第九十九話 決戰、桶廻間




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 今川勢本陣 今川 義元




「ここが頂きになりまする」

本陣の奉行を任せている吉田武蔵守の案内に導かれて山の頂へと歩を進めると、目線のすぐ先に二つの部隊が目に入った。松井兵部少輔と井伊内匠助の手勢であろう。その先には微かではあるが幾つか砦が見える。

「ふむ。戦況を見るには悪くない眺めよの」

「天気が良ければもっと見渡せましょうに」

余の言葉に飯尾豊前守が空を仰いで呟いた。確かにその通りだ。先程から少し雨が強まって来ている。空も幾分暗くなった。

「大殿、雨風がお身体に障りまする」

久能金五郎が余の心配をして急拵えの陣屋へ案内をする。荷駄を担う者達が持ち込んだ板と、辺りに自生している竹や木を切って作った荒ら屋の様な代物だが、雨風を凌げるだけ良い。


「申し上げまするっ」

余のために用意された床几に腰を掛けると、使い番が駆け込んで来た。使い番の傍らにいた一宮新三郎に首を振って意を伝えると、新三郎が“申せ”と言葉を掛けた。

「はっ。鷲津砦に攻めかかっていた瀬名伊予守様、見事砦を陥れてございまする」

「「おぉっ」」

吉報を受けて本陣にいる臣下達が沸き立つ。


「これで手越川南部の大方はお味方のものになりまするな」

「豊前守の申す通りじゃ。元康と源五郎に伝えよ。そのまま北上して中島砦を落とすべしとな」

「恐れながら申し上げまする。鷲津砦の攻略をした瀬名隊は織田方の抵抗激しく損失が多うございまする。暫しの休養か後詰めが必要と存じまする」

そうか。源五郎の隊は被害が多いか。使いの者が源五郎は援軍を退けながら戦っていると申していたな。戦巧者の朝比奈備中なら、いや、その子の弥次郎も優れていると聞く。家中屈指の古強者である朝比奈隊が手元におれば結果も違ったかも知れぬ。邪な気が僅かに過ったが無い袖は触れぬ。何はともあれ源五郎も励んだのだ。論功行賞では労を労ってやろう。


「相分かった。具申大儀である。ならば中島砦は松井兵部少輔に落とさせよう。兵部少輔の陣には別の使いを出すゆえ、その方は元康と源五郎に急ぎ命を伝えよ。織田の反攻に警戒しつつ、暫し休養せよとな。大儀であったと伝えるのを忘れるでないぞ」

「はっ」

余の言葉を受けて使いの者が再び駆け出していく。続けて別の使いを兵部少輔の陣に向けて放つ。兵部が兵を前へと進めれば中島砦にぶつかる。あの者なら無事に落とすだろう。


「お、大殿」

余が立ち上がって外へ向かおうとすると、周りの者達が驚いた顔をした。

「やはり外を見る。戦況は動いているのだ。この目で直に見て、次の策を練るために此処へ来たのだからな」

余の言葉に幕閣の者達が頷いて後ろに付いてくる。


"ドォーーン"


陣屋を出た刹那、けたたましい程の雷鳴が響いた。続けて大粒の雨が降り出す。

"バタバタバタッ"

兜や鎧に無数の物があたって音を立てる。ただの雨では無い。氷雨のようだ。


「凄い雨じゃな。氷雨まで降るとは陣の構築に影響が出よう」

「我が兵の士気は天をも突かんばかりにございまする。ご心配は要りませぬっ」

本陣の戦奉行を務める吉田武蔵守が、雷鳴に負けじと声を張り上げる。皆が戦働きで手柄を上げる中、気持ちが急いているのかも知れぬ。

「其処元の命を遂行せんとの気持ち嬉しく思うぞ。なれど無理は歪みを生む。時には休息も必要よ。何、これ程強き雨は何時までも続かぬ。雨が弱まるまで我が兵達にも暫しの休息を与えよ」

「大殿の御心に感じ入ってござりまする。この武蔵、皆に休むよう伝えまする」

「うむ。警戒だけは怠らぬようにな」

「はっ!」

武蔵守が頭を下げた後、本陣を離れて行った。


"ザー"

