第九十七話 軍配




弘治三年(1557)五月中旬 遠江国敷知郡濱松 曳馬城 井伊 直盛




「武田家御使者、山本勘助殿がお目通りを願っております」

「……通すが良い」

小姓が山本殿の来訪を告げると、大殿が息を吐きながら応えた。如何にも気がお乗りにならないといった感だ。

彦次郎の叔父から聞いた事がある。山本殿は武田家に仕える前は今川家に仕官を願ったが、卑しい身分や矢傷多き風貌を好まれず仕官を許さなかったとか。矢傷は武士の譽だ。それが仕官の足枷になったとは思えぬ。恐らく小者すら持たぬ身分が承服しかねたのだろう。その点、今や山本殿は武田家でも大膳大夫様に重用される身と聞く。今とて武田家の正式な使者として来ているにも関わらず、大殿は御簾越しにお会いになろうとされている。戦場で盟約先の使者に対して仰々しい限りだ。山本殿が気分を害されなければ良いが……。


「……失礼致しまする。山本勘助、我が主大膳大夫の名代として参陣せる武田左馬助信繁が使者として罷り越しました。今川権中納言様に置かれましては、尾張征討の挙兵、祝着至極にございまする」

暫くして足音がしたかと思うと、みのに身を包んだ男が現れ、僅かな躊躇ためらいの後に口上を述べた。


暫しの沈黙が訪れた後、大殿が“豊前”と呟かれた。名を呼ばれた豊前守殿が頷いて山本殿の方へ正対される。もしやと思うが……。

「武田家の馳走、まことに忝い」

豊前守殿が嘲笑を込めた響きで山本殿へ謝を告げる。いかぬ。本来ならこの場の筆頭となる豊前守殿が、御簾越しに会う事や直に謝を申されぬ事に苦言をせねばならぬと言うのに……。大殿に同調して如何する。雪斎禅師がおれば……。いや、三浦左衛門尉殿でもこの様な仕置は許されぬだろう。豊前守殿は村木砦での失態以降、すっかり腰巾着と化している。


「はっ。勿体なきお言葉にございまする」

山本殿が表情も無く粛々と応える。顔からは伺えぬが、内心は憤懣やる方無いかもしれぬ。


「左馬助様の陣は何処にあるのでござろう」

「はっ。信州南部の伊那郡から三河に入っている頃かと存じまする。数は約三千。足助方面に抜ける予定にございまする」

儂が武田の援軍がどこにいるか尋ねると、山本殿が淡々と応えた。三千か。兵力は聞いておらなんだが先んじて応えるとは出来る御方よな。すでに味方の領内という事だが大殿の表情に驚きは見られない。予め武田家とのやり取りで決められていた道順なのだろう。

大殿の表情を見ていると、不意に目が合った。外様の儂にとっては恐れ多い事ではあるが、大事な戦の前じゃ。目で山本殿にお声を掛けられる様に訴えると、辟易された様なお顔を浮かべつつも首を僅かに縦へと振って下さった。


「武田の援軍忝しと左馬助殿に伝えよ。沓掛城にて合流し、その後は城にて軍議とな」

「……はっ。必ずやお伝えいたしまする」

大殿が言葉を発せられると、山本殿が少しだけ眉を動かした後、先ほどまでと同じ様に淡々と応じた。




弘治三年(1557)五月中旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 今川 氏真




大降りの雨が続いていた中、曇天とはいえ雨の無い空が広がっている。視界が雨よりは良いと喜ぶべきか、雨なら自然と水を飲めたと口惜しがるのか、輿持ちの従者の心は如何にと顔を除くが、俺と顔が合うと無表情な顔を伏せて畏まった。


俺としては……そうだな。信長公記を信じ、そしてなぞるなら雨が降って欲しい。豊川稲荷に戦勝祈願と出張って密かに豪雨でも祈願するか。村木砦を巡る戦いを見ていても分かる。悪天候であれば信長は出てくる。史実での信長の印象は"堅実"だ。敵よりも多い兵や地の理を押さえて戦う場面が多かった様に思う。だがこの頃の信長に敵よりも多くの兵を揃えるのは難しい。博打を重ねている様なものだが、伸るか反るかを繰り返して大きくなってきた。


「それでは参議、余はこれより尾張へ向かう。無事に戦が終わりし時は、そうじゃな。清州で会おうぞ」

最近の蟠りが無かった様に澄んだ顔で父上が話される。真の顔か権謀が成せる顔か。

「御意にござりますが大殿、いや父上。この先はくれぐれもご用心下され。戦場いくさばは何が起こるか分かりませぬ」

「分かっておる。散々に軍儀を重ねたではないか。その方がここまで心配な性分だとは思わなんだ」

俺が別れ際に注意を促すと、些か聞き飽きたという顔で父上が応じる。昨夜から何度も言っているからな。今橋へ着到した父上とは幕閣を交えて軍儀を重ねた。


やはり父上も花倉、河東と軍配を振るってきただけはある。慎重かつ大胆に軍を進めて、確実に尾張を取らんとしていた。ここで俺が出来るのは、慎重論を唱えつつも万事滞りなく進んでいると呟き、少しでも油断を誘う事だけだ。


史実では奇跡が重なったとしか思えない信長の奇襲成功だが、果たしてこの世界ではどうなるか。今のところ駒は思った通りに進んでいる。父上は手越川と扇川の南側が主戦場になると見ている。軍議で考えられた配置で邪魔なのは、沓掛城の南西に配置される武田勢位だな。信長が史実の様に奇襲を選び、そして進軍ルートとして扇川沿いを選ぶなら見敵する可能性がある。


