第九十三話 信長入洛




弘治三年(1557)二月下旬 駿河国安倍郡府中 駿府取引所 武田 信友




“カンカンカン”

大きな鐘の音がすると、階下の人々が一斉に掲示板の方を見た。

今年の冬は寒く、底冷えのする日中であるが、そのような事をまるで忘れてしまうような熱狂があった。


「米の値がまた最高値を付けたな」

「あ、はい……。ええと」

私がまごついていると、参議様が指を指して教えてくれた。確かに米の値が先程より上がっている。

「面目ありませぬ」

「謝る事は無い。まだ六郎は取引所に不馴れであろう。せっかく府中にいるのだ。今後は時があれば来るといい」

「はい」


今日は参議様と共に府中の取引所に来ている。安くは無い料金を払わなければ入ることが出来ない上段の部屋から、吹き抜けになっている市場を眺める。多くの商人が身振り手振りで取引に勤しんでいる。

「商人とて必死よ。乗るか反るかで大儲けもすれば大損もする。皆生き馬の目を抜くような顔であろう」

参議様の言葉を受けて階下の人々の顔を改めて見る。確かにその通りだ。物の値を表示する板を食い入るように見る顔は、まるで侍が弓矢の狙いを定めている様だ。


「内匠助、米を五千石売りだ。成行でいい」

「はっ」

参議様の命を受けて三浦内匠助殿が注文書を書いて届けに出ていく。

「ほほほ。絶妙な時機に、これまた絶妙な量でおじゃりますの。その量なら上げ相場に水は差しますまい」

「そういう権右少弁こそ同じ事を塩でやっておろう」

「見られておりましたか。ここ数日で随分と儲かりましたぞ」

「数日で随分と値が上がっている。痛い目にあわぬよう小まめに利食いしておくようにな。ここまで来ると相場の急落もあり得る」

「承知しておじゃります。ま、相場が下がればその時は米を買って酒を作るか、戦に備えて貯めておきましょう」

「すっかり商人も顔負けの商才だな」

"ほほほ"


参議様と話しているのは、大蔵方として駿河と伊豆の蔵を担う草ヶ谷権右少弁殿だ。話のやり取りにほとんどついていけない自分が不甲斐ない。

「六郎、案ずる必要はないぞ。権右少弁とて始めから精通していたわけではない。大事なのは学ぼうとする姿勢があるか否かだ」

「左様でおじゃります。卑しき商人のような真似など、と思うたが最後。努めて学べば利を得る事ができる。利を得れば相手よりも多くの武具や兵糧を整える事ができるでおじゃる。これもまた一つの戦におじゃりましょう」

権右少弁殿が優しげな面持ちで説いて下さる。商いが一つの戦。なる程。そのような見方は出来ていなかったな。権右少弁殿は聞くところによれば、堂上家に連なる高辻の出と聞く。家柄や身分を気にせずに学ぶべき事は学べと言う事か。


「分からないことあれば俺や権右少弁に聞くといい。権右少弁、六郎は大事な我が義弟だ。一つ頼むぞ」

また義弟と……。参議様は私が参議様の妹である隆を娶ってから弟として扱って下さる。これまではあまり接点がなかったが、最近はよく目を掛けて頂いている。


「お任せ下され。六郎殿、麿に分かる事であれば何でも聞いてくだされ。何、少し分かってくると面白いものでおじゃる。それに麿もまだまだ高みに向けて学ぶ身なれば、共に励みましょうぞ」

「頑張りまする」

私が頭を下げると、権右少弁殿が笑みを浮かべて応じられた。参議様も、いや、義兄上も笑われている。


「話は変わるが隆は息災か」

「はい。元気にしています。何かと某の事を気遣ってくれます」

「で、あるか。隆はあまり丈夫ではなかったのでな。つい心配をするのだが、その方が見てくれているのなら不要であったな」

義兄上が安堵したような表情を浮かべておられる。近隣に武名を轟かせ、諸将に畏怖される義兄上も実妹にはお優しい。いや、最近分かってきた事であるが、義兄上は理不尽に厳しい訳ではない。道理に外れた事をする者たちに厳しいのだ。先日も賂に耽る寺が一つ取り潰しにあった。宗門からは反発があったようだが、民は義兄上の治世を喜んでいる。


義兄上からは祝言の祝いとして、府中から程近い牧ヶ谷村を拝領した。義兄上の内政開発で新たに整えられた村だが、石高は千二百石になる。これを足掛かりに励めと言葉も頂いた。ご期待に沿えるよう励まねばならぬ。




弘治三年(1557)三月上旬 山城国 室町御所 蜂屋 頼隆




公方様への拝謁のために御所を訪れると、随分と長い時間を待たされていた。取次を担ってくださった政所執事の伊勢伊勢守様のお顔を覗くと、相変わらず無表情だ。お会いした時の様子から思うに、淡々と職務をするお人なのだろう。

気に障るのは他の幕閣だ。我等をさげずむような表情を浮かべている。いや、あれは嘲笑だな。


「上様の、おなぁーーーりー」

しばらくすると幕閣の一人が大きな声を上げて公方様の登場を告げる。平伏をすると御簾越しにゆっくりと着物の擦れる音がした。

これだけ待たせておいてなお勿体ぶるか。日頃せっかちな殿がよく堪えられていらっしゃると無粋にも感心した。


「上様にあらせられましては、ご健勝の事とお慶び申し上げまする。平朝臣織田上総介三郎信長にございまする。お目通りが叶い祝着至極に存じまする」

「大儀である」

「ははっ」

殿が名乗られると、上様が一言短く仰せになった。


「面を上げられよ」

幕臣の一人から声が掛けられる。あれは三淵弾正左衛門尉様だな。目通りに向けた調整でお名前を伺った記憶がある。

許しを得て面を上げると、遠目に公方様のお姿が見えた。御簾越しではあるがお若く凛々しいのが見てとれた。公家の様なお姿を想像していたが、中々に武家の棟梁らしいお方の様だ。もっとも、あくまで外見の話はだが。


