第八十五話 巨星堕つ




天文二十四年(1555) 十月中旬 駿河国安倍郡府中 松平邸 松平 元康




「ただいま帰りました」

「よく戻りました。お疲れになったでしょう」

御祖母様が私を労ってくれている。三日前に御師匠様が遷化してから帰る暇が無かった。久しぶりに見た私の顔に疲れが見てとれたのかもしれない。

「御屋形様への文はお書きになりましたか」

「いえ、太年尼様がまとめてお書きになられるとの事でした。御屋形様は信濃へ御出陣中ですので陣中への文はなるべく少ない方が良いだろうと」

「そうですか。それもそうですね」


御屋形様は今月のはじめに三河と遠江から集めた大軍を率いて信濃へと出陣された。尾張や三河でお役を担っている将から懸念の声があがったと聞いたが強行なさったようだ。松平の者たちからも三河に隙が出来て心許ないという声が出ている。


御屋形様としては大軍を容易に動かす今川の武威を示すことで、反抗的な者達に牽制を与えたいのだろう。それに中途半端な兵を出すよりも圧倒的な武力を見せることで、一気に片を付けるおつもりなのかも知れない。これが吉と出るか凶と出るか……。何れにしても御師匠様の死は今川にとって大きな痛手だな。


「あなた様はこの後どうされるのです」

三日三晩寺に詰めて疲れているところだ。暫く休みたいところだが、御祖母様がお聞きになりたいのはその様な事ではなく、私の今後の話だろう。

「長慶寺にいる必要が無くなりましたので臨済寺と智源院を行き来するような生活になるかと存じまする。瀬名姫との事もありますれば、刑部少輔殿の屋敷に行くことも多くなるやも知れませぬが」

「禅師が入滅されたとなるとそのお話も少し先になるかも知れませぬね」

御祖母様のお顔が少しだけ曇った。御祖母様は此度の婚姻は私の立場を固めると喜ばれていた。曾孫の顔を拝めるかも知れないとも。その慶事が先延ばしになるかも知れぬ事態を残念がっておられる。


「こればかりはやむを得ませぬ。話が無くなる訳ではありませぬ。瀬名姫のご機嫌をしっかりとっておきまする」

「あなた様の事です。その辺りは心配しておりませぬよ」

御祖母様が私の顔を見て笑みを小さく笑みを浮かべている。信頼してもらえているのがうれしかった。


「……しかし、禅師亡き今、この今川はどうなって行くのでしょう」

「大きな支柱を失ったのは間違いありませぬが、御屋形様がおられまする。それに三浦左衛門尉様や朝比奈備中守様といった譜代の重臣が支えましょう」

どこに耳があるか分からぬ。当たり障りの無い空虚な言葉を発していると、御祖母様が私の心内を見透かしたような微笑を浮かべていた。




天文二十四年(1555) 十月中旬 信濃国水内郡長野村 大堀館 直江 景綱




殿の命を受けて斎藤下野守殿と共に武田の本陣へと向かう。予めこちらから使者が出向く旨は伝えてあるが、間違えて弓を引かれる恐れがある。馬印に白旗を棚引かせて使者であると示した。


犀川を渡河する必要があるが、幸いにして今日は水が少ない。我等の姿を捉えて、弓を持った武田の兵が何人か構えたが、大声で使者であることを伝えると構えを解かれた。はじめから射るつもりは無かったようだ。念のため構えたといったところだろう。暫くして無事に武田の本陣に到着し、用向きを伝えると陣の奥にまで案内をされる。せっかく敵方の陣にまで来たのだ。敵兵の様子を横目で伺うと、陣そのものは今川の援軍が駆け付けたばかりで物々しい様相だが、兵達の表情は追い込まれたものでは無い。所々から笑い声も聞こえてくる。援軍が来たからか、元々旺盛なのか、確かな理由は分からぬが厭戦気分からはまだ遠いようだ。下野守殿も同じ事を感じているらしい。長尾の陣では殿が長期戦の覚悟を事あるごとに仰せになってはいるものの、長引く在陣に帰国をしたがっている者もいる。あと二月もしない内に雪が越後への道を閉ざしに来る。迫る冬の音に皆の気持ちが逸るのも判らなくは無い。


陣の奥へと進んでいると、案内をしてくれていた者が片膝を付いた。陣幕の中に向かって儂達を通す許可を求めている。奥から"お通しせよ"と聞こえると、案内役から中に入るよう促される。彼の役目はここまでのようだ。


