第九十八話 転換




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡沓掛 沓掛城 今川 義元




寝所で眠っていると、足音に起こされる。透かさず刀掛の愛刀左文字に手を伸ばした。足音が障子の前で止まる。

「お休みの所失礼致しまする」

「その声は兵部少輔か」

「はっ」

「如何致した」

「早馬にて知らせがあってございまする。松平勢が大高城への兵糧運び入れに成功。返す刀で丸根砦へ攻め掛かったとの由にございまする」

「そうか。元康が頑張ったか。瀬名源五郎は如何している」

「はっ。松平勢の動きと連携し、鷲津砦に攻め掛かっておりまする」

「相分かった。されば今の刻限は何刻じゃ」

「寅の刻になったところにございまする」

「うむ。少し早いが朝餉の支度をさせよ。食が済み次第大高城へ向けて出陣する」

「しかし、まだ鷲津も丸根も落ちておりませぬ。少しばかり危険があろうかと」

「元康と源五郎が攻めかかっているのじゃ。敵に我が本隊を攻める余力は無い。それに余の見立てでは大高城へ向かっている頃にも二つの砦は落ちる」

「御慧眼恐れ入りまする。それではすぐに支度をさせまする」

“うむ”と応えると、ガチャガチャと鎧の揺れる音を立てて兵部少輔が去っていった。


万事予定通りよな。この後は余が大高城に入り、じっくりと中根、善照寺、丹下の三つの砦を落とそう。さすれば織田は熱田神宮か那古野城に引くしかない。上総介は熱田に籠ろうな。織田は熱田を失えば熱田の商人達から上がる利だけでなく、伊勢湾の東側での水運を失う事になる。手勢を南下させれば常滑も手に入る。織田の懐は寒くなろう。その内織田は終いになるに違いない。


急ぐ必要は無いの。悠々と確実に行けば良い。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡清洲村 清州城近郊 木下 藤吉郎




岡崎で今出来る役目を果たして帰国の徒に付いていると、あと少しで清洲という所まで来て、城の方から騎馬武者が駆けてくるのが見えた。間違いない。あのお姿は殿だ。あの方向へ行くということは那古野の方だな。よしっ!


疲れた身体に鞭を打って徒で走ると、那古野城の手前にある榎白山神社の辺りが騒がしい。鳥居の中を覗くと、馬に乗らんとする殿のお姿が見えた。

「お待ちっ、殿っ!お待ちをっ!」

儂の大声に気付かれた殿が眉を潜めてこちらをご覧になられる。

「猿か」

「はっ。木下藤吉郎、役目を果たして参りましてございまする」

「であるか。猿はついて参れ。供の者は暫し待て」

殿が馬に乗られてゆるりと歩み出すが、儂だけ付いてくるように人払いを命じられた。三河の状況を内密に報告せよと言うことだろう。


「松平の郎党はどうだ」

「はっ。相当に今川への不満が燻っておりまする。古参の将程、先々代の頃に三河統一間近まで版図を拡げた事を忘れられぬ様でございまする」

「で、あるか」

これは続きを促す“あるか”じゃな。

「はっ。焚き付ければ古参の者どもを揺らす事は出来まする。なれど今は今川が圧倒的に有利な状況でござれば、このままでは難しゅうございまする」

「で、あるか」

この"あるか"は何事かお考えの時のじゃな。

「それと今一つお耳に入れたい儀がありまする」

「申せ」

「はっ。何かと策を張りに出向いた本證寺でございまするが、昨日未明に火を掛けられてございまする。下手人は分かっておりませぬ」

「今川か」

「それも分かりませぬ。巷では今川とも我が織田とも言われておりまするが、空誓上人には断じて織田ではないと文を出しておきました」

「左様か」

「はっ。一向衆はどうやら今川の仕置と考えているようで、直ぐにでも蜂起するかと。残してきた手の者にも今川が行ったと噂を流すよう命じておきました。今頃は反旗を翻えしているやもしれませぬ。三河は大きく揺れまするぞ」