「遠路よく京まで参られた。上様に変わって用向きを聞こう」

伊勢伊勢守様が淡々と言葉を放つと、幕閣達の目線が殿に集まった。

「はっ。某は尾張の民に安寧をもたらしたいと微力ながら尽くしておりまする。天運の味方もあって、争いの絶えなかった尾張が落ち着こうとしております。なれど、なれども、駿河の今川が尾張を攻めんと戦の準備をしているとか。上様におかれましては、我が織田と今川殿との和睦の斡旋を願いたく、上総介、罷り越しましてございまする」

殿が公方様に向かって頭を下げながら用向きを伝えられる。


正直に言えば、織田と今川の戦いは避けられぬものだろう。武田や北條と盟約を結んだ今、今川は尾張を攻めるしかない。今川は尾張を攻め獲るために着々と準備をしてきた。それは分かるが、織田としては時間稼ぎがしたい。殿は勘十郎様も岩倉織田家も滅ぼして大きくなられた。日に今川と戦うための力をお付けになっている。だが滅ぼしたばかりの所領は足元が固まっていない。一年とは言わぬ。半年でも良いから時が欲しい。殿もその様に思われているはずだ。


今川の隠居は最近よく尾張守護の名を使うらしい。尾張の正式な支配者は己だと申したいのだろうが、言うまでも無く守護は幕府が認めた役職だ。であれば幕府が織田と今川の争いを止めるように仲介してくれれば時が稼げる。そのための銭は持参している。我等の要望を受けて銭を手に入れれば、困窮に苦しむという幕府の支えにもなるはずだ。


「今川と織田の和睦とな。はて、その両家は朝廷のすすめで和議を結んでいなかったかな」

「某もそのように認識してござった」

弾正左衛門尉様がお応えになると、迎えに座る御仁が頷きながら呟いた。三十の過ぎ辺りであろうか。桐の家紋……一色家だろうか。顔に出ていたのか、細川兵部大輔様が小さな声で"一色式部大輔殿じゃ"と教えて下さった。


……しかしお二人とも白々しい事を仰せになられる。二人の話を受けて、他の幕臣達が"左様でござったの""そうじゃそうじゃった"等と言いながら顔を見合っている。


「確かに和議は結べど色々あり申して戦となり、こうして幕府の力をお借りに伺っているのでござる」

姦しい幕臣達の声を遮るように殿が話されると、場が静かになった。殿のお声はよく通るからな。


「ば、幕府としては織田家からの要請が事実に基づくものか調べて見なければ行かぬ。片方の言い分で簡単に決を出すわけには参らぬ」

弾正左衛門尉様が少し声を張りながらお応えになる。これまたのらりくらりとした回答よ。正論のように聞こえるが、織田と今川が争っている事など皆が知っている事だ。足利一門の今川に気を使ったか。それとも我等の様な家格の者の声は聞けぬか。溜め息が出るのを必死に堪えた。


「今川権中納言様は尾張守護であり、守護の立場を利用して不条理に国人を痛め付けているのでござる。守護が無体を働くのならば、この儀は守護の上役たる武家の棟梁、上様に相談するしかございませぬ。幕府に置かれましては当家の訴えをよくお調べ頂き、裁定下さるよう願いたい。調べの儀が終わるまでは織田と今川双方に和睦の勧告を発布頂きとうござる」

殿が再び声を上げられる。上手い言い方だ。幕府を立てながら我々が最も欲しい時を稼ぎに行っている。殿の言葉を受けて、幕臣の方々がどう返したものかと思案されている。


「織田殿と今川殿の間にて紛争の儀があるのではという事は分かり申した。ただ、調べるとて幕府も何かと忙しゅうござる。ここは上様より双方に対して不和を止め、手を携える事に向けて努めるべしと文をお書き頂くのは如何でござろう」

幕臣の方々が顔を見合わせる中、伊勢伊勢守様が口を開かれた。不和を止め手を携えるよう努力……何と中途半端な文よ。その様な文書等何の役にもたたぬ。伊勢守様には意味の無い文だという事などお分かりだろう。いや、むしろ意味がないからこそ意味がある。其処までお分かりの上で話されているのだろう。


「それは良き思案じゃ。それならば問題無かろう。無論、上様の裁定あってこそじゃが」

「うむ、良き思案」

「左様じゃ」

式部大輔様が膝を叩いて賛同すると、他の幕臣の方々も吊られて賛意を表した。


「上様、ここは織田上総介殿の願いを聞き受けて、織田殿と今川殿に対して融和を促す文をお書き頂きたく願いまする」

伊勢守様が上様に向かって平伏すると、他の幕臣達が続いて頭を下げる。

織田家は左様な文等望んでおらぬと言い掛けたが、殿を差し置いて儂が場を崩す訳には行かぬ。これまた何度目になろうかという溜め息を飲み込んだ。


「よかろう。よきに計らえ」

暫く間があった後、公方様がゆっくりと一言呟かれた。

茶番劇を前に、武家の棟梁に会った高揚感等消し飛んでいた。



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