第百一話 激震
弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 今川勢本陣 今川 義元
井伊内匠助に別れを告げて馬の腹を蹴る。
"待てや!逃がすなっ"
敵兵のものとおぼしき怒号が聞こえた。もうそこまで追手が来ているのか。三陣の崩れが早すぎる!
どうしてこうなった。余に油断があったか。隙があっただろうか。今とて我が今川が織田を圧しているはずだ。盤面は今川が押している。盤上の隅で……、この僅かな局面で押されているだけだ。
戦場は思うても見ぬ事が起きるな。井伊もそうだ。まさか内匠助が余の元に駆け付けるとはの。
……そうか。余には人を見る目が無かったという事か。
天下に静謐をもたらすために励まんとしたが、天は余を選ばずか。いや、余が見誤り天の運を掴み損ねたのだ。それとも天は氏真を、彦五郎を選んだか。
馬が止まった。
脚を沼に取られたらしい。
"ヒヒィーン"
鞭を打つが、鳴くばかりで全く動かぬ。仕方なし。徒で進むとしよう。
「大殿っ!」
呼ばれて振り向くと、飯尾豊前守が余を追い駆けて来ているのが見えた。軽く手を上げて応える。あやつもよく付いて来ておる。思ったよりも肝が座っている。
「道が悪いっ。馬よりも徒で進むぞ」
「「御意」」
近習達に告げると、皆が馬を乗り捨てて余を守る。大鎧の重さが堪えるな。息をあげながら歩を進める。
"今川の御大将とお見受け致す"
"勝負勝負っ!"
"大殿はお先にっ!皆は此処を守れっ"
敵兵の大声の中に、後ろで付いてきている豊前守の声が聞こえた。ここまで敵が来たか。逃げ切れぬかも知れぬな。どうせ助からぬのならば、余が早く死した方が助かる味方は多いかも知れぬ。それに背を切られるのは武士の恥じだ。
「おっ大殿!?」
引き返して織田の先鋒にいる兵を仕留める。豊前守の呆けた顔が可笑しかった。
「豊前、最後まで大儀であるぞ。冥土でもその忠義忘れぬ」
「……はっ」
豊前守も余の言わんとする事を察したらしい。
"そりゃあっ"
敵の雑兵が槍を突き出してくる。豊前や近習が敵を必死に抑える。
「くっ!行かぬっ!大殿!」
豊前が織田の雑兵を一人仕留めたが、すぐ後ろから現れた新手に手を取られた。二人の槍兵が余の方へ駆けてくるっ!
豊前守や近習は敵の新手に手を取られている。
「織田上総介家臣、服部小藤太!お命頂戴致すっ」
「知らぬ名よ。その方に我が首は勿体ないわ」
突き出された槍を左文字でかわし、相手の膝に一太刀浴びせる。
「ぐわっ」
がくんと敵が身体を崩した。
「同じく馬廻衆、毛利新助っ!」
「権中納言義元じゃっ!頭が高いっ!控えぃ!」
敵の兵が突き出してきた槍を避ける。大鎧が重い。それとも余が歳を取ったか。何度かやりあっていると、一人目の男が体勢を立て直して槍を向けて来た!二対一は分が悪い。二人目の男の手に素早く一太刀浴びせて、槍を持つ手を鈍らせる。
「うわっ」
相手の小手に当たった。槍を持つ手が大きく崩れる!その一瞬の隙に身体を反転させて一人目を狙う。
"ドンッ"
一人目の敵兵を仕留めようと左文字を振りかざすと、右の脇腹に何かが当たった。
槍だ。二人目の男が余の身体に槍を突き刺している。痛めた手を休めず、そのまま槍を脇で挟んで刺してきたらしい。そうか、崩さなかったか。
"ごほぁっっはぁっ"
喉奥から込み上げてくるものを感じたと同時に、口から生暖かい血が吹き出す。
……呆気ないものよの。これで終いか。
行かぬ。余の為に散った者達がいる。
余がこのまま見窄らしく散る訳に行かぬ。
"カチャ"
最期の力を振り絞って左文字を鞘に入れ、どすんと座り込んで胡座をかく。頭が重い。血の気が引いていくのが分かる。
「何をしている」
余に槍を刺した男が構えながら尋ねてくる。
「その方、余の首を挙げた事、終生の誉とせよ」
兜の緒をほどいて脱ごうとしたが力が入らない。首を後ろに傾け喉を突き出した。何とか動いた手で喉を切れという仕草をする。
「お見事」
馬廻衆とか言った男が、余に向かって槍を差し向ける。
目を閉じて待つ。
雪斉、今行くぞ。
弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡丸根村 丸根砦 松平 元康
「ご注進っ!ご注進にございまするっっ」
「何事じゃ!」
家老の鳥居伊賀守が、馬でそこまで乗り込んできた使い番の者に大きな声を上げる。使い番が片膝を地面について慌てた様子で声を上げる。
「はっ!大殿が桶廻間山にて織田の奇襲にあい、御討ち死になりましてございまする」
「何だと!?」
「ばかな」
大殿が討ち死だと?まさか!
