第百話 総崩れ




弘治三年(1557)五月下旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 今川 氏真




「大殿は熱田湊の攻略、承知したとの事にございまする。また、本證寺の蜂起について報告致しましたところ、織田を下すのを急がねばならないと仰せになり、大高城には寄らず熱田方面へ進むとの由にございまする」

身体をずぶ濡れにした荒鷲の使いが駆け込んできて、本隊の動きを報告している。荒鷲で西部方面を担っている森弥次郎の手の者だ。徒で来たのだろう。流石に息を切らしている。天気も悪い中ご苦労だな。後で茶でも用意させよう。


しかし父上は……。そうか。方向転換したか。問題は何処に行ったかだ。それとなく続きを促す。

「で、あるか。大高城は良かったのか」

「はっ。松平勢が大高城へ兵糧を運び入れ、続けて丸根砦を落としてございまする。その報告を受けて大殿は本隊の進む方向を変えられました。今頃は桶廻間山という小高い丘に本陣を構えておりましょう。鷲津砦も既に落ちているやも知れませぬ」

「桶廻間とな。知らぬ山だが、父上が熱田湊へ向かわんとしてくれているなら良い」

知らぬ訳がないが、涼しい顔をして応えた。父上や味方の動きはまるで史実をなぞるようだな。これは天祐がある気がするぞ。笑みが浮かびそうになるのを抑える。

「使いご苦労であった。雨の中疲れたであろう。下がって休むが良い。誰か茶を用意してやれ」

「有り難き幸せにございまする」

頭を下げて荒鷲が下がった。


縁側の方を眺めながら考え事をする。何時もの事だと思ってか、皆も黙って静かにしている。しかし外は凄い雨だな。まぁお膳立てをしたとはいえ、父上が討たれる迄には幾つも難所がある。織田が今川本隊を見つけられるか。桶廻間の本陣へ辿り着けるか。今川勢が後退しないか。討ち取られるか。


難しいとは思いつつも、元康が大高城へ兵糧の搬入を成功させ、丸根が落ち、鷲津が落ちようとしている。おまけにご覧の通り雨まで増してきた。史実よりこの戦いが起きるのは早まっているはずだが、前世の知識と同じ様に進んでいる。ここまで揃うとやはり天祐でもあるのかと思うわ。


「失礼いたしまする」

物思いに耽っていると、三浦内匠助の声がして我に返った。

「内匠助か。いかが致した」

「はっ。北條家からの援軍として、北條左衛門大夫様がお見えになりましてございまする」

おお、来たか。丁度いい頃合いだな。

「お通しせよ」

「はっ」

内匠助が左衛門大夫を呼びに下がっていく。また一つ、掌の上で転がる駒の動きに、笑みが浮かぶのを堪える。


桶廻間が起きるなら今日だな。起きても起きなくても三河は大きく揺れる。酷ければこの今橋が前線になり得る。そのために北條の援軍は三河入りを遅らせた。側室である春の関係もあって、北條との調整は俺が任された。父上は初めから北條の兵を当てにしていなかったな。細かな事を言ってこなかったので、援軍の行程をうんと遅らせてやったわ。事が起きれば俺の手駒が増やせるからな。


さて、どうなるか。流石に胸が高鳴る。

成り行きによっては一世一代の演技が必要になるかも知れぬ。

行かぬな。浮き足立っている気がするぞ。氏真、自重ぞ。

策士策に溺れぬよう気を付けねば。




準備は出来ている。ごうを背負う覚悟もな。

目を閉じて呼吸を整える。足音と鎧が揺れる音が近付く。

目を開くと、見覚えのある顔が目に入った。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 今川勢本陣 今川 義元




「申し上げまするっ」

「申せ」

使い番の必死の様相に、直接直答を許す。

「はっ。一宮新三郎様、久能金五郎様、お討ち死にございまする」

「なんと」

「ばかなっ」

思わぬ悲報に陣内がどよめく。余としても二人の死は驚いたが、動揺した素振りは見せられぬ。雪斉が厳しく申していた。大将の漣のような動揺が大波となって味方を覆う事もあるとな。


「二陣はどうしている」

何時も通りの声色で使い番に尋ねる。

「はっ、小原肥前守様が応戦されておりますが織田方の勢い甚だ激しく、苦戦されておりまするっ」

「敵は東に集中しておるのだろうっ。その他の味方はどうしている!」

豊前守が唾を吐くように問いかける。

「休息の命を受けた直後に移動の命、しかも陣の外でなく内を東へ行けとの事で、天気も足元も優れず混乱しておりまする」

「たわけっっ!これしきの事で何を混乱しておる。大殿は警戒を怠るなと仰せであったろう」

「豊前、この者に当たるで無い。陣が混乱しているのならば、その責は命を下した余にある。……ふむ。二の陣が苦しいとあらば、織田勢が此処に来る可能性がある。小癪ではあるが後退もやむを得ない。何、我が勢は丸根、鷲津と攻め落とし、今また兵部が中島を落とそうとしているはずじゃ。ここで勝利を上総介にくれてやっても、一時の勝利に過ぎぬ」

「大殿の仰せの通りにござりまする。ここは沓掛城まで兵を引くべきかと」

「某も与八郎殿の意見に同意にございまする」

陣内で座している小笠原与八郎と天野安芸守が意見を述べる。普通に引くなら与八郎が申す通り沓掛城になろうな。だが荒鷲の者が三河は大きく揺れ、兵糧の運びが難しくなるやもと申していた。


