第九十二話 初めて
弘治三年(1557)一月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 岡部 貞綱
広間には大殿が上段にお座りになられている。大殿のお隣には尼御台様、上段すぐ横の筆頭の席に御屋形様、順に三浦左衛門尉殿、 関口刑部少輔殿、由比美作守殿、庵原安房守殿、伊丹権太夫殿が座っている。大殿の命により集まったが、変わった組み合わせだな。左衛門尉殿に刑部殿と、政務方の将が集まる中、水軍に関わっている儂と権太夫殿が呼ばれている。
「忠兵衛、尾張の荷動きはどうなっている」
物思いに更けていると、不意に大殿からお声が掛けられた。
「はっ。我等の尾張攻めを見込んでか、尾張からの荷動きが悪くなっておりまする。清洲の織田が熱田や津島から荷を買っておりまする」
「参議の方でもそのように把握しているか」
「はっ。上総介は米や塩など、戦に必要な物を買い始めておりまする。大殿の征討を察して軍備を整えているものと思いまする」
「ハハハ。やっと尾張を纏めようとしつつある小童が、精一杯足掻いておるか」
御屋形様が儂と同じく織田の軍備について述べると、大殿が嘲笑を浮かべて応じられる。大殿が笑みを浮かべて笑われても、御屋形様は厳しい表情を崩さない。米や塩だけでない。上方から駿河にかけて皮革や武具の動きも悪くなっている。御屋形様が仰せになった通り、清洲の織田が仕入れている事が原因だと思われるが、ここまで動きを鈍らせるとは相当の財力だ。決して侮ってよい相手では無い。
「津島と熱田がのぅ。長島はどうじゃ」
大殿の目線が儂に降りかかる。長島か。少し清洲へ流れる荷が増えつつある。物の値が上がっているからな。一儲けしようとしているのかも知れぬ。だが大した量ではない。
「はっ。織田へ流す物の量を少し増やしているようでございまする。何分物の値が上がっておりまするゆえ利を得ようとの事でしょう。ただ、織田は一向衆に必ずしも寛容ではありませぬ。それゆえ流す荷も大した量ではありませぬ」
「参議が厳しくあたるでの。撫でてやれば手を結んで織田を攻める事も出来たかも知れぬ。ま、考えても詮無き事よの」
大殿が御屋形様に向かって呟かれると、御屋形様が"獅子身中の虫が増えても味方とは言えますまい"とお応えになられた。
「ハハハ。獅子身中の虫とな。確かにその通りじゃ。ならば長島の手を借りること叶わぬゆえ、津島と熱田を止めて織田の息の根を止めるとしよう」
大殿が声は笑っているが目は笑っていない顔をされている。尼御台様が疲れたようにお二人に向かって"それくらいになさりませ"と仰せになった。
それにしても大殿は津島と熱田を止めると仰せだったか?
「父上。恐れながら津島と熱田を止めるとはどのような意味でござりましょうや」
御屋形様が怪訝そうに大殿へ問いかける。
「そのままの意味じゃ。津島と熱田には織田へ物を売ることを禁ずる触れを出す。三河にも同じ触れを出そう」
なんと。物の売り買いを禁止する触れとは……。驚いていると、御屋形様が大殿の方へ向いて座り直して声を上げられた。
「売ることを禁ずる触れ?某は反対にございまする。かえって津島と熱田の商家を敵に回す事になりまする。織田に荷を回さないようにされたいのならば、今の相場以上の高値で買い占めればよいでしょう」
「そのような事をすれば無駄な矢銭が必要となる。ただでさえ相場が常より高くなっているのだ。民を苦しめて土倉を潤す必要は無い。それに織田を潰すまでの間だけじゃ。それほど長い間では無い」
「それでも不満を覚える者がおりまする。それに棟別を課さなくとも今川の懐から出せばよろしいでしょう。必要ならば某が負担いたしまする」
「相変わらずその方は豪気じゃのう。随分と銭を貯めておるな。まるで見せつけられているようじゃ」
