第九十五話 仕掛け




弘治三年(1557)三月下旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 望月 まつ




また馬の嘶く音が聞こえた。

最近はどうも城中が騒がしい。駿河の大殿が尾張攻めをするための援軍を準備しているようだが、それだけではないはずだ。密かに調べてみると、北信濃できな臭い動きがあるらしい。そのための兵を集めているようだが、その割には随分と騒がしい気がする……。ま、今回分かったのはここまでだ。

「梅屋」

「へぇ、何でありましょう」

声を掛けると、髪に白いものを生やし始めた男が愛想のいい顔をして振り返る。

「府中の御屋形様にこの茶菓子を」

何時ものように文を忍ばせた茶菓子を渡して目配せをすると、梅屋の番頭が僅かに忍びの表情で頷いた後、すぐに商人の顔に戻った。


「確かに承りましょう。聞くところによれば、御屋形様は甲州から届けられるこの茶菓子を心待ちにされているとか。きっとお喜びいただけましょう」

「この前に兄上から届いた文にも礼が書いてあったわ。峰之澤方面の視察の折に野点をして伴と楽しんだと」

私と番頭のやり取りを横で見ていた御裏方様が笑みを浮かべて会話に入って見えた。

「左様でございましたか。我々商家はお届けこそ致しますが、そこまではお聞きする事が中々できず……」

「失礼いたします」

梅屋の話を遮るように侍女の菊が入って来る。随分と忙しないが何か生じたのだろうか。

「お義母さまが?」

「はい」

「構わないわよ。お通しして」

どうやら御台様がお見えになるらしい。御裏方様が皆に向かって控えるように指示を出される。

菊が部屋を出るや、あまり間を置かずに御台様がお見えになった。


「嶺さん、急に邪魔をして申し訳ありませぬ。梅屋が来ていると聞いて居ても立っても居られず来てもうてしまいました」

「義母上さま、お気になさらずにして下さいませ。私こそお誘いすればよかったですわ。何分梅屋の来訪が急に決まりまして、慌ててお伝えしてもご無礼かと思いましたの」

「無礼等と、その様な事あらしゃいませんわ」

御台様が首を僅かに動かして笑みを浮かべている。上品な仕草だ。


梅屋は府中に拠点を置く行商、ということになっている。いつも来る度に府中で流行の反物や細工を持参するため見ていて楽しい。御裏方様が梅屋からお買いになった反物で作った着物を召されていた時に、御台様が大変気に入られてから梅屋が来る時には同席される事が多い。


普段は月に一度来る程度だが、今月は二度目になる。城中の様子を見るためだ。私の文と合わせて御屋形様に状況を報告してくれるだろう。


"まぁ、これは何と素敵な色合いで"

御台様が広げられた反物をご覧になって声を上げられる。お顔は満面の笑みだ。これが謀りの笑みであるなら驚きだが、心配は無さそうだ。御台様は清華家である三條家出身なだけに、流行り物に目が無いのだろう。


"御屋形様が明後日にはまたご出陣との事だわ"

品定めが終わって一息ついていると、御台様が茶を飲みながら話される。

"御屋形様が?"

"今川さんへの援軍を前に後顧の憂いを断つとか仰せであらしゃいました。表は何かと大変のようね"

"実家の面倒に巻き込んで申し訳ありませぬ"

"気にしなくてもよくてよ。殿方がいない時こそゆっくり楽しめるものもあるわ。流石に外に出る事は叶わないけれど呼ぶ事は出来るでしょう?"

御台様が扇を口元に寄せて首を傾げて見える。失礼な物言いかも知れないが可愛らしい仕草だ。この御方にはこうした仕草がよく似合う。梅屋の次は富士屋が呼ばれるかも知れないな。


しかし、明後日に御出陣か。ふむ、成る程。

梅屋の顔を覗くと、他の者には分からない程小さく、一瞬だけ促いた。

武田の御屋形様が出陣する旨は梅屋が御屋形様に伝えてくれるだろう。私の仕事は誰が出陣したかを調べる事だ。また気の抜けない日々がやって来そうだ。




弘治三年(1557)四月上旬 尾張国春日井郡清洲村 清州城 木下 藤吉郎




「うむ……今少しじゃな。おい、もう少し味噌を加えるのじゃ」

夕餉にお出しする味噌汁の味を確かめていると、大きな足音がして殿がお見えになった。

「こ、これは殿っ!斯様な場所にお越しにならずとも……いやいや、それよりもいかが」

慌てて姿勢を正して平伏する。

「猿っ!ついて参れっ」

「はっ!すぐにっ」

殿がすぐに踵を返して足早に歩かれる。置いていかれまいと小走りに追いかける。


しかしなぜ呼ばれたのだろう。殿の味の好みに合わせて塩や味噌を使う量が増えたからだろうか。いや、それは問題ないはずだ。毎回決まった商人から決まった物を買うていたのを改め、値を競わせてから仕入れている。使う量は増えたが、仕入れに使う銭は少なくなったはずだ。儂が台所奉行になってから味は良くなり、使う銭も減り、そうじゃ、品数も一品増えたはずじゃ。


