第百二話 悲報
弘治三年(1557)五月下旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 北條 綱成
今橋城の案内が終わって軍議を行う広間へ戻ると、席の前に茶と菓子が用意されていた。
「夕餉までまだ時間がある。茶でも飲もう」
「はっ」
床几に腰を掛けて茶菓子と茶を頂く。ふむ、美味い。酒の味が僅かにする皮の中に、餡がどっしりと入っている。見た目は小振りだが中々に食べごたえがある。
今橋城へ到着した後、参議様からご家臣の紹介を受け、続けて城内を案内して頂いた。随分と大量に兵糧があったのには驚いたな。それにその兵糧を置く建物が立派なのだ。あれは兵糧庫と呼ぶよりは櫓だな。今川様は此度の戦で三万近い兵を動かされているとの事だが、あれだけ兵糧があればかなりの期間を戦えるだろう。あれ程の兵糧を揃えるとは改めて今川が富裕だと感じた。供として隣にいる遠山甲斐守も驚いていた。甲斐守は外交を担って駿河にはよく出入りしていたが、戦場での今川を見るのは初めてだ。
饅頭を食べ終えて湯呑みに手を掛ける。うむ。この茶がまた菓子にあうな。国に持って帰りたい位だ。
"酒粕の味がまた何とも言えませぬ"
"これはまた美味いですな"
家臣の方々が団欒している。不思議な感覚だ。城内の軍備を見る限り油断は無い。ここまでかと思う程に豊富に武具や兵糧が整えられていた。それでいて軍議の場に殺伐とした雰囲気は無い。だからといって参議様に威が無いわけではなく諸将も呆けているわけで無い。
「申し上げまするっ!」
皆で茶を楽しんでいると、近習が慌てた様で現れた。
「如何した」
「はっ、井伊内匠助殿が目通しを願っておりまする」
「井伊内匠助が?内匠助は父上の下で隊を率いているはずだが……。よい、すぐに通せ」
参議様の許可を得て近習が走るように下がる。
"おぉ"
"これは"
しばらくして庭先に現れた鎧武者を見て皆が驚いている。泥まみれで落武者のような成りだ。参議様が驚いた顔を浮かべて湯呑みも茶菓子も手のままに縁側へ向かわれる。
「内匠助がここまで来るとは如何致した」
「突然の目通り申し訳ありませぬ。お、大殿が、大殿が桶廻間にて織田の奇襲に遭い、御討ち死にされてございまするっ」
内匠助殿が苦悶の形相で訴えた。
"ゴトリッ"
何かが割れる音がした。音の方を向くと参議様が手に持っていた湯呑みを落とされていた。大きく割れている。
「なんと……何と申した」
参議様が掠れた声で尋ねる。
「お、大殿が桶廻間にて勇戦空しく御討ち死と……」
「父上が討たれたというのか」
「はっ」
「詳しく申せ」
「はっ。されば某が知っている所を申し上げまする。桶廻間山に陣を構えている所で豪雨となり、兵の疲れを
「……続けよ」
「某は隣の巻山に陣を構えており、本陣の騒ぎを聞いて五十騎ばかり率いて大殿の下へ馳せ参じましたが、既に本隊の大部分が崩れており、引き返して殿を務めるよう下知を受けてございまする。某は獣道のような道を落ちて陣へと戻りましたが、大殿は生憎織田の手勢に見つかり御命を落とされてございまする。申し訳ございませぬ」
内匠助殿が雨で汚れた庭先に額を付けるように頭を下げている。しかし……今川権中納言様が討ち死にされたとは。信じられぬ。陣にいる諸将もどこか遠くを眺めているような顔だ。
「その方の責では無い。責を問うならば熱田へ急がせたこの俺にある。よく……、よく知らせてくれたな。味方は今どうなっている」
「はっ。大殿は大高城へ向けて撤退を命じられましたので、皆大高城へ参集しておりまする。今は松井兵部少輔殿が鵜殿長門守殿と協力して守っておりまする」
「兵部少輔は無事なのか」
「はっ。他にも瀬名伊予守殿等、生き残った諸将が集まりつつありまする」
「で、あるか。相分かった」
「御屋形様」
席に戻られようとした参議様を内匠助殿が呼び止める。