「左様なつもりはありませぬ。
「参議殿、妾も権中納言殿が申されるように触れを出せばよいと思います。銭で買っては今川の威信が疑われませぬか?」
「我が今川の威信を疑う者などおりませぬ。むしろ銭で買うことで今川の度量の広さを見せる事が出来まする。武威で禁じたところで、織田と長らく懇意にしている者は禁を犯しましょう。触れで禁じてはこれを処断する必要が起こりまする。だからといって処断を強行しては、尾張を手にした後に津島と熱田の関係で遺恨となりま」
「甘い」
御屋形様が大殿に具申をされている途中で言葉を遮られる。
「武家が威信を持ってこそ民草は武家に畏怖し従うのだ。それを銭で従わせるのでは商人どもはまた銭で動くことになるじゃろう。まぁよい。近いうちに津島ならびに熱田の商家に清洲の織田との商いを禁じる触れを出す。織田を戦の前に干からびさせてくれるわ」
「触れで禁じるは、某としては賛同致しかねまする。これは今川家当主として申し上げまする」
御屋形様が毅然と大殿に向かって異を唱えると、広間が重苦しい雰囲気を纏いながら鎮まった。場にいる皆が苦い表情をしている。尼御台様ですら眉を顰めておられる。
「……参議の考えはよく分かった。以前から伝えてあるように尾張方面の仕置きは余の領分である。また、余は尾張守護ならびに三河守護でもある。触れは余の名で出す。参議はその旨承知しておくだけで良い」
「……はっ」
短くない沈黙の後、大殿が決を下して席を立つと尼御台様と共に広間を出て行かれた。
これは難しいな。御屋形様は“利”を重視して商家の心を掴もうとされている。銭の事がよく分かっていらっしゃるからこそのお考えだろうが、大殿の“武”をもって商家を治めようとなさるお考えも間違っているわけではない。寧ろ幕府も守護も長い間そのように治めて来た。権太夫殿の顔を眺めると、困ったような顔を浮かべて小さく顔を動かしている。儂は権太夫殿のお陰で銭に明るくなった。商家に限って言えば御屋形様の差配の方が良いのだろうが……。
御屋形様が権太夫殿と手持ちの水軍を作る時、儂に手を貸して欲しいと頭を下げに見えた。抵抗が無かったわけではないが、今川の御嫡男に頭を下げられては断ることも出来ぬ。船の作り方を権大夫殿らに教え、その後は操術を教えた。権太夫殿の水軍は自ら塩を作る事に加え、御屋形様が次々に作られる特産品を各地に運んで銭を稼いでいる。今や儂の水軍よりも大きい。だが権太夫殿は変わらず儂に気を遣ってくれる。塩や石鹼の作り方を教えてくれただけでなく、荷運びの仕事も廻してくれている。
御屋形様が家督を継がれてからは、平時においては駿河と伊豆の湊は権太夫殿、遠江以西の湊は儂が船を差配することになった。儂は大殿付きの将ではあるが、伊良湖湊の荷捌きを通じて御屋形様とのやり取りも多い。御屋形様を知るほど、御屋形様が理にかなった方だと分かって来る。今回は大殿の理と御屋形様の理が全く異なるということだな。
「久しいな忠兵衛」
また考えに更けていると、振り返った御屋形様に声を掛けられた。
「はっ。ご無沙汰を致しておりまする」
「此度の件、一波纔かに動いて万波随うだな」
「……はっ」
津島と熱田の商家たちの事を仰せなのだろう。商家達は利に聡い。
御屋形様が仰せの通り、大殿の一つの裁定が大きなうねりになる可能性がある。
弘治三年(1557)二月上旬 伊豆国田方郡修善寺村 今川 聡子
「上がったか」
「はい。いい湯でした。美代も綾も喜んでおりました」
「そうか。茶を用意した。湯冷めしないよう飲むといい」
彦五郎様の手元には湯気を立ち上らせている湯飲みがあった。
火鉢が置かれて部屋も暖かい。湯冷めは大丈夫だと思うが……。火鉢に鉄瓶が置かれ、脇には茶葉を濾した後がある。彦五郎様が自らお入れ下さったようだ。
「美味しゅうおじゃります」
