第八十八話 火種




弘治二年(1556)四月下旬 遠江国豊田郡龍川村 峰之澤 吉良 義安




「撃ち方始めぇ!」

"ドォォン"

鉄砲よりも幾分太い音を立てて砲弾が放たれる。


“弾ちゃあぁぁーく!”


天竜川沿いに作られた試し撃ち場の遠く向こうに土埃がたつのが見えると、測量を担っている兵が声高く叫んだ。殿にお供している幕僚達から歓声が上がると共に、新造された大筒が無事に発砲を終えた事を喜び合う。


続けて次弾の装填がされる。射撃間隔が短くなると砲身が熱くなる。二発程度なら問題無い。我が殿の事だ。どの程度短い間隔で射撃ができるのかご覧になりたいのだろう。

「撃ち方始めぇ!」

"ドォォン"

号令に従って大筒から砲弾が放たれると、先程初弾が着弾した付近に次弾が落ちるのが見えた。中々の精度だ。南蛮商人から購入した大筒でも訓練をしていたのだろう。


「うむ。問題無いな。鉄次郎、よくやってくれた」

「へぇ。ありがとうございます」

殿の言葉に、新兵器の開発を担った鉄次郎や弟子達が嬉しそうに応じている。二月前、突如来訪した南蛮の商人が大筒を献上していった。殿は殊の他お喜びになり、商人が伴天連の布教に関する話をしなかった事もあって、定期的な用宗への来訪が許された。殿は南蛮商人に、次は南蛮船の絵図面をと所望されていた。南蛮商人が驚いていたな。“大筒は良いのか”と問う南蛮商人に殿は"大筒が戦で使えるものか試して見なければ分からぬ。注文するのはそれからだ"と仰せだった。だが、始めから写すおつもりだったのだろうと思うと、思わず笑ってしまう。


今目の前には峰之澤で作られた大筒が二門置かれている。筒は南蛮商人のものに似ているが、ここで作られた大筒には車輪が付いている。南蛮商人から献上された大筒は、打つと反動で台座がずれる。これを見た殿が砲台に車輪をつけることで反動を吸収するだけでなく、持ち運びも便利になると仰せになった。


殿のご指摘を受けて、峰之澤での大筒製造では馬車の仕組みを応用した牽引できる大筒が製作された。

あの商人がここを訪れたら驚くだろうな。自分が献上した大筒よりも多く、それに使いやすくなっているものがあるのだから。それに峰之澤で生産できれば南蛮から運ぶよりも随分早くなる。


殿はあまり写しが優れていると警戒されるので南蛮から大筒も適当に買われると仰せだったが、南蛮商人をも手玉に取る殿はやはりただのお人ではない。


「鉄次郎。どの程度撃てば壊れるか、どの程度の連射に耐えるか、様々な視点で確認をせよ。金に糸目はつけぬ。それに鉄も青銅も火薬も好きなだけ使え。大筒は今川にとって重要な兵器になるはずだ。明日の我が兵のために惜しみ無く銭を使うとしよう」

殿が日頃の鬱憤を晴らすように矢継ぎ早に指示を出されると、鉄次郎が生真面目に応じる。だが、どこか嬉しそうに見えるのは気のせいではないだろう。鉄次郎の事だ。しばらくすると大筒の扱いにもなれて改良を始めるかも知れぬ。


"ドォォン"

砲弾の装填が終わると、大筒が再び大きな音を轟かせた。

今川に新たな音が加わったと感じた。




弘治二年(1556)六月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 義元




「父上!」

大きな足音と共に治部大輔が部屋に入って来るなり、目の前にどんと座った。領内の視察に出ていると聞いていたが息を上げている。狩衣が少しばかり砂埃で汚れている。急いでここに来たようだ。隣に座っている母上が驚いておられる。

「治部大輔殿、何事ですか」

「そうじゃぞ。いきなり如何致した。子供でもあるまいに」

「どうもこうもありませぬ。お隆を六郎に嫁がせるというのは本当にござりますか!」


治部大輔が血相を変えて声を荒げている。治部大輔は冷静沈着だと皆が褒めそやすが、今日は中々の猛々しさだ。随分と昔に塚原卜伝師と治部大輔が一手前した時に、息子から師に勝るとも劣らぬ気迫を感じた。その時と同じ程の気迫を感じる。


「誠の事じゃ。六郎信友は甲斐源氏の血を正統に引き家柄も良い。舅殿に頼まれたという事もあるが、悪くない縁組であろう」

「大膳大夫殿との関係は如何なされるおつもりでしょうや。父上は御祖父様が六郎こそ甲斐武田を継ぐ正統な後継者だと、常日頃から仰せであるのをご存知でござりましょう。これでは火中の栗を拾うことになりますぞ」