「長尾弾正少弼が家臣、直江大和守景綱にございまする」

「同じく斎藤下野守朝信にございまする」

「武田大膳大夫でござる。よくぞ参られた」

大輔大夫様が使者として訪れた我等を労う言葉を掛けて下さった。お顔には随分と余裕が見える。伏齅の知らせでは武田の刈り入れ状況は芳しく無く、兵糧事情も悪いとあったがこれは演技だろうか。それとも今川に助けられたか。


「和睦の使者と聞いている。まずは弾正少弼殿のお考えを伺おう」

「我が主、弾正少弼は今互いに陣取っている境、即ち犀川の北を長尾、南を武田様の所領として和睦を結びたいと考えておりまする。無論、旭山城は武田方が差配する事を認めまする」

「現状を以て和睦ということだな。ふむ」

大膳大夫様が手を顎にあてて思案している仕草を見せる。思ったよりも我等が譲ったと思われているか、妥当と思っておられるか、それとも不服か……。今のところお顔からはお考えを読み取れない。


今回提示した現状の勢力圏を基に境を定めるという案は、当家に身を寄せている村上左近衛少将殿がその所領を完全に失うものだ。越後に代わりの土地を用意しなければならない。この条件は長尾としては思い切ったもので、殿はこの和睦に難色を示され、決戦を主張された。そのような中、皆で殿を宥めて何とか認めて頂いた条件だ。


「大膳大夫殿、余が話しても良いかな」

大輔大夫様の隣に腰掛ける将が口を開いた。殿上眉にお歯黒、丸に二引の陣羽織と来れば聞かずとも分かる。今川家の当主である参議様だな。治部大輔様という可能性もあるが、治部大輔様はまだ十代の後半のはずだ。見た目からして参議様で間違いない。

「おぉ、参議殿。何かあろうかな」

「うむ。此度の境じゃが、越後と信濃の国境としてはどうかな」

「ほぅ。越後と信濃の境とな」

参議様の問いに大膳大夫様が興味深そうに応じられる。越後と信濃の境だと?

「お待ち下さいませ。長尾は此度の戦に敗れた訳ではありませぬ。越後と信濃の国境としては善光寺平を明け渡す事になりまする。到底受け入れられませぬ」

「左様にございまする」

儂が語気を強めて意を主張すると、傍らの下野守殿も後に続いた。


「ハッハッハッ。面白い事を申すのう。長尾の兵は旭山城に攻め掛かって成す術もなく引き返したそうでないか」

参議様が扇子を口許に当てながら嘲笑を浮かべておられる。随分と強気のお考えであるようだ。豊かだとは聞いていたが、遠方の手伝い戦でも腰を据える気があると見える。今川の力を示すためだろうか。

「あれは武田勢の出方を探るための手出しなれば、敗れた訳ではありませぬ。我が方の士気は旺盛なれば、参議様の条件には応じられませぬ」

参議様の厳しい条件を受け入れる事は出来ぬ。大膳大夫様が静かな所を見ると、ここは参議様を説得する必要がある。弱みは見せられぬと思って見栄を切った。


"パチンッ"


参議様が大きな音を立てて扇子を綴じられる。先程まで浮かんでいた笑みが消え、厳しいお顔を見せる。

「……およそ戦とは、攻める力ある時は相手を攻め、攻める事叶わぬ時は守り、守る事も出来ぬ時は降るか華々しく散るものじゃ。それを貴公は和睦をしたいと申している。余の手元には三万にもなる血気盛んな兵がおってな。この者達に刀を抜かせぬのならば、それなりの条件が無くては受け入れられぬ」

参議様の目線が儂を捉えて離れない。涼しくなってきた時分だが、背中から汗が流れているのが分かる。ここで言い返しては文字通り決戦になる。参議様の仰せの通り、倍以上の敵に対して、かなりの血が流れるだろう。かといって儂の判断で承知は出来ぬ。


「某の一存では承知しかねまする。一度陣に戻って主に相談致しまする」

「それが良いじゃろう。何、ゆるりと考えるが良い。雪が深くなる前には返答をした方がよいと思うがの。大膳大夫殿もよろしいかな」

参議様が不敵な笑みを浮かべながら仰せになると、大膳大夫様が"うむ。構いませぬ"と応じられた。今川勢は越冬も辞さぬという事だろうか。いや、三万もの大軍を何ヵ月も動かし続ける等考えられぬ。だが参議様の姿勢が虚勢だとも思えぬ……。殿に何と報告したものか。頭の痛い悩み事だが下野守殿と考えながら帰るとしよう。