一口飲むと、円やかな甘みが広がった。
随分と薫りも立っている。良い茶葉を丁寧に淹れて下さったからだろう。自然と言葉が出てきた。
「綾はどうだ」
「よくやってくれています。美代も筋が良いと申しておじゃりました」
「そうか。無作法も多いだろうがよろしく頼む」
「はい」
侍女だった静が春殿付きになったため、彦五郎様が新たな侍女を付けて下さったのが綾だ。彦五郎様の重臣として仕えている長野信濃守の娘で幼かったが随分と下地があった。伊豆介があらかじめ教育してくれたと聞いている。それに物覚えも良い。今ではすっかり一人前の侍女になっている。
彦五郎様が障子を開けて外をご覧になられる。外は寒いが、湯上りの火照った身体に冷たい風が心地よい。
「確かにいい湯と景色であった。我が領にしておいて良かったと思うほどにな」
「はい」
以前にお聞きした事がある。伊豆は春殿の実家である北條殿が治めていたが、大きな戦の折りに今川が攻め取ったと。その戦では彦五郎様が随分と活躍されたともお聞きした。
「この店も良いところでおじゃりますね。彦五郎様が仰せになった通り、湯も良いものでしたが、部屋からの景色も素晴らしゅうおじゃります」
昼間の景色も素晴らしいものだったが、夜の帳が降りた今は月が庭の大きな池に写って美しい。それだけでなく、その大きな池には小舟が浮かべられ、小舟には蝋の明かりが灯されている。不思議な感覚になる。
「うむ。前からこの宿の名は聞いていてな。いつかそなたと来たいと思っていたのだ」
「ありがとうございます」
真っすぐな彦五郎様の言葉に顔が赤くなる。少しうつむいて応えた。
彦五郎様の近くに寄り添って外を眺める。何と幸せな時間だろうか。
「月が綺麗ですね」
「そなたには及ばぬがな」
「ま、またそのような事を仰せになられて」
彦五郎さまが笑みを浮かべておられる。最近は難しいお顔をされることが多かったが、今日はご気分をお変えになる事が出来たようだ。よかった。
「さて、美しい景色をそなたと眺めていると時間が経つのを忘れるが、過ぎては風邪を引く。床に入るとしようか」
「はい」
障子を閉めて部屋の奥へ向かう。寝所には布団が二組敷かれている。高価な代物のはずだが、しっかりと用意されている所は彦五郎様が気にされる宿なだけはある。あれ?彦五郎様が同じ布団に入って……。
「ひ、彦五郎さま、近うおじゃります」
「嫌か?」
「斯様な事はありませぬが、急になさるので驚いておじゃります……」
「今日はその……なんだ。その気になっている」
その気?もしかして……。
「聡子はうれしゅうおじゃります」
嬉しい。嬉しいが胸が高鳴っている。
私が緊張しているのを感じたのか、彦五郎様が私の体を寄せて髪を撫でて下さった。
「白檀の香だな」
「はい。以前に頂戴したものでおじゃります。お好きだと仰せでしたので」
「うむ。そなたによく合っている」
彦五郎様の優しい言葉に胸が更に高鳴る。せっかくこの高鳴りをおさめようとして下さっているのに。
「焦らずともよい。夜は長いからな」
蝋の僅かな灯りの中でも彦五郎様の笑みがはっきりと見えた。少しずつ高鳴りが収まっていく。
彦五郎様の優しさに包まれながら互いに肌を重ねあった。
弘治三年(1557)二月中旬 尾張国愛知郡那古野 萬松寺 簗田 政綱
「山本殿、お待たせ致した」
萬松寺の隅にある部屋にたどり着くと、行商の身なりをした男が小さく頭を下げた。
「ご無沙汰しておる」
「うむ。七年前に今川が尾張に攻め入った時以来かの。あの時は世話になった」
天文十九年の秋、今川が大軍で尾張を攻めて来た。その時に山本殿は今川勢の動きを
「さて、此度の急な訪問、何用であったか」