「これを」
内匠助殿が袋に入った代物を持って捧げる。参議様が訝しそうな顔を浮かべながら受け取られて中をお確かめになる。
「これは……っ!」
「大殿に最後のご挨拶をした時に、万が一となった場合は御屋形様にお渡しするようにと預かりましてございまする」
「この刀を、か」
「はっ。大殿は必ず織田を討ち果たせと」
参議様が袋を外して中を改められる。脇差だ。今川の家臣達がその脇差を見てすすり泣きをしている。見覚えのあるものなのだろう。
「……で、あるか」
「ご無礼致しまする」
内匠助殿の報告で皆が静まる中、先程とは別の近習……では無いな。乱波のような身形の者が現れた。
「荒鷲か。如何致した」
参議様が息を吐きながら疲れたように問いかける。
「はっ。本證寺と上宮寺に詰めていた一向一揆勢が苅屋城を強襲し、これを攻め落としておりまする。他にも勝鬘寺の僧兵等が岡崎の町を占拠しておりまする」
「何だと?」
参議様が乱波の方を驚いて振り向かれる。諸将も各々驚いて声を上げている。
「岡崎はどうした」
「松平の兵が幾らか詰めて守っておりますが動く気配無く。一揆側も攻める気配ありませぬ」
"まさか"
"謀反じゃっ"
今川の家臣達が声を上げている。
「待て。丸根の元康に動きはあるか」
「松平隊の動きは調べている所なれば、分かり次第ご報告致しまする」
「頼む。確かな事が分かるまでは一揆の事は皆に伝えなくてよい。無用な混乱を生む。その方は森弥次郎の下へ向かい、一向一揆の動きとそれに呼応する者達をよく調べるよう伝えよ。それから内匠助っ」
「はっ」
「疲れているところ悪いが、大高城へ戻って松井兵部等へ引き続き守りを続けるよう伝えてくれ。船を遣わすゆえ使うがよい」
「御意にございまする」
「三河の状況が今少し分かり次第追って沙汰をする。鳴海の岡部丹波守とよく連携して落伍者を収容し城を守れ」
「はっ」
「兵の命が大事よ。その方らの判断で他の城や砦は捨ててもよい」
「承知仕ってござります」
内匠助殿が大きな声で応じた。
「伊豆介」
「はっ」
参議様に名を呼ばれて狩野伊豆介殿が反応する。先程紹介を受けた御仁だ。風魔でもその名は時折名が上がる。
「遠江の動きをよく見ておいてくれ。父上は遠江の家臣も粗方引き連れて行ったからな。当主が討ち死にした家は揺れるだろう。そこに三河での一揆と、大きく混乱しかねぬ」
「御意にございまする」
「俺は主だった所に文を書く。父上の討ち死は悔まれるが俺が何とかするとな。悲しんでいる刻があれば出来る事、すべき事を成せ。雪斎がおればそう言われるだろう」
参議様が脇差を強く握り締めながら呟かれる。瞳からは一筋の涙が滴り落ちているが悲嘆に暮れている訳では無い。……何と頼もしい。この若く頼れる当主を前に、暗澹とした雰囲気は薄くなり、皆が参議様を熱く見つめている。今川は一時大きく崩れるかも知れぬが、すぐに持ち直すかも知れぬ。殿にはその様に文を
脇差を眺めていた参議様が、思い立ったように席へ向かう。こちらに向かって振り向かれた。決意を持ったお顔だ。今川の皆が相対して姿勢を正す。儂は家臣では無いが、何となく背筋が伸びた。
「この刀に誓う。今川は余が護る」
参議様の覇気ある言葉に、今川の皆が頭を下げていた。
弘治三年(1557)五月下旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 山本 勘助
援軍の撤兵挨拶に今橋城を訪れると、随分と長い時間待たされている。今川権中納言様が死んで二日経ったが城内が騒がしい。尾張や三河から次々と知らせが届いて慌ただしくしているのだろう。築田殿が申していたな。織田が勝てば松平が立つだろうと。実際松平勢は岡崎城に入った。その松平に呼応して、三河の国人が次々と反今川の狼煙を上げている。一向一揆に松平の離反と、もはや今川は西三河を失陥したも同じだ。東三河は今橋城に詰める参議様が束ねているのか思ったより動じていない。寧ろ遠江の方が揺れているだろう。遠江の今川家臣は当主を失った家が少なからずある。確実に今川は苦しくなっている。
