第九十四話 決意




弘治三年(1557)三月上旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




足音がしたかと思うと、入室の挨拶もそこそこに弟達二人が部屋に入ってきた。

「来たか。わざわざ呼び出して済まぬな」

「構いませぬ。お待たせ致しました。しかしこれまた何用でありまするか」

左馬助が訝しかしむような表情を浮かべて問うてきた。それもそのはずだ。二人は北信濃の治世のために信濃方面の視察へと儂が派遣していた。それを急に理由も告げずに呼び戻したのだからな。不信に思っても不思議ではない。


「尾張に派遣していた勘助が、織田上総介の言伝をもって帰国した」

「上総介?それに勘助を尾張にと仰せでしたか」

刑部少輔が驚いたように声を上げる。

「そうじゃ。尾張の実情を探らせんと勘助を派遣していたのだが、上総介が接触してきた」

本当のところはこちらから繋ぎを求めていったのだが、さすがに外聞が悪い。少し言葉を選んだ。


「上総介殿は何と」

「それがな、左馬助。織田は必ず今川を破るゆえ、その時は駿河を攻められよとの事だ」

「なんと!」

「まさか!」

「御屋形様。まさか織田の口車に乗ろうとされているのではありませぬな。今川様は仮にも盟約相手。三河の寺に火をかけるだけでも危険なのに攻めかかろうとは……。危険が過ぎまするっ!」

「声が大きい。静まれ」

「……すみませぬ」

儂が刑部少輔を叱責すると、刑部が肩を小さくして謝ってくる。だが、顔の不満は消えない。今川との戦は危険だと思っているのだろう。


「乱波たちの報告によれば、今川はかなりの大軍を起こすようだ。権中納言殿は三河と遠江の家臣に相当な激を飛ばしている」

「それでも駿河と伊豆が……、参議様がおりまする」

「駿河からも兵が送られるようだ。後詰めのようだが、参議殿も出陣するらしい」

「……御屋形様。そうなると駿河は空になると?」

左馬助が"ごくり"と唾を飲んで問いかけてくる。

「左様。上総介はこの機会を見逃すなと言っているのだ」


「攻める理由がありませぬ。それに長尾や北條とて安心出来ませぬ」

「理由等勝てば何とでもなろう。南信濃の下條兵部が謗られた事を火種にしても良い。それに長尾と北條は上手い具合に潰しあっておる。上野を巡る戦いは北條が大分押されているらしい。今川の尾張攻めには北條も兵を出すようだが、本音はそれどころではあるまい」

「……太郎様は如何されまする。御裏方様の事も面倒になりまする」

刑部の顔付きが変わった。非難めいた口調から確認をする口調へ変わりつつある。


「暫くはそのままとしておこう。今川と袂を分かつその時は今川に送り返す。太郎はごねるなら幽閉じゃ。二人とも分かって欲しい。此度の事、この大膳大夫、私事にあらず。甲斐の、我が民のためじゃ」

「……御屋形様のそこまでのご決意に左馬助、胸を打たれました。どこまでも付いて参りまする」

「刑部はどうじゃ」

儂が刑部の顔をしっかと眺めると、刑部が少しだけ目を反らして逡巡した後、儂の目を見てくる。

「御屋形様がそこまでご決意ならば言うことはありませぬ。微力ながら尽くしまする」

「おぉ、そうか。付いてきてくれるか」


頼りになる弟達が決めてくれた。

まずは一歩踏み出せたな。

そうと決まればやるべき事は山のようにある。南信濃の下條兵部に再び南下の指示、それから北信濃で我が武田に不満を抱えている者を焚き付けよう。信濃の反乱を鎮圧する名目ならば、信濃衆に軍令を出してもおかしくあるまい。勘助にも今一度会う必要があるな。時が無い。



まだ策は始まったばかりだ。

将棋も策も戦も始めが肝要よ。

慎重に慎重を重ねて手を誤らぬようにせねばならぬ。




弘治三年(1567) 三月上旬 山城国上京 三條通 金森 長近




朝が来ると皆が素早く身支度を整え、京で定宿としていた場所を引き払った。宿の表へ出て警戒をしていると、不審な動きをしている集団がいる。行商のようにも見えるが、動きが武士のものだ。斎藤家の者に違いない。


昨夜、家中の丹羽兵蔵が宿を訪れ、斎藤家から刺客が送られていることを知らせてきた。すぐに殿へと報告すると、"美濃者達の事なら儂や兵庫助殿が明るいだろう"と、様子を見てくるように下知があった。

