第八十六話 不協和音




弘治元年(1555)十一月中旬 伊豆国田方郡韮山村 韮山城 今川 氏真




「伊豆国の検地は順調に進んでおりまして、年内には大方終える予定にございまする。今年の石高は八万と三千石でありました。新田開発が出来る場所はほとんど終えておりますゆえ、引き続き金山、湊の整備や特産物の奨励に注力して参りまする」

鵜殿藤太郎長照と松井八郎宗恒が粛々と報告をしている。二人には信濃出兵の前に伊豆の開発を指示していた。淡々と報告をしているが、難所の多い伊豆の開発には苦労も多いだろう。一言労っておこう。

「うむ。順調のようだな。藤太郎と八郎、困難も多いだろうがここまでよくやってくれた。これからもよろしく頼む」

二人の目を見て話すと、嬉しそうな顔をして"ははっ"と頭を下げている。


「ホホホ、相変わらず人の使い方がお上手でおじゃりますな」

二人がやる気に満ちた顔で下がっていくと、草ヶ谷権右少弁が笑いながら話しかけて来た。同席している者達もニヤニヤとしている。

「人聞きの悪い事を申すな。俺は思った事を伝えただけだ」

「これはこれは、失礼を致しました」

権右少弁が扇子を口にあてて笑いを堪えている。そんなに面白いか?


信濃出兵を終えた後、そのまま伊豆方面の視察に向かうことにした。今年の収穫がどうだったか見たかったのだが、本音を言うと府中までの道中を父と共にするのを避けたかった。どうも最近は父上の態度が素っ気無い。何となく俺を疎んでいる気はしていたが、あれは間違いないな。触らぬ神に祟りなしと思って今回は距離を置いたが、今後どうするか考えなければならんな。……ま、とりあえずは伊豆の内政だ。


伊豆では内政の進捗を確認する事が目的になる。腹心の多くは信濃出兵に帯同していたが、大蔵方を務める草ヶ谷権右少弁は府中にいたため、韮山まで呼び寄せた。


「下田湊の存在が大きゅうおじゃりますな。樟脳といった従来からの特産に加えて、新たな特産品である干物を運び出すのに重宝しておりまする」

権右少弁の言うとおりだ。今伊豆の各地では湊の整備が進められているが、元々俺の所領として早い段階から整備されていた下田湊を重宝している。大型の廻船でも入航に不便なく、下田や伊東で作られた干物等の特産品を輸出する拠点になっている。


「伊豆が便利になっているのは湊の整備もあるが、平次郎達が道を整備してくれていることも大きい。伊豆は難所も多かろう。礼を申すぞ」

「有り難き幸せにございまする」

俺が礼を伝えると、平次郎が嬉しそうに頭を下げた。また権右少弁に揶揄われそうだな。だが礼を伝えたいのは事実だ。輜重方は目立たないが、大きな活躍をしてくれている。今回の信濃出兵でも半年以上に渡る出兵の兵糧を手配してくれた。駿河と伊豆の生産力は大幅に向上しているので物の用意は難しい事ではない。大変なのは戦地へ兵糧を運ぶ事だ。街道が整備されている駿河に比べ、武田領での輸送に手間がかかり、我が家臣達は改めて街道整備の重要性を痛感したらしい。


「殿、失礼致しまする」

しばらく側近と内政について議論していると、狩野伊豆介が広間に入ってきた。そういえば途中で呼ばれて席を外していたな。伊豆介の後ろに森弥次郎がいる。これはいよいよ何かあったな。伊豆介が先程までいた席に座ると、後ろに付いて来ていた弥次郎が中心に座って頭を下げた。本人がいるなら直接聞いた方が正確だ。伊豆介は弥次郎に確認して直接報告させた方がいいと判断したのだろう。俺の性格をよく分かっている。