氷雨を含んだ雨が勢いを増す。これ程の雨に打たれるなど何時振りかの。


遠目に武田菱の家紋が入った陣が微かに見えたが、すぐに視界が悪くなって姿を隠した。せっかく陣屋を出て外を眺めたが、激しい雨に遮られてほとんど先が見えなかった。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡鳴海 善祥寺砦近郊 築田 政綱




「今川様はここより南東に一里程行った処、桶廻間山という場所に陣を作ろうとされている。天気が悪いゆえ作業は時間がかかろう」

山本殿が儂の耳元で囁くように話す。その顔は無表情だ。

「桶廻間」

「左様。小高い山じゃ。このまま南東、手越川沿いに向かうと、今川本陣の正面にぶつかる。ここは途中やや東に向かって、そこから……ここじゃ。ここを目掛けるのが宜しかろう。守りが手薄で坂も緩やかじゃ。足元も悪くない」

山本殿が簡単な図面を見せながら話す。紙は随分と濡れているが絵と文字は読める。山本殿が指で砦から今川本隊までの足順を示してくれる。桶廻間と書かれた山までたどり着くと、“トントン”と指で叩いた。ここを攻めよという意味か。


図面から山本殿の顔に視線を移して頷くと、山本殿が地図を細かく千切って投げ捨てた。武田と織田のやり取りに繋がる証拠を消したのだろう。


川沿いに進んで迂回するか。……気になるな。

「手越川の北側に今川の兵はおろうか」

「沓掛城まで今川の兵はおらぬ。ただ、扇川の付近には武田の兵が控えておる」

「扇川?手越川沿いに今川の本隊へ向かうとすれば随分と近うござる。武田の兵と一戦交えている間に今川の本隊は後ろに下がるのでは無かろうか」

「武田は織田勢に気付かぬ」

「何と申された」

驚いて山本殿の顔を再び見るが、変わらず無表情のままだ。


「雨が強くなって視界も悪い。武田は近付く織田勢に気付かない、と言う事じゃ」

声は小さいが、山本殿がしっかりと話す。その言葉に強い意思を感じた。武田左馬助様も承知という事か。思わず"フッ"と口端を吊り上げたが、目の前の男は相変わらず無表情だ。


「分かり申した。ならば我が軍は全てを掛けて乾坤一擲投じるのみじゃな。貴殿の言を信じ、そのまま殿に報告しよう」

「分かっておられると思うが、これは内々の事なれば上総介様以外への他言は無用に願う」

「委細承知しており申す」

互いに顔をあわせてじっと相手の顔を見る。目を合わせながらゆっくりと頷き合うと、山本殿が不意に背を向け、風のように去っていった。




山本殿との密談を終えて砦の方へ向かうと、物見櫓に立つ殿が視界に入る。すぐに目が合った。

「出羽守っ!」

周りの兵達が皆振り向く程の大きな声で名を呼ばれる。


「はっ!只今!」

叫びながら息を切らして櫓を昇った。雨が強い。滑り落ちぬよう気をつけて梯子を昇ると、お一人で三河の方向をご覧になっている殿がいた。


「何時ぞや萬松寺で会った者だろう。何と申していた」

「はっ。今川の本隊はここより南東に一里、あの方向ですな。桶廻間という山に陣を築こうとしているようでございまする。敵の本陣に行くまでに、守りが薄く坂が緩い場所も教えられました」

「で、あるか。武田は動くか」

「動きませぬ」

「で、あるかっ」


「はっ。されば手越川沿いにこの方向を」

「刻が無い。その方が案内せよ。すぐに立つぞ」

言葉を放つや否や、殿が櫓を滑るように降りていく。慌てて追いかけた。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 織田勢本陣 柴田 勝家




眼前の木々の合間の先には、丸に二引の陣幕が棚引く敵陣が見えた。小高い丘の麓、中腹、山頂の辺りにも軍旗が棚引いている。まばらではあるが赤鳥の旗も見える。陣は張られているが柵は大した事無さそうだ。作業の途上なのかも知れない。