「で、あるか。ならば何が何でも勝たねばならぬな。猿っ。俺はこれから一勝負する。全てを掛けてな。その為にその方も力を貸せ」

殿のお顔が不敵に笑みを帯びる。怯むな。立身出世の好機じゃ。

「何なりとご用命下されませ」

額を土に付けて平伏すると、"それでは耳が遠い。立て"と仰せになった。立ち上がって殿のお顔を見ると、殿が小さな声で仰せになる。


「俺はこの後那古野、日置神社と立ち寄って熱田神宮へ入る。神宮では戦勝祈願をする。その時に白い鷺を、そうだな、二羽程でよい。用意して飛び立たせよ」

「……吉兆を作り出すという事ですな」

「思ったよりも猿の頭はよく切れるようだな」

殿がニヤリと口を上げる。密かに鷺を用意して密かに飛び立たせる……。懸念があるとすれば残された刻で用意が出来るかだな。

「一刻と少しあれば良いところだが猿。出来るか」

「お任せ下され」

儂が真面目な顔で話すと、殿が"フッ"とお笑いになる。


「二、三羽で良いからな。仰々しくするでないぞ。過ぎては作り物の様に見える。良いな。これは内密の話ぞ」

「はっ。急ぎ準備致しまする。然らば御免」

また全力で走り出す。隠密の大事な命を前に、疲れ等忘れていた。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡 沓掛城の南 松井 宗信




小雨で足元が良くない。輿に何かあってはならぬ。沓掛城を出てゆっくりと南下し、西の大高方面へ進もうとしていると、向こうから早馬が駆けてくるのが見えた。味方の旗を付けている。敵の仮装かもしれぬ。念のために鯉口へ手を掛けて警戒をした。顔が見えた。見覚えのある顔だ。味方で間違いない。


「申し上げまするっ!」

使い番の男が下馬するや声高に叫ぶ。大殿が輿の窓をお開けになられた。

「申せ」

大殿の代わりに使い番へ発言を許す。


「はっ。お味方の松平隊、丸根砦を陥落せしめてございまする!瀬名隊が攻める鷲津砦も敵の援軍を退け、間もなく落ちる頃かと存じまする」

「「おぉっ」」

吉報を聞いた周りの者達が顔を明るくして騒いだ。大殿が輿を降りて立ち上がられる。馬上から眺める訳には行かぬ。騎乗の者は皆馬を降りて大殿に頭を下げる。


「天気が悪いの」

大殿が天を仰いで呟かれた。透かさず近習が横から傘を掛けて大殿が濡れるのを防ぐ。

「強くなるかも知れませぬ」

曇天の中に雨がパラパラと落ちている。小雨が強くなる気掛かりを伝えると、大殿がゆっくりと鷹揚に頷かれた。


"道すがら 丸根の煙も わかざりき 晴るる間もなき 空の景色に"

不意に大殿が歌を詠まれた。どこかで聞き覚えがあるが何れのものだったか。

「頼朝公を題材にされたのですな。大殿が詠まれるに相応しい」

「豊前、煽てるで無い」

頼朝公……。鎌倉の初代か。こうした教養は流石豊前守殿だな。大殿も叱責しつつ満更では無さそうだ。


「兵部少輔」

「はっ」

「道すがら丸根が落ちたであろう」

大殿がニヤリと笑みを浮かべておられる。"恐れ入りましてございまする"と返すと、ハハハと声を上げてお笑いになった。


「兵部、勝鬨を挙げよ」

「はっ」

大殿が笑みを浮かべて儂にお命じになる。腹に力一杯込めて声を張り上げた。


「このまま此度の戦、今川が勝利納めようぞ。皆の者、えいえいっ」

「「おーっ!」」

「えいえいっ」

「「おーっ!!!」」

儂の声に皆が大きく合わせる。本隊の士気は天をも掴んばかりだ。




弘治三年(1557)五月下旬  尾張国愛知郡 大高道 森 隆久




林の中を駆けていると勝鬨が聞こえた。まだ少し距離があるか。何か吉報が本隊に入ったのだろう。ここで吉報となると、お味方が大高城周りの砦を落としたのだろうな。丸根か鷲津か。これから伝えに行く内容を考えると、ほんの少しだけ気が重くなった。もっとも、何が起きようとも儂は役目をこなすだけだ。