あ!この前腐りかけた味噌を持って帰ったのが見つかったかの。捨てるくらいならと、かかあのために持って帰ったのじゃが……。それを咎められるのかも知れぬ。いや、それともあれか。残り物を摘まんだのを叱責されるやも……。先日も手を付けずに捨てられそうな饅頭があって、勿体無いとつい手出ししてしまったのじゃが……。


殿が寛がれる時に使われる小部屋に入ると、殿が畳の上に“どす”とお座りになられた。平身低頭してお言葉を待つ。


「遠からず今川がこの尾張に攻めてくる」

「はっ」

今川が尾張攻めをしようとしている事など皆が知っている事だ。殿の言葉の続きを待つ。

「その方は今川に仕えていた事があったな」

「はっ。今川とは申しましても今川家臣の陪臣の、さらに家臣という立場でござりました」

「それは知っておる。その時分は下働きとして行商の様な事をしていたとも言っていたな」

「はっ。前の家中に取り立てて貰うまでは尾張や三河、それに美濃へと針売りとして放浪しておりました。その見聞を活かして前の家でも台所を預かっておりました」


「ふむ。なればその方、三河に多少明るいな」

三河に?明るいと申してもどこの事を申しているのか……。

「路銀は用意するゆえ、三河松平の家中と繋ぎを得よ。それから調略もな」

「松平と?お言葉ではありまするが、松平は今川と同盟、いや、今川の家臣になったようなものにございまする。調略等できようが」

「ある」


「はっ、あ、へぇ?」

「阿呆な顔をするな。只でさえ見苦しい顔がもっと見苦しいぞ」

「そ、そこまで仰せにならずともよいではありませぬか」

儂の抗議に殿がニヤリと笑われる。

「それよりも本題だが、松平の調略は何も元康を寝返らせよと申している訳ではない。阿倍大蔵、鳥居伊賀守といった古参の家老どもの心を揺らせと申しているのだ」

「成る程と申したい所ではありまするが、今川の大軍を前に劣勢な我が方に付きましょうか」

「ふん。猿、随分とはっきり言うてくれるではないか。まぁよい。俺とてそれは分かっている。今川に対して大きな勝利は必要だ。それも自力でな。誰もが驚く勝利を収めた後が肝要よ」

なんと……。殿は戦の後の事を既に考えておられるという事か。確かに敗れたら我等に先は無い。考えても詮無き事だ。勝った時に何をするか。これを予めお考えだから殿は大きくなられてきた。殿に御認め頂くには儂も殿のお考えに付いて行かねばならぬ。必死に考えを巡らせた。


「確かに、織田が今川に勝てば松平は動揺致しましょう。特に譜代の家臣は今川に不満が溜まっておりまする。なれど鞍替えまでは」

「本證寺だ」

本證寺?一向衆の寺じゃが……。もしや!

「今川と犬猿な一向衆を焚き付けて松平の譜代を動かせということでござりますな。確かに、今川が敗れれば一向衆は門徒に檄を飛ばしましょう。松平の家臣には門徒も多ければ山を動かせるかも知れませぬ」

儂の言葉に殿が唇を吊り上げる。回答や良しのようじゃ。


「ご期待に沿えるよう励みまする!」

大きな声で応えながら頭を下げると、殿が"励めよ。その方が役目を成功させれば、きっとねねも喜ぶだろう"と仰せになって部屋を出ていかれた。


なぜねね様の名前が出てくるのだ。

もしや殿は、儂がねね様をお慕いしている事を知っておられるのか?

いや、待て。今はそれどころでは無い。松平じゃ……!

まずは出向いて情報を得なければ始まらぬ。岡崎の町は行商の頃に何度も行った町じゃ。

策は道中に考えるとするか。

よし、そうと決まれば岡崎に出立じゃ!




