第八十九話 稲生の戦い




弘治二年(1556)九月上旬 三河国額田郡康生町 岡崎城 岡部 元信




「上野城主、酒井将監忠尚にござりまする」

汚れた鎧に疲れた顔で将監が頭を下げた。将監の帰参は二度目になる。前回は村木砦を攻める織田の調略によって挙兵したが、東三河でも相次いでいた叛乱が勢いを失った後、御屋形様の赦しを得て降伏した。


菅沼大膳亮や奥平監物が二度の叛乱を起こした時は、御屋形様がこれを許さず処断されたが、今回の将監は赦される事になっている。御屋形様からの文の内容によれば、一向衆との戦いに専念するためのようだ。


今回、酒井将監が蜂起するや、時を同じくして一向衆が挙兵した。だが両者は手を結んでいる訳ではない。将監に続いて今川に不満を持つ近隣の国人が兵を挙げたが、将監が帰参すれば同じように再び軍門に降るだろう。中途半端な処置に見えるが、一向衆との戦いを有利に進めるためにやむをえまい。それだけ宗門との戦いは厄介だ。


それに酒井将監に対しては、松平から受けた仕打ちが考慮されている。今後の軍令は松平を通じてではなく、御屋形様から、もしくは儂のような御屋形様の代理から伝えられるはずだ。

松平とは別格に扱われることで将監の自尊心も満たされるだろう。


「二度に渡り謀反を起こすとは不届き千万であるが、御屋形様の寛大なご処置により其処元の所領は安堵される。速やかに帰参されよ」

「ありがたき幸せにございまする。この忠尚、改めて今川様に忠誠を誓いまする」

深々と将監が頭を下げる。これでよい。後は反旗を翻している国人達に降伏を促そう。将監にも手伝わせるとするか。長引いた三河の叛乱にようやく終わりが見えて来た。




弘治二年(1556)九月下旬 尾張国春日井郡稲生村近郊 織田弾正忠信行の陣 柴田 勝家




「こざかしぃぃ者どもめ!俺に刃向かうものは叩き斬ってくれる!」

先鋒の兵が勢いよく押し進めているのが遠目にも見える。このまま行けば片付く。そう思っていると、よく通る大きな声が聞こえた。上総介様のお声だ。敵方の本陣深くまで食い込んでいたが、上総介様の形相に恐れをなしたか味方の兵が後ろに下がって来る。


「腕に覚えのある者はかかってくるがよいぞ!」

続けて、上総介様の横で一際大きな槍を持った若武者から大声が聞こえた。前田又左衛門だな。そのすぐ近くには森三左衛門の姿も見える。あの二人が見事な槍働きで末森方の兵を薙ぎ倒し、清洲方の本陣崩壊を辛うじて防いでいる。


「かかれぇ!かかれぃ!敵の総崩れまで後少しぞ」

後退し始めた味方の態勢を戻そうと嗾けるが、一度崩れた陣形は簡単には戻らない。清洲方の七百に対して味方の末森方は千七百もいるが、ここに来て一気に押されはじめている。


「権六、このままでは我が方が総崩れしかねぬ。ここは我が前に出て態勢を立て直す」

「殿、それは危険にございまする」

自ら敵陣に出向こうとされる心意気は買いたいが、今は勢いが良くない。


「この戦で勝たなければ兄上に、いや上総介に止めを差すどころか我が弾正忠家が上総介に膝を屈する事になる。ここは正念場ぞ。我が出ずに誰が出る。権六は二百程兵を我に貸せ。後は佐渡守の手勢で攻めかかる」

「そこまでのお覚悟とは。畏まってござる!殿、大将がいなければ軍は総崩れになりまする。くれぐれもご注意を! 」

「あい分かった」

我が手勢の一部を分ける手筈が整うと勘十郎様、いや、弾正忠様が馬の腹を蹴って先頭を駆けて行かれた。ご立派になられたものだ。やはり弾正忠家は弾正忠様に率いて頂くべきだ。


そのためにも劣勢になりつつあるこの場を持ちこたえねばならぬ。

「引くな引くな!敵は我等の半分もおらぬぞ!二人で一人を相手にすれば良いのじゃっ!」

「お、おぅ」

「そ、そうじゃ……」

……行かぬな。又左衛門や三左衛門の気迫に押されている。敵方では佐久間右衛門尉殿も奮戦しているのが見える。……佐久間か。猛将と言われる佐久間大学助がいれば違うのだろうが、大学助は今回の戦いを前に上総介様に鞍替えしている。今は上総介様方の砦を守っているらしい。


「者共よく聞け!これより我自ら敵の本陣へ攻めかかる!上総介の首を取らば恩賞は思いのままぞ!我こそと思う者は後に続け!」

右翼に構える林佐渡守殿の陣から微かに弾正忠様の声が聞こえた。


弾正忠様が馬で先頭を駆けると、儂の手勢が弾正忠様に続いていく。佐渡守殿の手勢もその後に……動きが悪いな。どうも佐渡守殿の兵は戦慣れしておらぬ。勢いよく先陣を切る殿を見ながら一抹の不安を覚えた。




弘治二年(1556)九月下旬 駿河国安倍郡府中 上屋敷 山科 言継




駿河に身を寄せている継母の体調が芳しく無いらしい。文によれば横になることが増えてきたとか。歳も考えればその様な事もあるだろう。普段ならば案ずる文を返して終わりにするところだ。


だが、見舞いを理由に京から駿州まで赴く事にした。その理由は朝廷の費え担う内蔵頭としての務めを果たすためだ。嘆かわしい事に朝廷の蔵事情は悪化の一途を辿っている。最近では幕府の力が益々衰え、先に行われた元号変更の費用も滞り気味だ。


