝ちということだ。京から堺までの道すがら、弟は急に訪ねても相手がいないかも知れぬと心配していた。だが、麿は突然訪れてもいると確信していた。


麿が慌ただしく京で動いていることは堺の商人なら把握しておろう。京での事が済めば堺に来るやもと想像しているはずだ。麿が逆の立場であれば間違い無く店で準備しているだろう。


先日、主である参議様から権中納言様が落命されたと文が届いた。文には速やかに都における関係者を訪れ、今川に対する不安を払拭するよう命が書かれていた。文に従って関白殿下や久我権大納言様、山科内蔵頭様等、親密な関係をもつ公家を訪問した。幸い主上にも目通りが叶った。驚いたのはお会いした多くの方が落ち着いていた事だ。権中納言様が命を落とした事を聞いた時こそ驚かれるものの、参議様がご無事で今川を統べられるとお聞きになると安堵の表情を浮かべられる。お会いした多くの方々は参議様の人となりを知っているから安堵されていたのだろう。


主上におかせられては、今川権中納言に贈位を検討するよう関白殿下等に命じられていた。有難い事ではあるが、事が正式に決まれば謝礼を献上せねばならぬ。後で関白殿下にお聞きした事ではあるが、主上は上皇の御代より続く弘治の元号を改元されたいと、叡慮を零される事があるらしい。何かと朝廷に貢献している我が主から献金を得ようとされたのかも知れない。……いかぬ。主上の御心を邪推するようになったとは、麿も随分と不届き者になったものよ。




「どうぞこちらにお越しくださいませ」

しばらくすると、番頭が戻って来て奥の部屋へと我等を案内する。床の間には皐月の花が一輪だけ飾られていた。如何にも今用意したような花飾りだ。慌てて飾ったのか、慌てて出迎えたと見せるためか……。商人とのやり取りは何処か公家のやり取りと似ている。今日も腹の探り合いが始まると思うと、小さく笑みが零れた。


「これはこれは五位蔵人様に左近衛将曹様、ようこそお越し下さいました」

足音がしたかと思うとすぐに宗久殿が現れた。

「先触れもなく訪れ、誠に申し訳ない事でおじゃる」

「先触れの無い来客等、商人にとっては日常茶飯事にございまする。お気になさらずに下さいませ」

宗久殿が笑みを浮かべながら麿と弟の前に座った。満面の笑みを浮かべているが、どこか目が笑っていないように見えるのは穿った見方か。


「さて、急なご来所如何されましたかな。尾張では大変な事が起きたと聞いておりまするが……」

「流石にご存知であられたか。左様、誠に残念ではあるが、今川権中納言様が落命された」

「此度今川様の兵は三万にも及んだとか。それが尾張の守護代のそれも奉行筋に敗れるとは、世も変わったと驚いておりまする」

「肩書が無用とは申さぬが、昔程意味を成さぬものになりつつある事は、商人たる宗久殿がよくご存知でおじゃろう。身分だけで食は満たされぬ」

「ほほほ、それを申さば、お公家様であらせられながら、今川様の蔵を親子で執り持たれる蔵人様こそよくご存知でありましょう」

気兼ね無い宗久殿の言葉を弟と笑うと、納屋の者が茶と菓子を運んで来た。麿の心持ちを試しているのかもしれぬ。ここはあえて悠長に応じて余裕を見せよう。


「これは氷室を模した菓子でおじゃるかな」

「左様にございまする。流石は茶人と名高い蔵人様にございます」

「そう煽ててもろうても何も出ぬぞ。うむ。美味しゅうおじゃる。茶もよく冷えていて結構におじゃるな」

菓子に続けて湯呑みの茶を頂くと、コロンと音がする。

赤鳥堂の煎茶に間違い無いが、珍しいのは氷が入っている事だ。梅雨に入り京も堺も暑くなりつつある。だが、氷を入れる程暑いわけではない。貴重な氷を入れるのは歓待の記しだろう。日々氷を用意しているとは驚かされる。それともやはり麿が来るのを予想して特別に用意していたのか……。