撤退の挨拶に来てはいるが、実のところ武田の援軍は既に撤退を進めている。頂戴した兵糧を返せと言われても溜まらぬし、駿河に踏み込むなら一刻も早く甲斐に戻る必要がある。
今川の混乱を見て左馬助様は御屋形様に具申すると仰せであった。御屋形様が決をなされば大戦が始まる。
微かに足音が聞こえた。だんだんと近づいてくる。平伏してお待ちした。
「待たせたな。面を上げよ」
参議様の許しを得て面を上げると、狩衣に身を包んだ参議様が目に映った。だが参議様の他に人が見えない。驚いたな。お一人で見えたという事か。
「此度の戦、何と申し上げたらよいものか……。御心中お察し致しまする」
「勝敗は兵家の常とは言うが、父上がこの世にいないと思うと空虚な感覚だ。今は慌ただしく追われているゆえ一時感じるだけだが、落ち着く程にこの気持ちは強くなろうな」
静かに、落ち着いた様で参議様が話される。思ったよりも落ち着いているようだ。本心か、その様に見せているだけか。いつもこの御方の腹の底は伺い知れない。
「用件を聞こう。その方は大事な武田の使者ではあるが、今は何かと
儂の顔をじっと見ながら参議様が続きを促す。忙しいのは事実だろう。こちらも長居をする気はない。
「はっ。今川家の尾張攻めに参陣していた我が武田の兵でございまするが、国に戻る手筈をしておりまする。つきましては参議様へご挨拶に伺いましてございまする」
「うむ。此度の参陣忝なく思っている。大膳大夫殿によしなに伝えてくれ。それから今川としては引き続き武田家との誼を大事にしたいと思っている」
「ははっ。大膳大夫に伝えまする」
「援軍の謝礼はまた後日しよう」
ほぅ。取り急ぎ頂戴した兵糧も戦が早く終わって随分余っている。別にもらえるとは豪気よな。貰えるのならば急ぎ貰いたいが不用意に急いては怪しまれよう。
「忝なく存じまする」
頭を下げて応じると、"うむ……"と息を吐くように応じられた。何か続きがあるな。
「我が家臣達の中では、沓掛城の西にいた武田が、押し寄せる織田の軍勢に気付かば、父上は命を落とさずに済んだと申す者がおる。事が起きてから嘆いても詮無き事ではあるが、何か申す事はあるか」
やはり来たか。今川の中で武田を非難する声が上がっているというのは漏れ聞いている。
「織田が桶廻間山へ移動していた時は氷雨が降るほどの土砂降りようで、前も見えなければ音も聞こえない状況でありました。とはいえ、目の前を織田が通るのを許したのは事実。面目ありませぬ」
「で、あるか。相分かった」
儂の言い訳に参議様が短く言葉を放つと立ち上がられた。思いの外追求は短かったな。頭を下げたまま見送ると、部屋を出る手前で足音が止まる。
「ところで」
ゆっくりと、低い声が聞こえた。
平伏したまま言葉を待つ。
「今川が織田に敗れるのみならず、父上が亡き者になって気は済んだか」
参議様の言葉に思わず顔を上げる。参議様は廊下の方を見たままだが、僅かに見える横顔には、冷徹な顔が見て取れた。意味の真意が分かりかねるが何とはなしに背筋が凍る。
「……何の事でありましょうや」
「ま、そう返すしかあるまいな」
返す言葉が無い。
「勘助。此度は尾張に三河と随分行き来して疲れたであろう。ご苦労であった」
黙っていると、参議様が背を向けたまま呟かれて去って行かれる。
……あのお方はどこまで知っているのであろうか。無論、鎌をかけただけかも知れぬ。
自分には珍しく心の臓が高鳴っている。それに吐き気がする程の緊張を覚えていた。
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