弘治元年(1555)十月下旬 信濃国水内郡長野村 大堀館 武田 晴信




近習が左馬助と刑部少輔の弟達の到着を告げたので人払いをして迎えた。すぐに陣幕に入ってきた二人に腰掛けるよう目線で促す。

「先程長尾勢が陣を引き払って行ったのを確認してございまする」

「今川勢も順に引き払っておりまする。旭山城の今川勢は既に全軍が山を降りて栗田刑部大輔の手勢が城に詰めておりまする」

「無事に長尾が退いて行ったか。今川はあの大軍だ。撤兵にはそれなりに刻が掛かるだろう」

儂の言葉に二人が大きく頷いた。


「しかし御屋形様、此度の今川様はよく目立ちましたな。あそこまでの大軍を動かすとは些か有り難迷惑にござる」

余程溜っていたらしい。左馬助が早くも今川に対する不満を話し出した。皆がいる前では流石に控えていたからな。今回の今川には儂も思う所がある。

「うむ。一万も出してくれれば和議は成立したはずだ。それを二万五千とはな。今頃長尾は武田ではなく今川に敗れたとでも思うておろう。参議殿は儂の顔に見事な泥を塗ってくれたわ」

「されど今川様のお陰で善光寺平は我が武田のものとなりましたぞ。おめでとうございまする」

信頼する弟二人との席だ。儂も左馬助に続いて本音を吐露すると、刑部少輔が間を持つように儂と左馬助を宥めている。


「刑部、その方は今川の肩を持つのか」

「その様な事を申してはおりませぬ。某は事実を述べたまでにござりまする。それに今川は盟約を結ぶ相手ですぞ。仮に肩を持ったとしても問題等ありますまい」

「口達者な奴よ」

左馬助と刑部少輔が言い合っている。刑部少輔はどちらかと言えば今川の事を親しく見ているからな。


「まぁ二人とも落ち着くがよい。刑部少輔の言う事も尤もじゃ。今川のお陰で信濃が武田のものになった」

「しかし、よくあの条件を長尾が承諾しましたな。今川の援軍もありましょうが、越前が揺れたことも味方したかもしれませぬな」

刑部少輔が不思議そうな顔を浮かべて話している。越前か。先月、長らく加賀の一向一揆を抑えて来た越前朝倉家の宗滴殿が亡くなった。加賀では早くも一向一揆が活発になっているようだ。長尾は越後に影響が出る可能性も考えたに違いない。

「そうだな。今回は我等に風が吹いたな。長尾が背に不安を感じている間に信濃を安定させよう」

「しかし信濃は手に入り申したが、変わりに先代より綿々と貯めた甲州金をほとんど失い申しました。先立つものがありませぬ」

左馬助が吐くように告げた。これは手痛い事実だ。今回の援軍に対する謝礼として今川と北條には蔵から甲州金を取り出して支払った。北條への謝礼は大したもの無かったが、参議と治部大輔への謝礼は大変だった。


「何とかするしかありますまい。それに金堀衆は人数を増やしている所でございますれば、また掘れば良いでしょう」

「刑部、金堀衆の数を増やしても金山が無くては限界があるぞ」

左馬助の言う通りだ。ここ最近金の採れ高が増えて来ない。今ある金山への増員、新たな金山の開発と出来ることをやってはいるが、採れる量は然程増えていない。

「今川は富士に赤石に金山を抱えておりますが、伊豆にも新たな金山を見つけて益々豊かになっているとか。羨ましい限りですな」

左馬助が狡猾な表情で話しかけてくる。儂をけしかける時の顔だ。


「三国で盟約を結んだばかりじゃ。此度も助けられた。今駿河を敵に回すのは得策ではない。相模も敵に回す事になる」

「それは分かっておりまする。何、あらゆる手立てを考えておくのが必要というだけでございまする」

左馬助の言葉を敢えて無視し、二人に背を向けて立つ。駿河か……。取れるものなら欲しいが、今は今川の力が強すぎる。無理だろうな。だが参議と治部大輔の関係が悪化してお家騒動でも起きれば分からぬ。此度も治部大輔が参議に気を遣っていたが、二人の間には僅かな溝があるように感じた。


勘助が暗躍している事はこの二人も知らない。

駿河……。フフフ、行かぬの。あれほど欲しいと思っていた信濃がこの手に入ると、すぐに次のものが欲しくなるわ。誠、人とは欲深いものよな。いや、欲深いのはこの儂か。



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