「美味い。氷の入った茶など初めて飲んでござる。真夏ならば尚更に美味く感じよう」

「左様に仰せいただくと手前も用意した甲斐がありまする」

将曹が直言で褒めると、宗久殿が嬉しそうに応じた。宗久殿の真意は分からぬが、この笑みは本物であろう。


「……さて、そろそろ本題に入りましょうかの」

宗久殿の顔から笑みが消え、経験豊富な商人の顔になる。

「うむ。権中納言様が討ち死にされたのを知っておるのならば、今川が尾張で戦いを続けているのも聞き及んでおじゃろう。加えて三河では一向衆の蜂起と国人の離反が起こっている」

「……その様ですな」

宗久殿が顔をゆっくりと縦に振りながら応じた。知らぬと惚けて麿から情報を聞き出すのと、己の情報網を示して力を見せる。瞬時に算盤を弾いて、後者の方が後々の利になると思ったのだろう。


「今川は暫く戦続きとなろう。そこでじゃ、この目録の品を買い求めたい」

麿の視線を受けて知長が目録を差し出し、宗久殿が丁寧に受け取った。赤鳥堂や享禄屋を差配する傍らで、禄の銭を使って儲けていた。情報は銭になる。色々とやって大きく儲けたわ。綿々と貯め込んだ銭を粗方はたいて大量の武具や兵糧を買い付ける。主から受けた命ではない。麿の独断で進めている。いくら私財とはいえ今川の名を使っているのだ。後でお咎めを受けるかも知れぬ。だが今は堺で今川が健在である事を示す方が大事だ。目録を開いて読みだした宗久殿の顔に驚きの表情が浮かんでいる。


「これは……まことにこの量を?それも時価でよいとありますが」

「その通りじゃ。納屋だけで無く、会合衆と話して用意してくれれば良い。ただし、荷の受け取りは駿河の用宗じゃ」

「それは問題ありませぬ。しかしこの量となると一度や二度では運べませぬな。いやはや……、あいや、喜んでご用意致しまする」

「うむ。よろしく頼む」

主は三河に向けて兵を起こされるだろう。武具や兵糧はいくらあっても構わぬ。不要なら府中で売り捌けばよいだけだ。今は銭を使って今川の存在を世に知らしめる事こそ肝要だ。


父上も麿も今川の運命と共にある。今川の落日は我が家の凋落を意味する。高辻再興の、いや、草ヶ谷勃興の芽を摘んではならぬ。




弘治三年(1557) 五月下旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 今川 氏真




「申し上げまする。野場西城の夏目次郎左衛門謀反っ!一向衆を城へ招き入れておりまする」

荒鷲の使いが知らせをもって現れると、部屋にいる吉良上野介、庵原安房守、狩野伊豆介、朝比奈弥次郎、松井五郎、伊丹権大夫が顔を見合わせて、またかという顔をした。常ならここに久能与五郎も加わるのだが、久野家は当主の金五郎元宗と弟の宗経が共に戦死したため、末弟の与五郎から近習の役を解いて居城の遠江久野城へ向かわせた。落ち着いたら当主就任の祝いをしてやらねばならぬ。急ぎ俺の一字と太刀をくれてやって真宗と名乗らせた。本人は感動していたが“さねむね”って呼びにくいよな。かわいそうに。


「また坊主に与する者が続いたか」

「三河は一向門徒が多いゆえ、国人も動かされるのでしょう」

俺が呟くと、安房守が広げられた地図に駒を置きながら応えた。野場西城……。ほぅ。

「吉良領の近くだな」

「はっ。治郎左衛門は松平の譜代家臣にございまする。吉良と松平は領国が接しておりますゆえ」

俺の視線を感じて上野介が応える。

「そうだな。上野介としては元康の動きが気になろう。その元康だが、岡崎に入城したのは父上が戦死して手勢が動揺したため、家臣団の瓦解を防ぐためにやむ無くしたと弁明の文を寄越している」