林の中を続けて進むと暫くして本隊が見えた。そのまま中心に向かって進むと輿が目に入る。大殿はあそこか。輿へと近づいて行くと、周りを固める従者達が儂の姿に気づいた。

「何奴じゃ」

何人かが刀を抜いて構えている。


「荒鷲の西武方面組頭を仰せつかっている森弥次郎と申しまする」

儂の名乗りを聞いても目の前の武士達が怪訝な顔を崩さない。大殿の廻りに知古はおらぬからな。どうしたものか。

「顔に見覚えがある。皆刀を納めよ」

奥の方から声がしたかと思うと、こちらに向かって歩く武士が見えた。この方は……そうだ、松井兵部少輔殿だな。


「東三河の陣で一緒であっただろう」

「はっ」

東三河の反徒鎮圧の事を仰せなのだろう。あの時は常に若殿のお側にいたからな。儂の顔を覚えていて下さったようだ。

「して、荒鷲の重臣が如何した」

「はっ。御屋形様より大殿へ報告せよと命を受けた儀がありまする」

「御屋形様から?何ぞあったか」

「それは……」

あえて言い淀んで周りにぐるりと目線をやる。

「付いて参れ」

すぐに儂の意図を察した兵部少輔様が奥にある輿の方へと案内して下さる。


「大殿。御屋形様の手である荒鷲の者が報告に参っておりまする」

兵部少輔様が輿に向かって話すと、大殿が窓を開けてこちらをご覧になった。

「内密の報告との事にございます。この者の身元は某が保証しまする」

「某も覚えがありまする」

また一人の将が儂の身元を保証してくださった。井伊内匠助殿か。三河で何度かお会いした事がある。


「左様か。ならば暫し待て。輿を降りる」

兵部少輔様と内匠助殿の計らいで大殿が輿を降りられる。膝をついて深く頭を下げる。


「飯尾豊前、松井兵部、井伊内匠助と荒鷲の者は付いて参れ。他の者は周りを警戒せよ」

大殿が下知されると、近習が離れて周りを固めた。これなら小声で話せば周りの皆には聞かれまい。御屋形様からは直接、内々に報告するよう命を受けている。

「で、如何致した」

大殿が周りの景色を眺めながら呟かれる様に仰せになった。

「はっ。昨日未明、何者かが本證寺に火を掛けてございまする」

「何だと?どの手の者だ」

景色を眺めていた大殿が儂の方へと顔を振る。

「分かりませぬ。なれど市井では早くも今川の仕業では無いかと噂が立ち、一向衆が兵を挙げておりまする」

「もう挙兵したというのか」

「はっ。抱えの兵や町人の門徒を動かすだけでなく、武家の門徒へも挙兵を促しておりまする。応じなければ破門にすると厳しい内容の檄を飛ばしておるようで、三河が揺れておりまする。動きの良さを見る限り、何処かの手の者が動いているかと」

「織田の仕業ではないのか。全く忌々しい事をしてくれる」

大殿が手元の扇子を激しく叩かれる。


御屋形様には報告してあるが、これは十中八九で武田の手の者による仕業だ。御屋形様からは、"武田がやったという確かな証拠が無ければ下手人が誰かと報告したところで意味は無い。本隊を無駄に混乱させるだけだ。その方はただ簡潔に、三河が揺れると報告せよ"と仰せであった。

武田の手の者と思われる者を掴んではいるが、捕らえて吐かせる事ができたとしても、当の武田は認めまい。だから無駄に騒ぐなと御屋形様は仰せになりたいのだろう。


「三河はどうなると見ている」

大殿が儂の顔を見て尋ねられる。儂の考えというよりは御屋形様のお考えをお聞きになりたいのだろう。

「はっ。既に国人の一部が一向衆に与して兵を挙げておりまする。御屋形様はこのままでは三河が大きく揺れるため、一向衆の鎮圧に注力されると仰せでございます。役目の兵糧については、海路を用いて運ぶとの事にございまする」

「海路とな」

「はっ。一向衆の蜂起により東海道は危険が多くなってごさいまする。されば水軍を用いて運ばれると。そのためにも、大殿におかれては熱田湊を確保願いたいと伝えるように命を受けておりまする。また、御屋形様は熱田湊を落とさば、熱田の商人達は自ずと今川に靡き、熱田神宮もその内に我が今川へ」

