第九十話 陰謀




弘治二年(1556)十月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




"常在戦場"

雪斎に願って揮毫してもらった軸が下がる中、何時もの部屋で何時ものように文を書く。


何時もと変わらないはずだが、心なしか今日は筆が震えている気がする。気がする程度だ。文の貰い手が気にかける程ではない。心が少し乱れているのかも知れない。


今書いているのは関白左大臣である義兄、近衛前嗣への文だ。三河の本願寺を抑えるために石山の本願寺を動かす。その為に九條太閤を動かして欲しいと書いている。近衛と九條は中々折り合いが付かないところも多いようだが、義兄上は俺の希望を叶えようと動いてくれるだろう。九條も譲位の御大典で旗振りをしている近衛を怒らせて帝の怒りを買うのは避けるはずだ。重い腰を上げて猶子である本願寺顕如を説得するだろう。


今朝廷は譲位の大典に向けて大忙しだ。山科参議に色好い回答をすると事態はすぐに動いた。本来譲位には式典の準備や上皇のための仙洞御所築造等、かなりの時間が掛かる。だが帝の御容態が優れず、仙洞御所の建設を待たず年内に式典を行うらしい。異例の事ばかりだが、すべて帝の御意向だ。それだけ帝のご容態が優れないのかもしれない。


費用の大半は今川が、というか俺が持つ。父上の説得が必要だったが、帝の御内意である事、形式的に父上が拠出した体裁を取ることで承知してもらった。最近の父上は三河の国人達による叛乱が鎮まりつつある事もあって、機嫌が良い。上手くその流れに乗れたのもあるな。しかしあの様子だと悪い知らせが入らなくなるぞ。


後は幕府の抵抗が予想されるが、京の草ヶ谷蔵人を使って上手く進めようとしているところだ。今回は幕府の顔を立てて今川が幕府に献金し、幕府が朝廷に献金する形を取る。形を整えるだけでは幕府から反発もあろうが、今回は幕府に“尾張守護”任命を要請した。今回の献金はその対価という形を取る予定だ。これなら幕府の自尊心も満たされるだろう。蔵人からの文では政所執事である伊勢伊勢守の感触は悪くなく、何とかしたいと言っているそうだ。


当たり前だ。ここまでお膳立てしてやってるんだ。幕府は何とかして形にし、今川からの献金を受け取るしかない。頑張れよ、伊勢守。


全てが無事に行けば父上は官位をさらに上げ、尾張守護に任じられ、懸念の三河坊主は鳴りを潜めることになるだろう。坊主は根切にしたわけではないので、静かになるのはまやかしに過ぎない。父上は踏み固まっていない緩い地盤に気付くだろうか。父上とて暗愚ではない。気付くだろうな。だが、今の父上なら気付いても後から固めれば良いと思うだろう。尾張に目が行くように情報をちらつかせて行かねばならぬな。

人は誰しも視野が狭まる時はある。自分にとって都合の良い情報が来るとき等特にな。


先月、尾張で大きな戦があった。信長の弟である信行が倍以上の兵で信長を攻めたが、逆に敗死したらしい。信行と言えば、桶狭間の少し前に城内で信長に討ち取られる記憶があったが、戦で討ち取られたと聞いて驚いた。信長が史実よりも早めに尾張を纏めてきている。最大の敵だった弟を討った信長は、早速岩倉の織田を攻めているらしい。尾張が一つになるのは時間の問題だ。





……父上には大変世話になった。

後髪を引かれないわけではない。

だがこの今川のため、日の本のために心を鬼にする必要がある。

そろそろご退場頂こう。


誰にも言えぬ。

そして見抜かれてもいかぬ。

静かな謀の一手となる文の宛名を書き終えた。

もう手は震えていなかった。




弘治二年(1556)十一月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 寿桂尼




部屋に入ると狩衣を召した貴人が座していた。お会いするのは治部大輔殿の祝言以来となろうか。相変わらず歳のわりに精悍な顔立ちをされている。日の本の各地を飛び回っているだけはある。


「内蔵頭様、ご無沙汰致しておりまする」

「おぉ、これはこれは尼御台殿。久しゅうおじゃる」

大方銭の無心に来たのであろうが、思いの外明るいので驚いた。治部大輔殿が色々と心尽くしていると参議殿から聞いている。参議殿が内蔵頭殿との面会は、多少勿体ぶる方が有り難みも伝わると申したので遅らせたが誤算だったかも知れない。


「はて、お初になるかな」

妾の後ろに付いてきた若人が着座すると、内蔵頭様が若人の顔を見ながら問いかける。

「北條家より預かっている助五郎です。助五郎、ご挨拶なさい」

「はい。北條左京大夫が四男、助五郎氏規と申しまする」

「ほぅ、左京大夫殿のご子息であられたか。となると尼殿の孫になるのかな」

流石は内蔵頭様なだけはある。きっと目の前の御仁の頭には諸大名の関係がたくさん入っているのでしょう。


「ご明察の通りです。左京大夫殿と我が娘の間に生まれた孫になります」

今川と北條の間では再び盟約が結ばれ、治部大輔殿の側室として春殿が輿入れしている。だが春殿はまだ十二になったばかりで両家の結びつきの証としては今少し弱い。そこで左京大夫殿が送り込んで来たのが助五郎になる。当初は人質としての扱いであったが、今は一門衆としての扱いを受けている。何しろ今川には直系の男子が治部大輔殿しかいない。いざという時はこの助五郎か武田六郎が次を担うことになる。血としては助五郎が一番近いと言えるでしょう。