「大高城だ」

「大高城?」

余の言葉に与八郎が首をかしげる。


「荒鷲の者が三河は揺れていると申していただろう。参議も熱田を取れと。ならば大高城の方が良い。いざとなれば天白川を使って兵糧を運べる」

「しかし、大高までの道は遠くございまする」

「豊前守、確かに大高城の方が遠いかもしれぬが配置しておる味方も多い。道中は沓掛城に行くよりも今や安全よ!」

少しだけ腹に力を込めて声を発すると、余の言葉に皆が頷いた。吉田武蔵守の顔を見る。


「承知致しました。陣内に触れを出しまする」

余の視線を受けて武蔵守が応じた。他の者も立ち上がって撤退の準備を始める。織田上総介……。噂に聞くうつけでは無いの。随分と昔に竹千代が言っていた言葉を思い出す。中々楽しませてくれるでは無いか。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 織田勢本陣 森 可成




「掛かれ掛かれ掛かれ掛かれ掛かれっ!すわ掛かれっっ!!」

殿の大きな声が戦場に響き渡る。味方ががむしゃらになって敵を押す。

「そりゃっ」

また一人薙ぎ倒した。敵も必死に守っているが、味方の方が勢いはある。この陣だけを考えれば兵も味方の方がはるかに多いだろう。


「おりゃおりゃぁっ」

池田勝三郎が槍を振り回すのが見えた。敵兵に向かって勢いよく槍を突き出している。俺も負けてはいられん!

敵の守りを突破して進んでいくと、本陣らしきものが目線に入った。旗が右に左に揺れている。何かと慌ただしそうだ。これだけ陣の奥深くにまで押し込まれているのだ。逃げる算段でもしているのかも知れん。


「義元の首はあそこぞ!逃がすで無いぞ。掛かれっ!!」

また殿のお声が聞こえる。殿もずっと最前線に立って戦っておられる!


「命惜しくばそこをどけぃ!」

敵の本陣らしき場所の前にはもう一つ陣がある。ここまで織田が来るとは思わなんだか。敵の三陣の前列で呆けたような顔をしていた男を斬り捨てた。切りかかったばかりだが敵の陣は早くも崩れ始めている。これは行けるかも知れぬ。



義元の首は俺が取る。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 今川勢本陣 井伊 直盛




右に左にと右往左往する味方の兵達を避けて馬を走らせる。

大殿の命で本隊からほど近い巻山へと陣を構えていたが、本隊が陣を構える桶廻間山の方が随分と騒がしくなった。不審に思って手勢だけを率いて様子を見に来ると、織田方の攻撃を受けているようではないか。


守る兵達は混乱をしている。途中掴まった兵に聞くと、休息の命の後、本陣がある東の方面へと行くように命があったかと思えば、今は西にある大高城へ向けて撤退の命が出たらしい。ここで撤退の命とは織田の攻撃が厳しいのか?大殿が心配だ。


"どぅどぅどぅ"

本陣のすぐ手前まできて馬が泥濘に脚を取られた。

踏み場を選べば徒なら進めそうだ。

「馬が潰れた!六左衛門は大丈夫かっ!」

供を命じた奥山六左衛門に声をかける。

「某は大丈夫にございまする!殿っ!この馬をお使い下されっ」

「いや、この先足元はもっと悪くなろう。本陣はすぐそこじゃ。徒で向かう」

「御意!ならば某も徒で向かいましょう」

「某はここで馬を見ながら殿をお待ち致しまする」

家臣の井平弥三郎が儂の馬の手綱を預かりながら話す。


「頼む。味方から攻撃されては叶わぬ。数人で構わぬゆえ旗持ちは供をせよ」

「殿、お気をつけて」

弥三郎と短く顔を合わせてから本陣へと走り出す。その内に道が獣道のように細くなった。雑草が生えている分足は取られるが泥濘よりは歩きやすい。輿が見えた!本陣はあそこじゃ。


本陣に付くと輿を降りて馬に乗ろうとする大殿が目に入った。大殿目掛けて前へ進む。

「井伊内匠助じゃ!」

近習が刀を向けて来るが、儂の姿と名乗りを聞いて刀を降ろす。


「大殿!」

「内匠助か」

「はっ!本陣の方から騒ぎが聞こえたため五十騎ばかり手勢を率いて参りましてございまする」

「大儀である。だが織田の勢いが止まらぬ。そればかりではどうにもならぬだろう。本隊はもはや総崩れじゃ。各々大高へ落ち延びる。其処元に預けている兵はまだ動きがとれよう。其処元は陣へ戻り殿を務めよ」

「御意にございまする!」

大殿が馬にお乗りになる。儂が通ってきた道を伝えようと思うたが、もしかしたら敵が周り込んでいるかも知れぬ。思い止まった。


「内匠助」

「はっ」

名を呼ばれて顔を上げると、大殿が脇差を鞘ごと抜いて投げられた。急ではあったが落とさず受けとる。

「その脇差を参議に、氏真に届けよ」

「御屋形様に?大殿はもしやここで」

「余とて生きる事を諦めたわけでは無い。じゃが万が一という事もある。良いな。もし余が討ち死にせし時は、この刀と共に氏真へ必ず織田を討ち果たせと伝えよ」


「必ずやお伝えいたしまする。なれど大殿、この内匠助、また大殿と会えると信じておりまする」

「うむ。行けっ!」

大殿が大きな声で叫ばれる。辺りの喧騒が増しているのが分かる。織田の手勢がすぐそこまで迫っている!

“御免”

大殿に別れを告げて走り出す。幸い来た道には敵どころか味方もいない。獣道に再び分け入った。

大殿……。今生の別れになるだろうか。井伊と今川は色々蟠りもあったが、大殿は儂を信じ隊まで与えてくれた。本陣を背に必死に走り出す。




"今川の御大将とお見受け致す"

微かに声が聞こえた。足は止めなかったが本陣の方を振り返らずにはいられなかった。




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