「皆まで言わずとも分かる」

御屋形様からお聞きした軍略を話していると、大殿が儂の言葉を遮った。


「参議に伝えよ。熱田湊の攻略承知したとな。熱田湊を攻めよと言うのは、早く織田を下せという意味でもあろう。三河が揺れれば、我が陣へ参陣している者共の中にも、此度の戦処で無くなる者が現れよう。その方が内密に余へ直接伝えに来たのはそれを伝える意図もあろう?」

大殿の刺すような目線が儂に降りかかる。流石は大殿よ。十まで言わずとも承知されている。頭を下げて応じた。


「こうなると大高道を進むのは遠回りじゃ。丸根が落ちた今、大高城の鵜殿も危機は脱しておろう。であればこの辺りで北西に向かう道を選ぶ方がよかろう」

「しかし大殿、それは些か危険がありまする。ここより北西は織田の勢力圏に近うございまする。何処其処に伏兵がおらぬとも限りませぬ」

「織田の兵は多くない。伏兵がいたとしても大した数は割けぬ。じゃが戦巧者である兵部少輔の言、確と受け止めよう。なれば其処元はこれより長坂道を本隊より先に進んで前を固めよ。井伊内匠助は巻山へと向かって西を固めるべし。それぞれ千五百の兵を与える。以降は本隊の動きに併せてその方等も陣を動かすべし」

「「御意にございまする」」

大殿の命を受けて兵部少輔殿と内匠助殿が頭を下げる。


「大殿、一つだけ気掛かりがありまする」

兵部少輔殿が下げた頭を上げながら懸念がある旨を伝えている。

「何じゃ」

「手越川沿いに織田が兵を進めてくるやも知れませぬ」

「上総介がと言う事か?フフフ、それは面白いの。余の首目掛けて猛進してくるか。じゃが例え進んで来たとしても、本隊にはまだ五千もの兵が残っておる。それに手越川の横にある扇川沿いには武田の陣も備えておる。余の元までたどり着く事など出来ぬ」

「左様。大殿の御身はこの豊前守が命に代えてもお守り致す。ご安心召されよ」

飯尾豊前守殿が胸を張って応えた。

「なれば良いのですが油断はできませぬ。お気をつけ下さいませ」


「豊前守、あそこに見える小山があろう。あそこに陣を構えよ。余の目で戦況をよく見たい」

大殿が右手前に見える小山を指差された。差された先には一町は無さそうだが、随分と小高い山があった。

「おい、あの山は何と申す」

豊前守殿が人払いで遠くに立っている案内人に向かって大きな声を掛ける。案内のために雇った土地の者だろう。豊前守殿の手招きを受けて、小男がこちらにやって来た。


「へぇ、あの山でごぜぇますか。あれは桶廻間、土地の者は桶廻間山と呼んでごぜぇます」

「桶廻間とな。どういう意味じゃ」

大殿が話しかけると、案内人が緊張した面持ちをさらに増して応えた。大殿の様な身分の方から声を掛けられる事など初めてなのだろう。


「へぇ、あの辺りは湧水がよう出てごぜえます。水を汲みやすいように村の者が桶を置いといたら、水が溜まってくるくるとよく廻るもんでそう読んでおりますだ」

「そうか」

「そうなると泥濘ぬかるみも多いのか」

大殿に変わって兵部少輔殿が問いかける。

「へぇ。丘の麓の足元は特に悪うごぜぇます」

その通りだ。荒鷲が人を使ってこの周りを調べた時にも足元は悪かった。この雨ではさらに悪くなっているやも知れぬ。


「大殿、頂きに陣を構えれば戦場が良く見えるやもしれませぬが、兵を引くには難しい場所かも知れませぬ。くれぐれもご用心下され」

「うむ。用心はするが、本隊に敵が近づかぬよう其処元と内匠助を配置するのじゃ。それに武田の手勢もおる。万が一ここに現れた時は手負いの敵じゃ。鎧袖一触にしてくれよう」

大殿のお言葉に豊前守殿が力強く応じられている。


暫くして松井兵部少輔殿と井伊内匠助殿が本隊から離れてそれぞれ別の場所へ進んでいった。本隊は桶廻間山へ向けて方向を転換している。儂も手の者達に合流しよう。御屋形様にも逐次使いを出さねば。



先程よりも雨が少し強まっていた。



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