周りにいる皆も驚いて顔を見合っている。
「それは確かな情報なのか!?詳しく申せっ」
不信を拭えず使い番に聞き返す。
「はっ。間違いありませぬ。それに飯尾豊前守様、吉田武蔵守様、一宮新三郎様等、本陣の諸将が討ち死してございまする。某は井伊内匠助様から命を受けこちらに参りましてございまする」
「飯尾殿までが討ち死されただと?」
「はっ。某が聞いた限りでは本隊は総崩れ、名だたるお味方は討ち死にされ、今は井伊内匠助様と松井兵部少輔様が織田の追撃を返しながら大高城まで撤退を続けておりまする」
「大高城とな?沓掛城か苅屋方面では無いのか」
「大殿の最後の命が大高城へ参集でございましたゆえ、大高城へ向かって落伍者を集めると仰せにございまする。それに三河が揺れておりますゆえ、大高城に入って鳴海城の岡部丹波守様と連絡し、御屋形様の命を待つとの事にございまする」
「左様か。ご苦労であった。ならば我等は引き続きこの丸根にて沙汰を待つ」
「御意にございまする。では某は次の場所に使いへ参りまするゆえ然らば御免」
使い番が再び立ち上がって去っていく。信じられぬ。大殿が亡くなられたとは……。
「上総介様が……」
「殿?」
横に控える酒井小五郎が儂に声を掛ける。
「いや、上総介様が見事に勝ったのだと思うたのだ」
「左様でごさりまするな。これだけの兵を動かして今川様は敗れたのです。今川は大きく崩れるかもしれませぬ」
「左様でごさいまする。大殿の死で今川は大きく崩れるに違いありませぬ」
鳥居伊賀守と石川与七郎が意見を合わせる。今川が大きく崩れる?そうだろうか。今川には参議様という立派な後継がおられる。
「そういえば使い番が三河は揺れていると申していたな。早くも今川への離反が出ているという事であろうか」
「いえ、一向一揆が起きておりまする」
伊賀守が囁くように呟いた。
「何だと?」
「空誓上人が盛んに檄を飛ばしておりまする」
「なぜその方はそれを知っている」
「先程岡崎城の留守を預かる阿倍大蔵殿からの使いが某の元へ参りました」
儂がいぶかしんで尋ねると、伊賀守が涼しい顔をして応える。
大蔵からの使い?なぜ儂の元へ来ぬのだ。
「使いが持って来た文によれば、一昨日の未明に何者かが本證寺に火を付けたようにございまする。空誓上人は今川様の仕業だとご立腹になり、門徒や僧兵のみならず国人等にも立ち上がるよう檄を飛ばしている様子にございまする。従わねば破門とまで言っているとか」
「破門じゃと!?」
「なんと!」
「どういう事じゃ」
古参の将達が騒がしい。我が家臣達には熱心な信徒が多いからな。
「しかし、確かな証拠も無いのに今川怪しからんだけで立ち上がるのはどうかと思うが……」
儂が呟くと、伊賀守が大きく首を振って"違いまする"と声を上げた。
「殿っ!今川の大殿が倒れた今、三河は国人も寺も揺れまする。誰かが三河を纏めねばなりませぬ」
「左様、その三河を束ねるのは殿しかおりませぬ。ここは岡崎に戻り松平の旗をあげるべきかと存じまする」
伊賀守に続いて、同じく重臣の内藤弥次右衛門が膝を付いて訴えてくる。松平の郎党も頷いて頭を下げている。どうしたものかと怪訝そうな顔なのは駿府への道を共にした近習達だけだ。
「ならぬ。今川は大きく敗れたとは申せ、御屋形様がお見えになられる。遠からず力を取り戻されよう」
「今川の御屋形様は駿河と伊豆の統治に専念されておりましたゆえ、三河の事は詳しくありませぬ。三河は三河の者が治めるべきにございまする」
「左様っ!我等家臣一同、殿が立つのを心待ちにしておりました。今こそその時でありまする。本證寺といった仏門とも協力すれば今川等恐れるに足りませぬ」