果たしてこれは誰の陣か。殿は清洲城を出るや、寺や神社、城を忙しなく巡って兵を集め、熱田神宮で戦勝祈願の後、善祥寺、中島砦、そしてこの場へと一心に進んで参られた。心の内は分からぬが、外から見て迷いがあるようには見えなかった。何か敵の動きをお掴みになっているのかも知れぬ。


「良いかっっ!皆聞けぃっ!!」

小雨にはなったが未だに降り続ける雨をもろともせず、殿のよく通る声が一際大きく響く。皆が殿の方を向いた。


「この先にいるのはただの敵では無い。今川権中納言義元である。よいかっ!雑兵の首など捨て置け。目指すは義元の首ただ一つ!者ども、すわ掛かれっっ!!」

「「「おおっ!!!」」」


今川権中納言の名に少し驚いた後、全ての味方が雄叫びを挙げて敵陣へと駆けて行った。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 今川勢本陣 今川 義元




「騒がしいな」

雨の音が静かになったと思うと、喧騒のような音が聞こえた。

「左様ですな。奉行殿、何か把握されておるか」

余の言葉を受けて、傍に控える豊前守が武蔵守に問いかける。武蔵に聞くは酷だな。先程陣内に休息の命を伝えて帰ってきたばかりだ。いや、豊前もそれは分かっているが、奉行という立場を立てたのかも知れぬ。

「されば陣内を見て参りまする」

武蔵守が立ち上がって陣を出ようとすると、使い番が息を切らして走り込んで来た。


「も、申し上げまする!東側の陣が敵の急襲を受けておりまするっ!旗は永楽銭。織田の手勢と思われまする」

“なんと”

“まことか”

使い番の報告に幕閣達が驚いている。余も驚いてはいるが、すぐに務めて笑みを浮かべた。


「ほぅ、ようも此処までたどり着いたものよ。まぁ良い。せっかくここまで来たのだ。返り討ちにしてやれ」

「はっ」

余の命を受けて久能金五郎と一宮新三郎が陣屋を出て行った。一の陣に構える兵どもに下知を下すためだ。織田の手勢は幾らかの。千か、多くても二千か。我が方は五千はいる。兵部少輔か内匠助が……兵部は前へ向かわせたのだったな。近くの内匠助が駆け付ければ六、七千。織田の三倍になる。


余の手で織田を蹴散らしてくれる。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡桶廻間 桶廻間山 織田勢本陣 河尻 秀隆




……よく整えられた兵達だ。突然の奇襲を受けて怯んでいた今川の兵は、少しするとこちらの攻撃に反撃をしてくるようになった。だが、今川は総構えのような守りだ。陣の一つ一つの兵は多くない。


幅広に構える今川の陣に対して、味方は一点に集中して押しまくる。集中した味方の攻撃が今川の一陣を崩していく。後少しで突破出来そうだ。


「行かせぬ!」

具足を身に付けた男から刀が振りかざされる。透かさず槍でいなして受けた。短い槍を持ってきて正解よ。動きやすい。

「くおぉぉらぁぁっ」

渾身の力で槍を振り回す。相手が刀で受けようとする。

"カキーン"

という大きな音をたてた後、槍の勢いに負けて相手の将が体勢を崩した。今だ!

「ぐはぁぁあっ」

続けて突き出した槍が敵将の肩に刺さった。構えるために直ぐに抜く。敵は左手で傷を押さえながらも刀を降ろさない。敵ながら天晴れよ。


「はぁぁっ」

敵将が最後の力を振り絞って刀を振り向けるが、もはや緩慢な動きだ。これなら兜と大袖の間から首を狙える。一思いに喉筋を目掛けて槍先を振りかざすと、敵将の首筋から凄まじい勢いで鮮血が吹き出た。敵将が己の鮮血へ目を移した矢先に膝を付いて息絶えた。名のある将だったのかも知れぬ。だがこの先には権中納言義元がいる。


中腹に向かって走りだす。

討ち取った敵の首は取らなかった。




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