「戦は慎重を重ねた上で、少しだけ果断になれば良いのです」

「余とて若き頃はよく戦場に立ったものだ。心得ておる」

「はっ」

膝を地につけて父上が輿に乗るのを見送る。父上が輿の中から窓を開けて顔を出す。

「ご武運を」

短く告げて頭を下げると、“うむ”と言葉が掛けられて輿が動いた。守護を象徴する白い傘と白い毛氈鞍覆が続く。これでは此処が本陣と教えるようなものだ。流石に尾張入りした後は伏せると思うが、これを使って敢えて本陣と見せる手もある。偽計にも使えるな。父上はどうされるか……。

荒鷲を使って父上の所在を常に探らせよう。

後は知り得た情報を如何に使うかだな。




俺の手はあの傘の様に白くなくてはならぬ。




弘治三年(1557)五月下旬 尾張国愛知郡沓掛 沓掛城 今川 義元




「鎌倉往還を進んで一挙に鳴海、清洲へ行く手もあるが、大高城で頑張っている鵜殿長門がどこまで持つか分からぬ。万が一大高城が落ちれば面倒になる。沓掛城を出た後は南下し、大高道を西に進む。余が大高城へ入って将兵を鼓舞し、そこから此度の戦の指揮を取ろう」

「良き御思案かと存じまする」

「それがよろしいでしょう。味方は大軍なれば、大高から出城をじっくりと攻めればよいかと」

余が目の前に置かれた盤上の地図に扇子を当てて隊の動きを示すと、飯尾豊前守が即応した後、松井兵部少輔が賛意を示した。豊前の反応等どうでも良いが、戦馴れしている兵部少輔が同意したのは良い。


「その大高城だが、長門守から城内の兵糧が心許ないゆえ至急運び入れて欲しいと申し出が来ている」

余が長門守からの願いを告げると、皆が難しい顔をして目を伏せた。大高城は織田の砦が周りを囲んでいる。兵糧の運び入れは中々の難儀であろう。


余が尾張を切り取ると檄を飛ばした時は、皆が勇躍兵を集めて駆け付けたものの、いざ難しい戦いを前にすると躊躇するとは情けない。幕閣に目をやると、頼もしい表情をしている元康が見えた。

「元康!」

「はっ」

元康には元々先鋒の役目を与えると申してある。これは良い出番と言えるだろう。


「其処元は松平の手勢を率いて大高城へ兵糧を運び入れよ。運び入れた後は大高城の守備につくか、丸根の砦を攻め落とすべし。長門守の余力を見て判断せよ」

「ははっ。でありますれば間もなく夜が更けまする。暫し休息の後に闇に乗じて運び入れまする。この元康、必ずや大殿のご期待に応えて見せまする」

「うむ。その策や良しじゃ。其処元からの吉報を待って余は沓掛城を出る事としよう。頼んだぞ」

元康が“はっ”と応じた後、素早い動きで席を立っていく。


「瀬名源五郎」

「ははっ」

余が名を呼ぶと、瀬名伊予守が前に出て膝を付いた。かつての遠江今川家に連なり一門格とされる瀬名家の当主だが、余が当主となった頃に不審な動きをしたため弟の関口刑部を用いて源五郎は遠ざけていた。最近は愚直に役目をこなしている。ここは一つ戦場での役目を与えよう。

「源五郎には二千の兵を与えるゆえ、大高道と大浜道の交わるあたりに陣を設け、必要あらば松平元康の後詰をせよ。元康が丸根砦に攻めかかる場合、其処元は鷲津砦を攻めるべし」

「御意にござります」

「うむ。目障りな鷲津と丸根を落とさば、悠々と尾張切り取りが叶うであろう。であればこそ織田も鷲津へは援軍を差し向けるはずじゃ。難しい戦いとなろうが、其処元ならばできるな?」

「はっ。吉報をお待ちくだされ」

期待しているという表情を作って源五郎の顔を見ると、喜色の中にも僅かに不安が見て取れた。

「天白川に控えさせている水軍、岡部忠兵衛にも大高方面の事情は伝えておく。丸根と鷲津に攻めかかる頃には川を北上して織田方を威圧せよとな。織田の援軍も気がそぞろとなろう」

「委細承知仕りましてございますっ」

今度は力強く源五郎が応じる。よし、これで大丈夫だろう。


「近藤久十郎景春」

「ははっ」

「この沓掛城は此度の戦で引き続き要衝となる。城主の其処元がしかと守るべし」

「御意にござります」

「うむ。戦が無事に終わりし時はその方の忠義に報いようぞ。それに沓掛城の南西には武田からの援軍を配置する。今までより城の守りは容易くなるじゃろう」

「大殿の御配慮、この久十郎慶賀に堪えませぬ。有難き幸せにござりまするっ」

久十郎が嬉しそうな顔を浮かべて応えた。久十郎は先頃切腹を申し付けた山口親子が調略してきた新参者だ。余が目を掛けていると伝える事で励むだろう。



戦が動くのは明日だな。今日は早めに夕餉を取って寝るとしよう。元康からの報に期待だが、鷲津も丸根も守る兵は三、四百と報告を受けている。対して我が方は優に三倍を超える。盤上は磐石よ。敵の"歩"に対して"金銀"を付けていると言えよう。


そういえば参議が"歩も成れば金と化す"と申していたな。

ふむ。一理ある。慎重も過ぎれば勝機を逃すが、一手を確実に進めるとしよう。




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