鷹揚に話す余とは対照的に、治部大輔が機敏に首を振りながら応じる。


「火中の栗とな。結構ではないか。此度は表向き舅殿の要望に応えたことになっている。それ故に大膳大夫が余を批判する事は出来ぬ。なるほど、そなたの申す通り此度の事で武田との間に多少の緊張は生むかもしれぬ。じゃがの、甲斐の国主になるかもしれぬ男を手元に置けるのだ」

「既にお嶺を送って武田太郎義信殿を婿に迎えているではありませぬか。盟約を結ぶ中で不必要に火種を抱える必要はありませぬ」


「盟約を結んでいるからといって安穏としていてはならぬ。大膳大夫は我等と盟約を結んでおきながら乱波を我が領に送っている。しかも最近ではこれを増やしているように見える。ある程度の牽制は必要よ」

銭で雇っている伊賀者からの報告によれば、最近は武田の手先らしき乱波が三河で増えているとのことだ。甲斐の山狸め。小癪な事をしてくれる。その事を示唆すると、治部大輔の眉が僅かに動いた。治部大輔には荒鷲とかいう手足があるからな。何か聞いているのかも知れぬ。


「乱波を送っているのは某も同様にございまする。此度の婚姻を推し進めれば、今川と武田は溝を深めまする。父上、何卒ご再考を願いまする。これでは駿河と甲斐の国境に不安を残しまする」

「甲斐の武田と緊張はするかもしれぬが、駿河の武田とは縁が深まろう」

「駿河の武田……。父上、六郎は次郎三郎とは違って血統しか持ち合わせておりませぬぞ」

流石は我が息子よ。余の言わんとする事が分かったらしい。


「武田とは今でこそ盟約を結んでおるが、我が兄が当主の頃は刃交える間柄であった。今の盟約とて何時まで続くか分からぬ。今少しすれば余は尾張を切り取る。その次は美濃へと領域を広げる事になるだろう。さすれば武田は西も南も今川に囲まれることになる。北は和睦をしたばかりの長尾、東は北條じゃ。居心地は悪くなるじゃろうの。武田の所領を北條と切り取りあってもよい。その時の武田当主は信友よ」

「……父上の謀略、此度の婚姻を推し進めれば武田も察するかもしれませぬ」

治部大輔が厳しい表情を浮かべながら余に顔を向けて来る。


「先程も申したが、これは舅殿に頼まれた縁組である。であればこそ大膳大夫は表立って今川を非難できぬ。例え察したとしても何も出来ぬというわけじゃ。治部大輔、何事にも建前がいるのよ。武田が今川に刃向ける事は出来ぬ。大義無き戦に人は付いては来ぬぞ」


「某はあくまで反対にございまする。この話は利よりも危険が大きゅうございます」

治部大輔が低い声で異を唱えると、隣の母上が不安そうなお顔を浮かべた。この話は母上にも賛意を貰っているが、治部大輔の頑強な抵抗がお家の内紛を呼ぶ様に見えたのかも知れぬ。余と治部大輔が仲違いしているようにな。よい機会だ。前より考えていた事を伝えるとしよう。


「治部大輔。前より考えておった事であるが、お隆の婚姻が済めば余はその方に家督を譲ろう」

「父上はまだお若くありまする。隠居には早いと存じまするが……」

「隠居はせぬ。余はその方に家督を譲り、尾張攻略に専念する。三河と遠江は今まで通り余が差配する」


「ならば今とあまり変わりませぬ。父上が当主として率いられた方がよろしいかと」

「そのような事は無い。当主としてこの今川を率いるのだ。尾張方面は余が担うが、その他はほとんどその方が差配する事となる。期待しておるぞ」

「治部大輔殿、よかったですね」

治部大輔には好きなようにさせていたから、あまり変わらないと言えばそうかも知れぬ。だが大きな違いがある。余が認めて家督を譲るのだ。治部大輔の家督は余の存在があって正統なものになる。


「ありがたき幸せにございまする」

余の意図に気づいたのか否かは分からぬが、治部大輔が母上の顔をわずかに見た後、余を凝視しながら応える。

治部大輔が大膳大夫の様に父を追放するとは思えぬが、手は打っておくとしよう。


母上も安堵されたようだ。些末な事は治部大輔に任せて余は三河、尾張に専念しよう。雪斎と備中守亡き今、余の差配で事を進めるしかあるまい。




弘治二年(1556)七月下旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




「如何されました」

駿河の参議から来た文を読んでいると、弟の左馬助が案じて声を掛けて来た。読み終えた文を差し出すと、丁寧に受け取って読み始めた。横の刑部少輔も覗きながら共に読んでいる。