宿の外からただ見るだけでは様子が分からぬ。兵庫助殿と話して中に乗り込む事にした。今思えば不注意な事をしたと思ったが、あの時は公方様との謁見が上手くいかず気が立っていた。


兵庫助殿と手勢を連れて乗り込むと、奴等は随分驚いていたな。呆けた顔を思い出すと笑いが込み上げてくる。兵庫助殿が"上総介様は全てお見通しだ。ご挨拶にでも行った方がいいぞ"と申すと、美濃者達は勢いに負けたのか、口を震わせて"あぁ"と言っていた。


結局、昨夜は挨拶に来る事はなかったが、今朝はこちらの様子を見に来たと窺える。刺 客の集団は三十程になろうか。こちらは八十はいる。いざとなれば負けようもない。それに斎藤の手の者達だと身元が発覚した今、洛中で堂々と仕掛けて来るとも思えぬ。

だが、何が起こるか分からぬ。警戒を怠らず、奴等を睨んでいると殿が口を開かれた。


「その方達が斎藤家より放たれた刺客か」

よく通る殿の声を受けて、斎藤の者達が驚いている。馬鹿な奴等だ。すぐに否定せねば斎藤の刺客と認めた様なものだ。

「その方らはこの俺の命を狙っているようだが、蟷螂の斧の様なものだ。無駄死をする前にさっさと美濃へ帰った方が良いぞ」

殿が声高に叫ばれると、美濃者達が顔を見合わせて間誤付きはじめた。


「それでも挑んでくるのなら、尾張までの帰り道に掛かって来るが良い。暇潰し程度にはなるだろう。この織田上総介、逃げも隠れもせぬ」

殿が畳み掛けるように話されると、美濃者達が気まずそうな表情を浮かべて去っていった。


"いよっ!あっぱれっ"

"いいぞ"

見物していた聴衆から声が掛けられる。

「殿、少しは自重されて下され」

兵庫助殿が殿を窘められる。警護を同じくする身としては、気持ちがよく分かる。

「万を超える今川の軍勢が迫ろうとしているのに、たかが数十人の手勢に竦んでどうする」

「いや、まぁ……」

兵庫助殿が苦笑いを浮かべて儂の顔を見てくる。




殿の挑発で臆したか、それとも一子報いようと掛かってくるか。

尾張まで気の抜けぬ道中となるが、盛り上がる聴衆の様子を見ると、織田の存在を京で示せたと思えて、心持ちが爽快になった。




弘治三年(1557)三月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 松平 元康




「元康、大殿のお呼びにより参りました」

広間の前に膝を突いて伝えると、"よう来た。入れ"と大殿の声がした。中へと足を進めると、部屋には大殿、尼御台様、御屋形様がお見えであった。私は供に酒井小五郎忠次を連れている。


「よく参った」

部屋の中央に座ると、大殿が威厳あるお声で一言仰せになった。深く頭を下げて応える。


「うむ。頭を上げよ。今日はその方に大事な話があって呼び寄せた」

「はっ」

「まずその方に伝えるが、昨日、鳴海城主の山口左馬助とその息子で櫻中村城主の九郎次郎に謀反の疑いありて、切腹を申し付けた」

「なんと!」

驚いて大殿のお顔を覗くと、すっきりされたような、当然の事をしたまでといったようなお顔をされている。左馬助殿と九郎次郎殿の謀反が真であれば処断されるのは分かるが、あのお二人は織田を一度裏切った身。易々と織田に行くとは思えぬ。御屋形様のお顔を見ると、無表情の様に見えるが、悔しさを滲ませる様な面持ちにも見える。


「左馬助は鳴海城主であったが、織田との戦いを控えて滅多な者はおけぬ。鳴海城代には岡部丹波守を配置するつもりじゃ」

「……はっ」

「それでじゃ。丹波守が城代を務めている岡崎城については、其処元に任せようと思う」

私を岡崎城代に?三河に帰国が許されるということだろうか。

「ありがたき幸せにございまする」

「岡崎城と共に三河の要衝となる苅屋城には松井兵部少輔を入れる。兵部少輔は武に優れた将じゃ。何かあれば相談するとよい」

「はっ。ご配慮ありがとうございまする」

私を岡崎城に配置するとしても、目付はしっかりと置かれるという事か。しかも兵部少輔殿と言えば大殿の仰せの通り、今川家中において猛将の呼び声高い武人。妙な気は起こしても無駄という事か。いや、或いは家中を抑えるために上手く使えという事か……?大殿のお顔を覗くと目が合い、優し気に大きく頷かれた。