山本殿から文が届いたのは一昨日だ。文には人払いができる場所で内密に話がしたいとだけあった。後は返信のために必要な届け先の情報だけだ。家臣に命じて指定の宿に文を届けさせたが、宿に山本殿が泊まっているわけでは無かった。宿の主人は、文が届いたら預かって欲しいとだけ言われていたという。相変わらず中々に用心深い。
「今川は五月にも兵を上げるだろう。その数は少なくとも二万」
「二万か。相変わらず容易く大軍を集めるものよ」
山本殿の情報ならば確かな数字だろう。前回も今川は二万から二万五千を動かしている。思わずため息が出た。
「だが、それだけの大軍ともなると兵糧の都合が難儀するだろう」
「いや、すでに駿府の蔵には兵糧が堆く積まれている。今川方は相当な量を用意してくると思われる」
山本殿が無表情に淡々と応える。ふと、気になった。
「山本殿は何故我等に情報を教えてくれるのだ」
何年か前、始めて会ったときにも聞いたことがある。その時は"理由は如何様でもよかろう。信じるか否かはその方次第"と返された。武田は三國同盟で今川と北條の仲を強化する中で、なぜ引き続き儂に情報をくれるのだろう。此度は謀なのではないかと思った。
「……今川様には思うところあってな」
「思うところ?」
「昔、仕官を願ったことがござる。のらりくらりと十年近く鬱屈した日々を過ごした。やっと目通りが叶ったかと思えば儂のような下賤で見映えの悪いものは要らぬと」
そのような事があったのか。忸怩たるものがあるのだろうと思った。
「それが理由ということは、儂に情報をくれるのは私情からでござるか」
儂の問いに山本殿がゆっくりと頷いた後、“武田は関係無い”と呟いた。
「此度の戦でもなるべく今川勢の陣容をつかみ、伝えるつもりでござる」
儂としてはありがたい限りだ。
「山本殿の計らいに」
“ピシャッ”
“バタンッ”
山本殿に話しかけていると、突如隣の部屋の襖が大きな音を立てて開けられた。
「我等に伝えるだけでなく、甲斐から駿河へ攻め入ったらどうだ」
「殿!」
殿が仁王像のように立っておられる。隣の部屋で音を立てずにお聞き頂く約束であったが……。
「殿?」
山本殿が僅かに眉を潜めた後、すぐに身体を殿に向けて平伏した。
「山本勘助と申しまする」
「武田の臣と名乗らぬは武田を巻き込みたくないとの事だろうが、帰って大膳大夫殿に伝えよ。織田は必ず勝つゆえ、その暁には駿河へ攻め入られよとな」
「……必ず勝つと」
「勝たねば我等に先はない。此度の戦さは俺にとっては死ぬか生きるかだ。であれば俺は勝つしかない。そして退けるだけで終われば必ず次がある。ならばいっその事今回の戦で今川を潰す」
山本殿が殿の言葉を黙って聞いている。
「織田が勝った時、今川は少なからず揺れるだろう。武田はその隙を突いて駿河に攻め入るのだ。海が手に入るぞ。豊かな駿河がな」
「……。」
「ここで今川を叩かねば何度でも同じになるぞ。何も俺は盟約を結べと言っている訳ではない。分かったと言いたくなければそのままで良い。ただ俺が言ったことを大膳大夫殿に必ず伝えよ。言いたい事はそれだけだ。行けっ」
殿が話を終えて首を動かされると、山本殿が僅かに頭を下げて音もなく去っていった。
「殿っ!」
下手をすれば斬られていた恐れもある。一言申しておかねばならぬと声を上げるが、すぐに殿の言葉に遮られる。
「あの男がその方に情報を寄越すのは私情もあるだろう。だがあの男は私情だけで動くようには思えぬ。大膳大夫が後ろで糸を引いているはずだ」
大膳大夫様が糸を引いている?本当だろうか。
「武田がどう動こうと今川を退けなければならぬ事に変わりは無い。出羽、あの男を上手く使えよ」
「はっ」
話は済んだとばかりに殿がすぐに歩き出す。
今川の大軍が攻めてくるかもしれないと脅える家中もいる中、殿の背中は堂々としていた。
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