第九十六話 岐路
弘治三年(1557)四月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真
「それでは大殿、某は一両日中に府中を出陣致しまする。一足先に今橋へ向かって準備しておりまする」
「うむ。兵糧の類いは万事参議に任せておる。その方の事じゃ。抜かりは無いと思うが、此度の戦は大軍を連れていくゆえ不足無きよう頼むぞ」
「はっ。お任せ下さいませ。既に用宗から大量の兵糧を積んだ船が田原湊へ向けて出航しておりまする。三万もの大軍でも半年は戦えましょう」
「左様か。その方の働き誠に大儀である。その兵糧じゃがの、甲斐の武田から無心があった」
兵糧の無心?俺が訝しむ顔を浮かべると、俺の顔を嘲笑と取ったらしい。父上が笑いながら話して来た。
「北信濃で武田に不満を持つ者どもが反旗を翻しているらしい。大した事はないが、この鎮圧に兵糧を使ってしまって懐が厳しいようじゃ。フフフ、甲斐の武田は誠に貧しいのぅ」
「成る程、それで援軍にあたっての兵糧は我等に出して欲しいと」
「そうじゃ。それに援軍の礼も兵糧が良いらしい。フフフ、余程米不足に困っていると見える」
「……。」
兵糧の無心、か。そのまま受け取ればよいのだろうか。
……まぁここはそのままで受け取っておくか。攻め込む先の相手から兵糧を貰う等聞いた事がない。だが相手はあの信玄だからな。少し慎重になった。
「その方の気持ちは分かる。此処まで見境も無く乞うてくるものかとな。じゃが仕方あるまい。此処は我が今川の懐の深さを見せてくれよう」
「武田殿を蔑むつもり等ありませぬ。大膳大夫殿は色々と苦心されているのだと思っておりました」
「ハハハッ。殊勝な答えをするではないか。恥を忍んで頼んできているのじゃ。ただ応じるのでは無く色を付けてくれてやれ」
「ははっ」
“色を付けて渡せ”か。人の兵糧だからと椀飯振舞していないか?
小言を言いたくなるのを努めて抑えた。
「委細承知致しました。それでは失礼いたしまする」
「うむ。余も今橋に立ち寄る予定じゃ。今橋にてまた会う事としよう」
「御意にございます」
父上の前を後にして自分の家臣達を集めている広間に向かう。
部屋に入ると、皆が平伏して俺を迎えた。戦を前に厳粛な雰囲気だ。
「待たせたな。皆面を上げよ」
俺の言葉で皆が揃って顔を上げる。俺が尾張攻めは容易くないと言ってきたせいか、皆が厳しい表情を浮かべている。
「いよいよ父上が尾張に向けて兵を挙げられる。俺は此度の戦においては兵糧を担っているゆえ、一足先に今橋へ向かって準備をする」
「「ははっ」」
せっかく皆が気持ちを引き締めているのだ。ここは俺も威厳を持って望もうか。
“これより軍令を発する”
腹に力を込めて発すると、皆が俺の方を向いて正対して頭を下げる。吉良上野介と狩野伊豆介だけは盤図と駒の用意だ。
「今橋城へは聯合艦隊を編成して船で向かう。用宗を出航し田原湊へ上陸する。庵原安房守、朝比奈弥次郎、安倍大蔵尉、葛山六郎、蒲原伯耆守は用宗に参集せよ。出航は二十五日とする。現地に到着次第、渥美の親衛隊を吸収して軍を再編成する。陣容は改めて伝える事にする。次に三浦左衛門尉、関口刑部少輔はこの館に留まり不測の事態に備える事」
「はっ」
三浦左衛門尉は父上が帯同したがったが何とか断った。朝比奈備中守亡き今、筆頭家老の左衛門尉は国許に残しておきたい。史実では桶狭間で戦死するはずだ。史実では雪斎、朝比奈泰能、三浦義就と中核を悉く失った。
……いかぬ。
此度の戦に我が今川が敗れるようではないか。
今日は心情を隠さねばならぬ機会が多いな。当主も楽ではないわ。
「長野信濃守は韮山城に入って万が一に備えよ。下田の親衛隊二千を韮山に向かわせる。沼津の親衛隊と真面之要塞の軍権も預ける。北と東にもしもがあれば対応せよ」
「御意にござります」