「岡崎という大事な場所に其処元を置くのは、其処元が松平の当主という事もあるが、まずもって其処元の力を期待しての事だ。来る尾張攻めには松平に先陣の命を与えるゆえ、よく兵を束ねて織田方の兵を切り伏せよ」

「先陣の栄誉、有り難く存じまする。この次郎三郎元康、大殿に受けた大恩をお返しするべく粉骨砕身励みまする」

先陣は名誉ではあるが、兵の損耗は多くなる。今川への手伝い戦と考える家臣達は顔を歪めるだろうな。だがこの場でその様な事は申せぬ。それに岡崎に帰国できるのだ。喜んでお受けしよう。


「尾張を切り取りし後は美濃、その後は上洛となろう。余自らが公方様をお支えし、乱れた秩序を取り戻す。朝廷、幕府、寺社と、何かと京は曲者揃いじゃ。力があっても京を知らぬ者に京を統べる事叶わぬだろうが、幸い余はよく知っておる。余が京にて天下へ号令する時、その方は国持大名としてこの今川を支えるのじゃ。その時に謗りを受けぬよう此度の戦では励め」

「はっ」

「なに、気負う事は無い。此度の戦には三河と遠江の全軍を投入するつもりじゃ。駿河からは参議の後詰めもある。加えて、武田と北條に援軍も要請する。兵力は三万を下らぬじゃろう。先方とは言え、其処元の役目は露払いよ」

「ははっ。この元康、今川の先陣として恥じぬ戦をして参りまする」

「うむ」


大殿に改めて頭を下げると、御屋形様から"元康"と声が掛けられた。御屋形様が私の名をお呼びになるとは珍しい。お顔を伺うと優しげな笑みを浮かべておられた。


「先陣の役目は苦労も多いだろうが、元康なら無事に務めると信じている。武器兵糧に不足あらば、この氏真が十二分に支援するゆえ遠慮なく申してくれ」

「……は、ははっ。有り難きお言葉、この元康終生忘れませぬ」

思いがけない御屋形様のお言葉に、返す言葉がすぐに出てこなかった。何とか礼を伝えて御前を下がると、小五郎が明るく話し掛けてきた。


「殿。岡崎帰還のお許し、おめでとうございまする」

「うむ。山口左馬助殿を処断したと聞いた時はどうなるかと思うたが、思わぬ事になったな」

「此度の戦、大殿が仰せになる程楽なものではござりませぬ。厳しい戦いにはなりましょうが、松平の兵は殿の為にも努力致しましょう」

「そうであると有難いな。小五郎の申す通りじゃ。三万の大軍との事だが、踏み固まっていない三河の土地が耐えられるかじゃ」

「……空誓上人が盛んに激を飛ばしておりまする。今川が苦しい戦いでもしようものならすぐに蜂起しましょう」

小五郎が怪訝そうな表情で呟く。その通りだ。一見三河は国人の叛徒が鎮圧され今川の元で平定されたように見える。だが内情はその通りではない。朝比奈備中守殿の仕置きが西三河では中途半端に終わったため、鼻息荒い国人や一向衆が鳴りを潜めている。特に一向衆については我が家中でも気が置けぬ。教えに帰依し、信仰が厚い家臣も少なくない。


「先陣となったゆえ、なるべく兵を集めねばならぬ。集めれば集める程兵糧や武具と物入りじゃ。苦労を掛けるがよろしく頼む」

「御屋形様が頼ってよいと仰せでありましたが」

「そうじゃ。小五郎はあれをどう見た。いと親しげに声を掛けて下さったが、名を呼ばれた事など初めてじゃ。深謀遠慮な御屋形様の事じゃ。何かあるのかと勘繰ってしまうな」

「我等にやましい事等ありませぬ。ここは素直に受け止めて置けばよろしいでは有りませぬか。雪斎禅師同門の殿を気遣われただけと思いまするぞ」

なるほど。そんな所かの。今回の出陣の費えは御屋形様がほとんど差配されるとお聞きしている。大軍の兵糧は頭の痛い悩み事のはずだが、松平の事までご心配頂けるとは。


少し気負い過ぎたかな。

雪斎師匠に教えを乞うている頃、御屋形様とは才の違いを感じさせられた。近くにいる程に距離を感じた者だ。それに同門とはいえ立場が違う。御屋形様も必要以上に私に近づいて来なかった。


私に取って御屋形様はその様なお方であったが、先程は印象が異なった。小五郎は案ずるなと申すが、やはり何かお考えがあるやも知れぬ。




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