「なんと。実の娘を六郎に嫁がせたいとは……。全く参議様は何をお考えなのだ」

「兄上、参議様は先代の我儘に付き合ったとありまする。先代を今川様に面倒見て頂いておりますゆえ、この様に言われては致し方ありますまい」

刑部少輔の言うとおりだ。父上の事だ。世話になる身でありながら色々と画策もしていよう。参議には迷惑を掛けているとは思うが今回の儀は腑に落ちぬ所もある。


「今川だが、近頃は参議殿と治部大輔殿とで意見が異なる事が多いようだ。これは治部大輔殿の文だが、先代の我が儘とは言え面目無しとある。何かと間を取り持っていた朝比奈備中守が没したからな。家中は想像以上に揺れているのかも知れぬ」

儂が治部大輔からの文を差し出しながら内容を掻い摘まんで伝えると、左馬助が不適な笑みを浮かべながら受け取った文を読み始めた。


「雪斎殿に続いて備中守殿も失ったとは今川様も苦しいでしょうな」

「だが乱波からの報せによれば参議殿は精力的に文書を発給して三河を収めようとしているらしい」

「長尾相手に勝利も収めましたからな。張り切っておられるのかも知れませぬ」

「御屋形様も兄上もその様に仰せにならずとも……。参議様は河東の戦いや仮名目録の追加と何かと功績を残されておりまする。稀代の英傑にございまするぞ」


刑部少輔から窘められると、思わず大きな笑いが出た。左馬助も続けて笑う。刑部少輔は苦笑いを浮かべている。

儂と左馬助が今川を謗って刑部少輔が窘めるいつもの光景が可笑しかった。


「ま、先代の後見を受けて六郎が新たに家を建てようと甲斐は揺るがぬ。誰も付いてはいかぬだろう」

「御屋形様の仰せの通りにございまする」

儂が存念を申すと、二人が大きく頷いた。


「それよりも参議殿は治部大輔殿に家督を譲るらしい」

"なんと"

"まさか"

二人が驚いている。参議からの文に書いてあったが、文の最後についでのように書いてあったからな。儂が話し掛けていたし、治部大輔からの文も渡したから辿り着いていなかったのだろう。


「参議殿は尾張や三河の事に専念するらしい」

「今と大して変わりませぬが、何故この時期に譲る必要がありましょうや?」

「左様。参議様はまだお若ければ今少し先で良いものを。治部大輔様は早くから家督を譲って立場を作らせねばならぬ方でも無い。今でも立派に国主として政をなされておりまする。それを敢えて譲るとは……もしや我が武田と同じ道を辿らぬ様に手を打ったという見方は出来ませぬか?」

刑部少輔に続いて左馬助が訝しむ。二人は知らぬだろうが、勘助からの報告によれば参議と治部大輔は結構な確執があるようだ。左馬助の読みは中々の明察かも知れぬ。


「優れた者同士、たまには意を異なる事もあろう。雨降って地固まるという言葉もある」

「地が固まるのは雨の後に晴れてこそでござる。御屋形様の差配によって我が武田は纏まったが、今川が斯様に行くとは限りませぬぞ」

左馬助がどこか楽し気に応える。


……その通りよ。信のおける弟達とはいえ、今これ以上話すのはまだ早い。話すこと無く墓場まで持っていく事になるかも知れぬしな。

勘助が蒔いた種が少しずつ芽吹いている。瞋恚の炎となるか見物よな。

もし今川がぐらつけば喰らう。そうで無ければ頼れる盟約相手と思えば良い。


今回の家督相続の一件を見ても、今川の目は尾張に向いている。その間はこの三國同盟を手放す事は出来ぬはずだ。北條も上野を巡って越後の長尾と争っている。はじめは北條に勢いがあったが最近は長尾に勢いがある。それに北條は常陸の佐竹や房総の里見とも争っていて何かと関東で忙しい。盟約は手放せまい。


当面の敵にあたる長尾では、間もなく重臣の大熊備前守が謀反を起こす手筈になっている。これには越中の一向一揆も呼応する予定だ。今年はあまり兵に負担を掛けずに済んだが、動きが無かったわけではない。


むしろはかりごとで何かと実のある年になりそうだ。

二人が儂の前から下がると、一人静かに笑った。



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