「西部方面における荒鷲の責任者が来るとは余程のことがあったか」

「はっ。三河の一向一揆に動きがありまする。蜂起するのは時間の問題かと」

弥次郎の報告を受けて、同席している皆から"なんと""やはり"と声が上がる。


「規模はどうなっている」

「本證寺を中心に、上宮寺、勝鬘寺が連携しておりまする。相当に大規模なものになろうかと」

「朝廷斡旋の和議もここまでか。三河は雪斎がいなくなるだけでこうも動くのだな。それとも後ろで背を押すものがあるか?」

「……尾張の織田上総介殿が結構な銭を流しておりまする」

「上総介……。やはりウツケでは無いな。今川の痛い所を上手く突いてくる」


流石は信長だな。雪斎の体調が悪い事も随分前から把握していたのかも知れぬ。今頃は三河の動揺にほくそ笑んでいるかも知れないな。

「尾張衆や三河衆が駿河衆による鎮圧を望んでおります。一向一揆が立ち上がれば、その声はなお強くなると思いまする」

弥次郎が状況の説明を続けると、吉良上野介が懸念の表情を浮かべた。上野介は三河に所領があるからな。この場にいる他の者達よりも心配なのだろう。


「実は朝比奈備中守からも文が来ている。三河の動揺を抑えるために兵を出して欲しいと」

「駿河の兵を、ということでござりまするか」

「信濃守、その通りだ。何かと三河が五月蝿い事で遠江の兵は緊張が多い。備中守としては遠江に波及するのを避けるために駿河の兵を動かし、遠江の兵は休ませたいのだろう」

「駿河も伊豆の兵も信濃へ出兵したばかりでございまするが」

「彦次郎、そう言ってくれるな。三河や遠江と違って全軍で出たわけではない。行くとなれば、先の出兵では残っていた者を中心に出せばいい」

しかし何かと慌ただしいな。最近はどこかで常に戦となっている気がする。


「それでは備中守殿の願いを聞き入れて、殿は御屋形様に三河への出兵を願うということでござりますか?」

上野介が俺の顔を見て尋ねてくる。その顔には僅かに怪訝な様子が見て取れる。上野介は若いが一国を率いていたからな。俺と父上の溝を感じ取っているのかも知れぬ。

「俺から申し上げては角が立つだろう。西への出兵は信濃出兵の前に申し出て御不興を買っている。そもそも、三河や尾張に兵を出そうとしたら、そんなに戦がしたいのなら信濃へ行って来いと言われたぐらいだ。父上から言われるならまだしも、俺から具申するのは避けた方が良い」

俺の言葉を受けて上野介が安堵とも残念ともとれる複雑な表情をした。


「そう心配するな。吉良は俺が守る。その方への禄という形で吉良を守る左兵衛佐へ銭を渡しておこう」

「ありがとうございまする」

今度ははっきりと安堵したような表情を浮かべて応じる。後で備中守と話をするか。だが父上がどのようにお考えか次第だな。そして父上は俺が出る事を望むまい。慎重に、だが果断に対応しなければ三河の対応に時を浪費する事になるが……。




弘治元年(1555)十一月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 朝比奈 泰能




「これは備中守殿、本證寺の僧たちが蜂起したとか」

「うむ。これから御屋形様にご報告するところだ。左衛門尉殿も同席してほしい」

「もちろんでござる」

左衛門尉殿の執務室を訪れると、左衛門尉殿がすぐに事情を察して席を立ちあがる。御屋形様への面会の許可は既に求めてある。御屋形様が政務を行う部屋にたどり着くと、すぐに中へと通された。

部屋には、御屋形様の他に尼御台様がお見えであられた。いつもなら政務を一通り終えて一休みされる頃だ。信濃の事でも話されていたのかも知れない。御屋形様は信濃で長尾相手に大勝利をなされた。お戻りになってからご機嫌麗しい。


「備中守に左衛門尉、急ぎの用とは如何致した」

「穏やかではありませぬね」

慌ただしく部屋に入って平伏すると、御屋形様にすぐ声を掛けられる。御屋形様はいつものように冷静なご様子だがお隣に座する尼御台様は眉を顰めておられる。近習が茶菓子を持ってきたが、御屋形様に下がるよう告げられる。

人払いが済むと、御屋形様が某達の顔を見ながら首を動かされた。報告を促す時に御屋形様がなさる仕草だ。


「はっ。先程早馬がありまして、三河の本證寺にて一向宗が蜂起したとのことでありまする」

「何じゃと?朝廷との和議を反故にしてきたということか」

「ははっ」

「朝廷が間に入った和議を反故にするとは恐れ多い者共よ。まぁよい。それならば不義を訴えて潰すまでよ」

「……それが、和議以降寺社に対していくつか布告しております。一向一揆はその事を指して、和議を反故にしているのは今川だと」

「小癪な。和議は今川が坊主どもと結んだ約定に過ぎぬ。今川は三河を治める者として国に触れを出すのは当然ではないか」

御屋形様が語気を強めてお怒りになられている。鎮圧には駿河衆を使うべきだと思うが、この具申は火に油を注ぐかもしれん……。言い淀んでいると、左衛門尉殿から“備中守殿”と促される。心の臓が絞られているような気がした。


「御屋形様、お怒りはご尤もでありまする。ここは厳しく処断するためにも兵を動かす必要がありまする。三河や遠江の兵は先の出兵で疲弊しておりますゆえ、駿河の兵を動かしたいと考えておりまする」