信濃守が頭を下げる中、幾らか皆に動揺が走っている。北と東と言葉を濁したが、俺の言葉は武田と北條に備える事を意味している。それに家中では新参になる信濃守に少なくない兵を預けるのを驚いているのだろう。信濃守は信頼がおける。今川の他に行き場が無いからな。それに有能だ。韮山での守備は何も無ければ手柄は挙げられないが、数千の兵を率いた実績を積める。家中での立場も固まるだろう。
「後顧の憂いがあっては安心して戦えぬ。これで父上は心置きなく尾張で戦えるだろう。俺も安心して今橋で差配が出来るというものだ」
俺の言葉に皆が頷いている。
軍儀を終えて広間を出ると、昼が近い刻限だった。
後は聡子と春に会っておくとするか。しばらく会えなくなるからな。
弘治三年(1557)四月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真
"御屋形様"
春との時間を過ごして執務室へ向かおうとすると、伊豆介が静かに声を掛けてきた。内密の話をしたい時の顔だ。"付いて来い"と言って執務室へ案内する。
「今少し待てる話か?すぐの話か?」
「今少し待てまする」
「で、あるか。喉が乾いたゆえ茶を持ってこさせる。暫し待て」
火急案件かもしれないからな。一応確認をしてから小姓に茶出しを命じる。今日の気分は煎茶だな。本当は薄茶を点てたいところだが、暢気な事も言ってられぬ。煎茶は少しぬるめにさせよう。茶菓子は和三盆の日菓子にしようか。少しすれば夕餉だからな。あまり腹に残らない方がいい。
「難しい話だろう?せめて一服くらいしよう」
「ははっ」
暫くすると小姓が茶と菓子を運んできた。人払いをして二人で楽しむ。伊豆介も茶人としての風格が板に付いてきたな。
肩肘張らずに茶を楽しんでいると見える。
「さて、このままゆっくりとしたい所だが悠長にもしておられぬ。それなりに急ぎの儀であろう?」
俺が問いかけると、伊豆介が湯飲みを置いて姿勢を正して"はっ"と応じる。
「何用か」
「はっ。先にご報告した三河での他国者について、お耳に入れたい儀がございまする」
「うむ」
「幾人か怪しい動きをする行商や旅人を探った所、武田の手の者と思われる者が数名特定出来ましてございまする。一人は三河の出で、家族もおりまする」
「ほぉう、続けよ」
「はっ。武田の手先と思われる者でござりまするが、どうも本證寺に火を掛けようとでもしているのではないかと」
「火?」
「はっ。足が付かぬように小まめに買うているようですが、油屋への出入りが多うございまする。それに本證寺の付近を彷徨く事も多いとか」
「何だと?」
武田の間者が本證寺を焼こうとしている?
思わず茶を吹き溢しそうになった。俺がやろうと思っていた事を武田が行おうとしているとはな。
今川と武田は盟約しているが真か?いや、盟約等関係無いな。"利"あらば動くのが晴信だ。であれば晴信は何を持って“利”としているか。
「武田の目的は何だろうな。尾張攻めの嫌がらせか」
「火を掛けたのは今川とすれば、一向衆は決起致しましょう。それに本隊が尾張入りした後に行えば、御味方は後方が脅かされまする」
「糞坊主をのさばらせておくからだ」
初めから不満分子を根こそぎ処断しておけば、火を掛けてもただの
「……仰せの通りでござりまする」
この世界で権威を持つ僧という存在に対して俺が容赦の無い一言を浴びせると、伊豆介が微笑を浮かべながら応じた。
「武田が今川を勝たせたくないのは何故か……。ま、南をぐるりと囲まれるのを嫌がっているとしか思えぬな」
「左様に思いまする」
最後の和三盆を口に含み、ゆっくりと味わう。円やかな甘味が口に広がって茶が欲しくなる。湯呑みに残っていた茶を飲み干して頭を戻すと、伊豆介と目があった。伊豆介がゆっくりと頭を下げてくる。俺に下知を求めているのだろう。
「武田が寺を焼こうとするなら止めはせぬ」