「鵜殿長門守殿も松井兵部少輔殿も尾張で頑張っておりまする。次郎三郎殿の主張は都合が良すぎるというもの。これを認めては皆に示しが付きませぬ」

苦虫を噛み殺した様な顔で上野介が応じている。普段は冷静なのだが、やはり松平の動きは気になるのだろう。


「しかし、松平を上手く取り込みし直せば一向衆の鎮圧に専念出来ましょう。一向衆を潰した後に松平を、と進める手もありまする」

「左様。西三河に反乱が相次ぐ中、尾張の前線で戦っている諸将には不安を覚える者もおりましょう。安房守殿の策も一考かと存じまする」

安房守が老獪に策を唱えると、弥次郎……でなかった。備中守が賛意を示した。先日、この今橋で弥次郎には備中守の受領名を与えた。先代備中守の威光に恥じないよう励んでいる。


「うむ。安房と備中の策も取り得るが、ここは松平に厳しい文を送るとしよう。許さぬとな。松平は一族郎党、国人に坊主まで搔き集めて戦おうとするだろう。我等にとっても厳しい戦いになるかもしれぬ。だが、獅子身中の虫はここであぶり出して纏めて根絶やしにしてくれるわ」

「「……は、ははっ」」

少し顔に恐れがあったかな。皆が怖いものを見るような顔で頭を下げた。安房守と伊豆介は笑みを浮かべている。


「権大夫、船を使って尾張まで頻繁に物資を運ばせよ。大高や鳴海は武具と食い物に困らなければ士気は保てるだろう」

「御意にございまする」

「上野介と五郎、安房守は今橋にて西三河征討の準備をせよ。遠江の兵は当てにならぬ。この今橋にいる兵五千を使う。左様心得ておけ。その方等が準備している間、俺は一度府中へ戻る。これは内密の話であるが、御祖母様が倒れられた」

「なんと」

「尼御台様が!?」

俺の言葉に皆が顔を振り向けて驚く。

「そうだ。左衛門尉から早馬があってな。父上討ち死の報を受けて身体を崩され、そのまま寝込んでいるらしい」

安房守が随分と驚いている。あの御祖母様が倒れる等想像もつかないのだろう。俺も知った時には驚いたものだ。だが、今の俺にとっては都合が良い。御祖母様……、いや、寿桂尼が義元戦死の報にやる気を出して政に口を出すようになるのは避けたい。俺の今川に他の権力は要らぬ。寿桂尼が伏せている内に新体制を確立させておかねばならん。


「俺が一度府中に戻って皆を安堵させねばなるまい。伊豆介と備中守は近侍せよ」

荒鷲の伊豆介帯同はいつもの事だが、備中守も連れて行くとしよう。朝比奈家は何と言っても今川の重臣筆頭だからな。

「「御意」」

二人が平伏して応える。こんな所か。おっと、一つ忘れていた。


「伊豆介。御祖父様……。いや、陸奥守をよく見張っておいてくれ。息子の栄逹を願うだけならいいが、今回の危機を見て、甲斐の大膳大夫殿と組むような事あれば対処せねばならぬ」

「御意にございます」

「五位蔵人によれば、陸奥守は京の公家や幕府と連絡を取り合う事が多いようだ。甲斐国主復帰を諦めていない、もしくは六郎のための繋がりを作っているのだとは思うが、この機会に府中ではなく京に送るのも一考かも知れぬ。父上は陸奥守に甘い対応も多かったからな」

「それは良いかもしれませぬな。隠居料を当てられて上方で独立していただくのも一考かと。陸奥守様は幕府の相伴衆でもあれば、幕府から禄を出させる事も出来るかもしれませぬ」

「安房守、中々辛辣だな。だが、相伴衆の立場を使うか。良いかもしれぬ。府中に戻ったら話をしてみよう」

六郎は今のところ問題ない。この今橋まで参陣させているが、何かと張り切って頑張っている。所領を奮発してやったからな。それに六郎は性根が真っすぐだ。お隆からも誠実な人で傍にいて安心すると聞いている。何かあれば不審な動きとなって出てくるだろう。甲斐と手切れになる時が来たら、六郎は大事な手駒になる。大切に育てなければならぬ。