弘治三年(1557)四月中旬 富士郡上中里村 先照寺 今川 氏真




「見事な景色でおじゃりますの」

「お喜び頂けた様で何よりでございまする」

草ヶ谷権右少弁が見事な桜に感嘆の声を上げると、狩野伊豆介が言葉なく大きく頷いた。それを見た大宮司の富士兵部少輔が笑みを浮かべて応えている。自慢の景色を心から褒められたのだ。嬉しくもなるだろう。


今日は腹心の権右少弁と伊豆介、それから長野信濃守を連れて先照寺まで足を伸ばしている。内密の話をしたかったからだが、泥々した話をする必要がある。せめて景色だけは良いところでと思って大宮司に頼んで邪魔をした。大宮司にも話をしておきたかったからな。ちょうど都合がいい。


しかし桜が綺麗だな。今日は風も穏やかで雲も少ない。青々とした空にひらひらと桜が舞っている。前世で見た映画を思い出した。桜の花が落ちる速さは……というやつだ。儚いがいい映画だったな。


「桜をお褒め頂いて嬉しゅうござりますが、わざわざお越しになられたのは見るためだけではありますまい」

皆でゆっくり桜を眺めていると、頃合いを見計らって大宮司が話してくる。俺が大蔵方と荒鷲のトップを引き連れて訪れているのだ。主旨が気になる所だろう。


「甲斐に放っている繋ぎから文が届いた。どうも出陣の仕度が仰々しいらしい」

俺が呟くと伊豆介が促いた。文は妹で武田太郎義信正室の侍女から届いたものだ。確かな情報源からだが、そこまで伝える必要はあるまい。

「仰々しいと仰ると?」

大宮司も立場を弁えている。情報元や確からしさを聞いてくる事はない。俺の言を信じてくれたと見える。

「うむ。父上は此度の尾張攻めで、武田に対して三千程の援軍を頼んでいる。だが繋ぎからの知らせによれば、武田の動きは三千等ではなく、かなりの数で出陣をしようとしているようだ」

「北信濃で不穏な動きがあり、これを潰すためのようでございまする」

俺が一通り説明すると、伊豆介が続けて状況を話す。

「北信濃で不穏な動きというのが確かな報せかは今調べさせている。ただ、北信濃の鎮圧のために大軍が必要かな。どうも武田はきな臭い」

前世での武田信玄の存在が邪魔をする。今川に隙あらば駿河を侵してくるのではないかと。


「と、仰せになると?」

大宮司が困ったような表情で俺の顔を覗いている。“きな臭い”という俺の言葉をどう捉えていいのか分からなくて困っているのだろう。普通は輿入れまでして盟約をしている相手が裏切るとは考えないよな。それに前世で武田が裏切る時には、嫡男義信を廃嫡するといった前触れがあった。だか今回はそうではない。俺が胸中に何となく嫌な予感を感じているだけだ。


「武家たる者、常に戦の用意をしておかねばならぬという事だ。大膳大夫殿が甲駿の境を侵すとは思えぬが、万が一に備えて用意しておく方がいいだろう」

「なんと、武田様が」

「俺の杞憂かも知れぬ。他の者には口外するな」

「は、ははっ」

驚く大宮司を横に信濃守へ目配せをすると、甲斐、駿河、伊豆、相模の地図が描かれた紙を広げて駒を並べていく。府中から連れだった者達が驚いていないのは、既に俺の懸念を伝えてあるからだ。皆もはじめは驚いていたな。


「沼津の親衛隊だが、相模との国境を守っているゆえにこれはそのままだ。府中の親衛隊は俺と三河へ出陣する事になる。その代わりに、俺の出陣中は下田の親衛隊を府中に移す。下田からよりも府中からの方が富士郡への援軍は早くできるだろう」

「お心遣いありがたく存じまする」

「兵部少輔は大事な家臣だ。その方でも何か武田の動きを得て不安があればすぐに申せ」

「委細御意にございまする」

「すべて俺の杞憂に終わればいいのだがな」

俺が呟くと、大宮司が息を吐くように“はい”と応えた。大宮司は武田と今川の熾烈な争いを知っている。そのせいか、俺の言葉を戯言だと切り捨てる事はなかった。


心配性なだけかも知れぬ。俺とて、この時分に武田が攻めて来る事はほとんど無いだろうと思っている。

ほんのさざなみ程度の胸騒ぎだ。

何も起こらなかった時に謗りを受けるかも知れないな。

だが、何もせずにはいられなかった。



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