「駿河の兵じゃと?」

「はっ。遠江は三河の隣国ゆえ、今後出兵も多いかと思いまする。さすれば此度は駿河の兵を使いたいと」

「たかだか坊主の征討に駿河からわざわざ兵を持って行っては今川の威信が疑われるわ」

「先の出兵では遠江の負担も多く、此度も出兵させては反発も多かろうと……」

「反発のぅ。であれば此度は余自ら征討してくれよう。余が出陣するのであれば反対の意見を上げる者もおらぬじゃろう。それにその方が案ずる費えは治部大輔に出させる。それでどうじゃ」

「参議殿、私は反対ですよ。今川の当主がわざわざ一揆の鎮圧に赴く必要がありますか。三河の事なのです。ここは松平の倅に任せてはどうです」

尼御台様が御屋形様に意見された後に儂と左衛門尉殿の方に目線を移される。冷淡な眼差しに思わず平伏する。


「次郎三郎か。母上、それは良いかもしれぬ。初陣で、しかも三河の事となればあの者も励むじゃろう。よし、備中守は次郎三郎を麾下に入れた上で出陣し賊を征討せよ。遠江と三河の兵はその方に預ける。費えは心配するでない。余から治部大輔に話しておこう」

御屋形様が下知されると、尼御台様が満足そうに頷かれた。

有無を言わさぬ御屋形様の気迫を前に頭を下げ、左衛門尉殿と共に前を下がる。

最近の御屋形様には慎重さが無くなっている。そのように感じずにはいられなかった。




弘治二年(1556)一月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




うーん、いいねぇ。

これが領内で作られたとはテンションが上がる。

この明るい赤みがかった色に鼠色の部分が混ざり合って存在感を示している。前世で気に入って、いくつか収集した十二代弘入の赤楽に似ている。弘入、良いよな。個性を主張しないような感じでいて、品があって飽きがこない。赤楽は弘入、黒楽は九代了入の作品が好みだった。まぁ、頑張れば手に届くというのも理由だったかも知れないが。もっと作らせてどんどん売っていこう。うふふふ。


さて、茶碗も清め終わったし茶を入れるか。表だと赤楽に濃茶はやらないと聞いたことがある。良いかな、良いよな?今は俺一人だし、そもそも俺は表でもない。現実逃避の濃茶点前なのだし細かい事は無視していこう。

赤楽に湯を入れ、茶を練り始める。……いい塩梅だ。自服で頂く。


茶を喉に流し込んで味わっていると、

“パチパチッ”

と炉の炭が音を立てた。よく火が立っているな。釜からは湯気が立ちあがり、松風の音が心地よい。

一点前を終え、心が落ち着いてくるとまつりごとの事が気になってきた。


懸念の三河だが、師走になって早々に父上からの命を受けた朝比奈備中守が、遠江から一万を率いて三河入りし、不満分子を順に潰していった。

いくつかの国人は潰されたが、早々に帰参する国人や証拠不十分な者は許されて元のままになっている。一向一揆も主だった首謀者は首を刎ねられたが、門徒が根絶やしにされたわけではない。全体的に事の解決を急いた感じだ。


その理由は鎮圧部隊の大将を務めていた備中守にある。三河入りした備中守は、腰を据えて鎮圧をしようと、俺に使用許可を得た今橋城に本陣を構えて反旗を翻した国人達を潰し始めた。東三河に目処がつき、いよいよ一向一揆と西三河の叛徒鎮圧に向けて岡崎城に本陣を移したところで倒れた。軍議に入ろうとしていた所、急に吐血して倒れたらしい。共に参陣していた井伊内匠助や天野安芸守が備中守の体調を秘匿し解決を急いだという事だ。


備中守は今月の中旬に駿河へと帰国したが、未だに府中の屋敷で静養中だ。父上も随分と心配している。ずっと支えて来てくれた筆頭家老だからな。俺も先日屋敷を訪問したが、随分とやつれていた。雪斎が亡くなって心労も多かっただろう。吐血となると結核か胃潰瘍か、それとも別の病か……。治療薬の無いこの時代だから厳しいかもしれぬ。何か音を立てて今川が崩れようとしている気がするな。


点てた茶を自服しているとかすかに足音が聞こえた。耳を澄ましていなければ気づかなかっただろう。

“伊豆介、お呼びにより参りました”

中に入ることを促すと、伊豆介がにじり寄って座った。中々様になっている。この伊豆介、俺の影響で茶を嗜んでいるらしい。

「夜更けに済まぬな。三河の事でお主と話したかった」

「はっ」

蠟燭に照らされた伊豆介の顔に驚きは無い。伊豆介とも随分と長い付き合いになるからな。察するところあるのかも知れぬ。


予め用意しておいた茶菓子を食するように促した後、ゆっくりと、丁寧に、一服を立てる所作に入った。



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