弘治三年(1557) 五月下旬 三河国額田郡岡崎 岡崎城 松平 元康




自然と大きな溜息が出た。

気付けば胸が随分と高鳴っている。頭から汗も滴り落ちて来た。暑いからでは無い。文の内容を見て反応しているのだ。

「殿、今川は何と」

儂が文を読み終えたのを見て、筆頭家老の阿倍大蔵が内容を問いかけてくる。


「厳しい内容じゃ。御屋形様は儂達の動きに大層ご立腹されている。軍命に背いたばかりでなく、一向衆を野放しにしているとな。儂が今橋にまで出頭するように結ばれている」

「なりませぬ。今橋に出向けば御命が危のうございまする。一揆が広範囲に及んでいる中、本領を守ろうとするは悪い事ではござりませぬ。我等の言い分を聞かずに沙汰を下そうとは横暴も甚だしい」

「左様。我等は今川と同盟をしているのであって家臣では無い。我等がどう動くかは我等で決めるものじゃ」

「大蔵に伊賀守、御屋形様に斯様な言い訳等通用せぬ」

儂の言葉に二人が不満そうな顔を浮かべる。雪斎禅師の教鞭を受けている時によく見た、御屋形様の冷徹な横顔が脳裏に浮かぶ。

「御屋形様は松平を取り潰すだろう」

“なんと!”

“馬鹿なっ!”

“出来るはずが無い”

儂の言葉に譜代の家臣等が声を上げる。


「殿!西三河の多くの国人が今川に反旗を翻しておりまする。ここは我等が旗印を示して結束を図るべきです。さすれば今川は我等を無下には出来ませぬ」

伊賀守が鼻息荒く声を上げる。左様なこと御屋形様は見越しておられるだろう。だが岡崎に入ってしまった時点で他に道が無いのも事実だ。

「織田と誼を結びましょう。今川との戦いで大きな力となりまする」

大蔵が声を上げると、酒井小五郎や石川与七郎等が頷いている。今の状況ならば織田との盟約が最善だということであろう。胸元にあるもう一つの文を皆に向かって差し出す。


「織田上総介殿からの文だ。共に連携して今川にあたろうとある」

「それは僥倖にござる!殿!織田と結び松平として立ち上がりましょうぞ」

“おぉ”

“ぜひっ”

大蔵の言葉に譜代の皆が続く。どうにも白々しいな。与七郎に調べさせた所では、阿倍大蔵や鳥居伊賀守は織田の小者と通じている節がある。上総介殿が儂と手を結びたいというのは不思議ではないが……。


しかし今の儂には力がないとつくづくと思わされる。これでは駿府にいる時と変わらぬ。今の儂は譜代家臣の御輿になってはじめて大名としていられるわけか。丸根砦では武功を上げたが、あれは今川のための手伝い戦に過ぎぬ。松平のための戦で功名を立てて、家臣らを纏めねばならぬ。

「鵜殿の上ノ郷城を攻めるぞ。同時に苅屋城もだ。これらは兵の大半が尾張に出張っている。今の内に攻め落とす。その後は吉良領だ。吉良は御屋形様では……ない。今川参議の直臣ゆえ尾張に兵を出しておらぬ。東條城にそれなりの兵が籠っているだろう。吉良の攻略は儂が自らあたる。今川を西三河から駆逐するぞ」

“と、殿!”

“よくぞ申されましたっ”

“御決意嬉しゅうございまする”

儂の言葉に岡崎に詰めていた多くの家臣が感激の表情を浮かべている。決めるも何も儂が選べる道は一つしか無かったではないか。苦言が喉まで出掛けたが、何とか飲み込んだ。


「皆、今まで苦労を掛けた。松平のために今しばらく踏ん張ってくれ。えいえいっ」

「「おーっ!」」

「えいえいっ」

「「おおーーっ!」」

溜息が出そうになるのを堪えて勝鬨を上げる。自分の口から出た言葉のはずが、まるで己に言い聞かせているようだ。松平は一つになっている様に見えるが、これは岡崎に詰めていた譜代家臣達が作った雰囲気に過ぎない。御輿に乗っている身だからこそ分かる。


今は致し方ないか。この戦いを通して儂の存在を認めさせるしかない。決意を胸にすると、また脳裏に今川参議の顔が過った。茫漠とした不安は最後まで拭えなかった。



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