「……はっ」
少しの間があった後に伊豆介が応じる。
「今川が火をつけたと噂を流せ」
「御屋形様、それは」
流石にこの命には伊豆介が驚いている。
「分かっている。坊主どもは一気に蜂起するだろう。これを機に根絶やしにしてくれる」
「恐れながら、一向衆が蜂起すれば三河が大きく揺れまする。御屋形様の任である兵糧を運ぶ役目が果たせませぬ。後の禍になろうかと」
やはり伊豆介は頭の回転が早いし鋭いな。俺が考えている事を察しているかも知れぬ。いや、分かっているだろうな。だが、伊豆介は俺の心まで聞いてこない。この時代、言葉に出した事と出していない事では大きく意味が違う。改めて良い家臣を持ったと思った。
「俺が謗りを受ける事を案じてくれているなら不要だ。陸路が使えぬ時は聯合艦隊を用いてでも兵糧は必ず運ぶ」
「承知仕りました。武田の間者は泳がせておきまする」
「家族あると申した者は逃すなよ。事が起きた後、使えるかも知れぬ」
伊豆介が“御意”と応じて下がっていった。
一つ、また一手を進めた。
誤りは無かっただろうか。
父上は、信長は、晴信はどう動くだろうか。
数多ある選択肢の中から選ぶべきを選んでいるだろうか。
……前世では無かった感覚だ。
日を追うごとに高まる緊張感に圧し潰されそうになりながらも、どこか楽しんでいる自分がいた。
弘治三年(1557)四月下旬 三河国額田郡康生町 岡崎城下町 木下 藤吉郎
「縫殿助殿、松平家中への根回しは滞りないかな」
「おぉ、これは木下様。お待ちしておりました」
儂が話しかけると、岡崎有数の呉服屋である後藤屋の当主が笑みを浮かべて応じた。だが、この笑みは真のものではない。先程遠目に儂の顔を見つけた刹那、僅かに煩わしそうな顔を浮かべたのが見て取れた。後藤縫殿助……。岡崎では名のある商人だが、熱田や津島の商人に比べればまだまだよ。
「日毎何度もすまぬな。特に変わりは無いか。儂の顔等見飽きたであろうが」
胸懐等尾首にも出さずに、すまなさそうな顔を浮かべて話しかけた。
「見飽きる等と。お待ちしていたのは本当にございまする」
儂の顔を見て後藤殿が少し真剣な表情に変わった。
「ほぅ、何ぞ動きがあったかな」
「はい。阿倍大蔵様がお会いになりたいと仰せです。場所は大樹寺で如何かと」
「おぉ。会うてくれるか」
「はい。それにしても木下様は恐ろしき御人ですな。まさか空誓上人と顔見知り、しかも会わねば破門との文を出されるとは」
後藤殿が苦い顔を浮かべている。その通りだ。織田は対今川への策として本證寺へは何かと寄進をしてきた。そのつてを使って空誓上人と会うことが叶った。会えれば儂の勝ちよ。あの手この手を試して籠絡してくれたわ。上人には仏敵治部大輔が効いたな。最後は銭で動いたが、その銭も今川を討つために必要としているようだった。
「まぁ何かと縁があっての」
「その縁に手前もぜひ加えて頂きとうございまする」
こういう時は含みを持たせて返すのが良い。こうすれば人は儂という人を勝手に大きく見る。
「もちろんじゃ」
「それはありがたい。それで、こちらが大藏様からの文にございまする」
後藤殿が笑みを浮かべながら小箱から大切そうに文を取り出すと、丁寧に差し出して来た。受け取って中を確かめる。
“儂の都合が良い日に大樹寺で”か。それに一人で赴くように書かれていた。熱田や津島の者が来月にも今川が尾張へ来るやもと申していたな。荷動きが俄に激しいと。ならば時が無い。明日、いや今日にでも願いたいと文を出そう。
松平の譜代衆が今川の事をどう思うておるか。
少なからず不満はあると聞いている。後はこの不満をどう焚き付けるかだ。
難しい役目だが、上手く行けば殿がお褒め下さるだろう。
気を引き締めつつも、自然と胸が躍った。
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