宗門を出すでない。御屋形様は宗門が政に関わるのに厳しい。口にしようとしたが、古参の者達は一向衆に帰依している者が多い。下手な発言は家臣団を瓦解させかねない。
「殿、岡崎城へ参りましょうぞ」
「某も伊賀守殿の意見に同意致す」
「某も」
長老格の鳥居伊賀守の言葉に岡崎城に詰めていた家臣たちが同調する。場にいる者が次々と促いていく。皆の勢いに押される。
「う、うむ」
つい一言が出た。
「おぉ!お決め下されたか」
「皆、殿と岡崎に参ろうぞ!」
「あ、いや今のは……」
否定の言葉を続けようとするが、皆の熱気にかき消される。
「「松平万歳!」」
「「おおっ!!」」
皆が色めき立って喜んでいる。
岡崎城に入ったとて、今川を裏切った訳では無い。本隊がどうなったか分からない今、岡崎に行くべきと考えた。これだな。
家臣団をまとめきれない己を情けなく思いながら、言い訳を自分に言い聞かせていた。
弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡鳴海町 鳴海城 岡部 元信
滝のような雨が小雨になって降り続いていたが、ようやく上がったようだ。空には所々に雲の切れ目が見える。
織田方の攻勢が増している。天気が回復するにつれて兵を増やしたか。
「敵の先鋒に弓を射かけよっ!盾にあてるなよ。山なりに放つのじゃ」
弓兵に命を下して次の場へ向かっていると、織田が攻めて来ている方とは別の方向から、馬に乗った使い番が駆けて来るのが見えた。丸に二引の旗が見える。味方の使いだ。本隊の方で何かあったか。それとも今橋の御屋形様からの使いか。
“御免ーーーっ!”
しばらくすると先ほど城下に見えた使い番が儂の近くのすぐそこまで駆けて来た。ここまで馬で来るとは相当に火急の知らせだな。
「如何致したっ!馬上で構わぬ。急ぎ申されよ」
儂が言葉を掛けると使い番が小さく頭を下げ、馬を宥めながら口を開いた。
「お言葉に甘えてこのまま失礼致す!桶廻間山に本陣を築いた大殿が織田方の奇襲を受け、御討ち死にされましてございまする」
「な、なんと…!ま、誠か」
突然の報に言葉がうまく出ず、使い番の顔を覗く。
「はっ……。大殿は織田の奇襲に対し、勇戦されるも味方の崩れが早く、退去ままならず命を落とされたと聞いておりまする」
儂の取り留めの無い反応に、使い番が苦悶の表情を浮かべて応える。この者も辛いのだ。詮無き問いをしたな。
しかし大殿が討たれるとは……。思わず膝を落とした。目が潤んでくる。
「と、殿……」
家臣の島田孫次郎が儂に手を添えてくる。大殿が亡き今、味方は総崩れになるだろう。ここまで来て無念だ。それに惨めでもある。腹でも掻っ捌いて死んでしまおうかと思ったが、ふと御屋形様の顔がよぎった。
「御屋形様はどうされている」
「分かりませぬ。某は井伊内匠助様の命で参っておりまする。内匠助様も松井兵部少輔様も無事で大高城へ向かっておられまする。御屋形様への使いも既に出したと聞いておりまする」
「相分かった。儂は引き続きこの城を死守する。追って沙汰を待つ」
「承知致しました。そのように告げまする。織田の勢い盛んなれば、ご注意下され」
立ち上がって使い番に事を告げると、使い番が儂の身を案じながら馬に鞭を入れた。
「大殿の御命を奪った織田兵を一人でも多く亡き者にしてくれる。よいなっ!」
周りにいた者達に声を張り上げて伝えると、皆が力強く応じた。
すぐにでも織田を成敗してやりたい。織田が攻めかかって来ている場所に急いで戻りに向かった。
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