「左様か。助五郎殿、以後よしなに頼むでおじゃるぞ」

「はい。こちらこそよろしくお願いいたしまする」

まだあどけない表情で助五郎が応える。いつも側に置いているからよく分かるが、公家を前にして緊張しているようだ。これもまた一つ助五郎のよい経験となりましょう。


「さて、府中にお越し遊ばされてから随分お待たせしてしまいました。色々と立て込んでおりまして、申し訳ありませぬ。ご用向きを伺いましょうか」

白々しいと思いつつも当家にも体裁がある。こうなったら忙しくて会うのが遅れたとするしかない。幸い当主が交代したばかりだ。取り繕うのも不自然ではあるまい。


「うむ。治部大輔殿から、家督を継がれたとお聞きした。図らずとは言え何かと忙しない時分の訪問、申し訳なく思っておるでおじゃる」

「申し訳無い等と。内蔵頭様は妾の甥なれば、いつでも今川はお待ちしておりまする」

「それは有難い言葉じゃ。して用向きじゃがの、例によって銭の無心でおじゃったが都合が付きつつある。お聞きでおじゃろう?」

内蔵頭様が勺を口元に当てて首を傾げてくる。禁裏の動きは参議殿からも、中御門からも聞いている。相手の流れに吞まれないよう、ゆっくりと時間をかけて応じた。


「うむ。来月に予定されていた参議殿への面会じゃが、麿だけでなく朝廷の使者や幕府の使者も来ることになるじゃろう」

「お聞きしておりまする。御使者が帰られた後には連歌会が催されるとか」

「今川参議殿が麿に気を遣ってくれたようじゃ。何、お会いするまで時間が掛かっておるからの」

“ほほほ”と声を上げながら内蔵頭様が笑みを向けて来る。 遅ればせながらになるが、今からでも誠意は見せておくほうがいいと思えた。


「年末には譲位の御大典が行われるとか。些少ではありましょうが志を届けさせましょう」

「おお、左様でおじゃるか。それはありがたい事でおじゃる」

内蔵頭さまが嬉しそうに応じられる。このお顔は本物だろう。幕府が頼りにならない今、常に蔵の心配をされているのだろう。


「助五郎、連歌会の雰囲気を学ぶ良い機会です。当日は外からよく見ておきなさい」

「外からなどとは言わず、参加されればよかろう」

助五郎が口を開けてあたふたしている。心が真っすぐないい男(おのこ)だが、助五郎のこうした所を見ると、治部大輔殿の異様さが際立つ。治部大輔殿であれば、すかさず尤もらしい理由をつけて辞退するか、渋い顔で“はっ”と応じるでしょう。


「助五郎は歌が苦手でしてね。妾の横にいればいいでしょう」

「ほほほ。何事も経験じゃが無理は良くないの。歳が近い治部大輔殿の振る舞いでも参考にされるがよろしかろう」

治部大輔……。そう、此度の連歌会には治部大輔殿が参加する予定になっている。連歌は不得手と席を外すことが多かったが、家督継承後初めての会であり、山科卿もお見えになるからか参加する予定と聞いている。


「皆々様のご様子をみて学びたいと思いまする」

妾と内蔵頭様の視線を受けて、助五郎が生真面目に応じた。




弘治二年(1556)十二月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 三浦 義就




「おめでとうございまする!」

「「おめでとうございまする!!」」

一際大きな声で御屋形様が大殿に祝いの言葉を述べると、臣下一同が大きな声で復唱した。

外は生憎の天気で大粒の雨が降りしきっているが、雨を振り払うように皆が声を上げた。


「うむ。皆が今川に尽くしてくれたお陰じゃ。礼を申すぞ」

ご機嫌も麗しそうに大殿が皆に向かってお応えになられる。此度、大殿は譲位に向けた御大典のための献金を評されて従三位権中納言に任じられた。この献金は形式的には幕府から行われたため、尾張守護にも任じられている。


「いやぁ目出度い。大殿が参議に任じられた時はこれで終わられるとは思わなかったが、まさか権中納言にまでおなり遊ばされるとは」

「いやいや、それを申すならば権中納言とて大殿にとっては途中よ」

「豊前に大蔵、そう煽てるでない」

飯尾豊前守と安倍大蔵尉の戯れに大殿が酒を煽りながらお応えになられている。大殿は満更でもなさそうなお顔だ。


大殿が権中納言に昇進されるにつれて、御屋形様も従四位下治部大輔から参議正四位下と昇られたが、御屋形様の話を出して場に水を差す者はここにはいない。


「細川も大内も衰え、大友は遠国なれば、公方様をお支えできるのは大殿の他におりますまい」

「誠にその通りじゃ。天に変わって世を治められるのは大殿でござりましょうぞ」

皆の賛辞を受けて、大殿が酒杯を空けられる。何時もより杯の進みが早い。随分とご機嫌が良いと見える。


重臣等が舌鼓を打つ中、御屋形様は酒も肴もあまり進んで無いようだ。時折隣に座している山科内蔵頭様と話をなさる程度だ。今日は宴の後に連歌会が行われる予定で、御屋形様は発句だからな。酔いが回らぬよう注意されているのかも知れぬ。かくいう儂も司会を務める事になっている。あまり飲み過ぎては不味い。




宴も酣に席が終わると、続けて連歌会の準備がされる。

御屋形様はイの一番で発句であったな。御屋形様は連歌会を欠席される事も多いが、今日は大殿ご昇淑の連歌会だ。さすがに参加なさる事にしたらしい。


歌に自信ありの今川家臣や、このために呼ばれた僧侶達が着座する。

内蔵頭様も席に付かれた。大殿も脇息にもたれて寛がれながら始まりを待たれている。皆の準備が整ったのを確認して会のはじめを宣言する。

「それでは御屋形様の発句を以て始めまする」

儂が口上を述べて御屋形様のお顔を眺めると、御屋形様がゆっくりと頷いてから声を発せられた。




“時は今 雨が下しる 師走かな”




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