その様な事情の中、天下に富裕を轟かせる今川を訪れる機会を見過ごす必要は無い。今月の頭に京を立ち、三日前に府中へと到着した。だが麿の意図を察したのか、今川参議や尼御台殿との面会は先延ばしにされている。


ま、銭が無いので朝廷での政務も忙しい訳ではない。ゆっくりと今川の当主殿に面会を許される日を待とうとしていると、治部大輔の使者が訪れて会う手筈となった。都合の良い日頃に伺う旨を伝えると逆に来るという。今日はその約束の日だが、先程先触れの使者が来た。予定通り治部大輔が来るようだ。


しばらくすると家人から治部大輔が訪れたと告げられる。今川に用意された屋敷で大上段に構える訳にもいかぬ。迎えに行こうかと廊下に出でると、既に治部大輔が歩くのが目に入った。相変わらず早い足取りよ。あの足取りを禁裏で見たのを思い出して笑いを堪える。


「参議様、ご無沙汰しておりまする。遠路よくお越し下されました」

「治部大輔殿。その様に堅苦しい挨拶は不要でおじゃる。それよりも済まぬの。斯様に素晴らしき屋敷を用意してもろうて」

「何を仰せになられますか」

立ちながら雑談をしていると手で部屋に入ることを促される。治部大輔が自然な流れで下座に向かっていく。ほぅ、感心だな。摂関家や清華家ともなると違うのだろうが、麿のような羽林程度になると官位等は無視され、今回の様な場では下座に座る事が少なくない。


治部大輔は若くして知略だけでなく武名を轟かすが、闘将にありがちな粗略な素振りを見せる事はない。この辺の気遣いができる所が主上の覚えが目出度くなる理由でもあろう。


「参議様の継母殿がお身体芳しくないとか」

「うむ。文でそう聞いておじゃったのだかな、見舞ってみるとそこまで酷くは無かった」

「それはようござりましたな」

治部大輔が安堵するような顔を浮かべた後、"卿が御祖母様や父上に面会されるには刻が掛かるでしょう"と真顔で呟く。


「ふむ。麿の勤めは内蔵頭じゃ。何の用向きかと想像もしよう」

「もし邪推したとして、それにその邪推が的を射ているならば、無駄な時などかけず気持ちよく支援すれば良いと思いまするが」

皆分かっている事だ。取り繕っても仕方ないと思って自虐的に話すと、治部大輔がすかさず言葉を返してくる。治部大輔が飾らず父君と祖母君を批判するところに笑みが零れた。


「蔵人に文を書いておきましょう。父上がどのような判断をするか分かりませぬが、一先ず某でできる範囲で支援致しまする」

「忝ないでおじゃる。駿州まで来てようおじゃった」

笑みを浮かべると、治部大輔が“何かあればまた仰せ下され”と応じた。誠頼りになる御仁よ。


「それはそうと上方は如何でござりますか」

世間話をするように治部大輔が話しかけてくる。関白兼左大臣の義弟殿だ。麿に聞かずとも相当な情報を仕入れているだろう。だが今回はその関白殿下から内密の言伝を任されている。


「三好の勢威いよいよ高くして、幕府の威光は地に落ちておじゃるな。ま、そんな事は存じておじゃろう。それよりも関白殿下よりの言伝がおじゃる」

「義兄上からの?さて何でござりましょう」

麿が周りを探る仕草をすると、治部大輔がゆっくりと首を縦に応じた。予め人払いをしてあるようだ。


「主上の御具合が宜しくない。床に伏せることも多くなり譲位の御叡慮を溢される事が多くなった」

「帝が譲位を?」

「うむ。主上が譲位のお気持ちを話されるのは初めてではない。何分在位三十年にもなるからの。東宮様に位を譲って見守りたいと思われるのも無理はない。じゃが幕府に大典を行う力も銭も無くての。譲位等できる状況では無かった。大樹が朽木に逃れている現状は更に悪いと言って良いが、ここまで落ちては幕府に拘る必要も無かろう。そこで、主上が今川の名を出されたのだ」


"今川"と聞いて治部大輔の眉が動く。九條太閤殿下や二條太閤殿下は三好から献金を募る案を出されたようじゃが、大樹の反発を余計に買う事になる。そこで関白殿下が今川に声を掛けてはどうかとご提案されたらしい。幕府と今川の関係は必ずしも良くはないが、足利一門にあたる今川から献金が得られれば大樹の顔が立つ部分もある。


「この様な事を申すのは甚だ畏れ多い事ではあるが、御大喪の用意が必要になる可能性もある」

「……なんと。主上はそこまでご容態が優れないのでございまするか」

「最悪の場合の話じゃ。朝廷の蔵所を担う者としては考え無い訳にはいかぬ」

「分かりました。長らく帝位にあられ国の行く末を案じられた主上のご意向に沿えるよう何とか致しましょう」

「そう申してくれると助かるでおじゃる。治部大輔殿、此度の話はくれぐれも内密に願いまするぞ」

「……。」

「治部大輔殿?」


治部大輔が麿の問いかけに応じることなく遠くを眺めている。考えに耽っておるのかの。

「いや、失礼を致しました。参議様のお話をお聞きする限り事態は一刻を争いまするな。費用は全てこの治部大輔が責任を持ちますゆえ、よろしくおすすめ下され」

「左様でおじゃるか。しかし今川参議殿は良いのでおじゃるか?」

目を見ながら話すと、治部大輔が“何とか致しましょう”と力強い眼差しを浮かべながらで大きく頷いた。

心内に染みついている茫漠とした不安が晴れるような気がした。



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