第八十四話 義元出兵




天文二十四年(1555)六月下旬 信濃国水内郡長野村 旭山城 長野 業正




「さぁ敵は退き始めたぞ。鉄砲隊だけに手柄を許すな!日頃の調練の見せ所ぞ。行くぞ!!」

「「おぉ!」」

開け放たれた城門から、儂に続いて騎馬隊が打って出る。騎馬隊の後ろには槍部隊が続く。鉄砲隊の攻撃によって退却をしようとしている長尾勢の様子をみて殿に追撃を具申した。援軍に来ない武田の様子を見て、押せる時に押しておいた方が良いと思ったからだ。殿も同じお考えだったようだ。深追いしない事を条件に認めて下さった。

騎馬隊や槍部隊の者達も血の滲む努力をしてきている。少しは花を持たせてやらねばならぬ。


我等の追撃を受け、辛うじて隊列を組みながら退却をしていた長尾勢が総崩れになる。それでも容赦の無い厳しい追撃を続けていると、敵の新手が見えた。勢いを止めるには新手を出す方が良い。流石は戦上手と名高い長尾よ。これだけ新手が早いということは、鉄砲の音が聞こえると同時に用意していたのかも知れぬ。


「信濃守殿っ!」

「これは伊豆介殿!如何されたっ」

敵の新手に対してどうしてくれようか。ここで引こうかと思案していると、荒鷲の棟梁である狩野伊豆介殿から声が掛けられた。馬を駆けて来たようだ。

「見ての通り長尾が新たに兵を差し向けて来ている。これ以上は危険にござる。引き際でござろう」

「某もそう思っていたところにござる!こちらが背を取られぬよう態勢を整えたら頃合いを見て兵を引こう」

「それがよろしかろう。敵の新手も勢いをよく見ている。こちらが隙さえ見せなければ、今日の所は戦が終わるでござろう」

ほぅ。新手の将は思慮深いのだろうか。荒鷲は何か把握しているのかも知れぬ。

「新たに来た敵の将はお分かりになるか」

「斎藤下野守という弾正少弼殿の近習にござる」

「斎藤下野……聞いた事がある名でござる」

「弾正少弼殿が頼りにしている者のようでござる。それに新手の兵達はよく率いられた者達のようで」

「引き際でござるな。相分かり申した。敵の反攻を受ける前に城へと引き換えそう」

儂が撤兵を示唆すると狩野伊豆介殿が大きく頷いた。

既に長尾の兵を十分に叩いたと言えよう。下手にこれ以上追撃して深手を負うのは避けたい。


「者ども引けぇぃ」

儂が撤兵を命じると、家臣の藤井豊後守が陣内を巡って兵に伝える。兵達も横に命を進んで伝えている。改めて動かしやすい兵だと感じた。




天文二十四年(1555)九月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 朝比奈 泰能




「甲斐の大膳大夫殿から援軍を求める書状が届いた。今武田は善光寺平で越後の長尾と戦っておるが、川を挟んで対峙していて膠着状態となっているらしい。このままぶつかっても互いに兵を失うだけになる。そこで大膳大夫殿は余に助力を乞うてきた。余は大膳大夫殿の要請に応じて兵を起こそうと思う。遠江から一万と二千、三河から一万と三千、合わせて二万五千の兵を持って信濃へ赴く。思うところある者は存念を申せ」

二万五千……。御屋形様は随分と大軍を動かされるおつもりの様だ。広間には府中在住の重臣やこの軍議のために呼ばれた尾張や三河で役目をこなす将が詰めているが、御屋形様が仰せになった兵の多さに皆が息をのんでいる。

「御屋形様が御出陣遊ばされれば、形勢は御味方に一気に優位となりましょう。いかに戦上手と聞く長尾とて鎧袖一触にござる。ここは今川の力を見せつける良い機会と心得まする」

「お言葉ではありまするが、三河の坊主どもが燻っておりまする。兵を出すことを止めは致しませぬが、余り大軍を動員するのは如何かと存じまする」

飯尾豊前守殿が御屋形様に同調して鼻息荒く出兵を促すと、松井兵部少輔が御屋形様に自重を求めた。儂も声にはせぬが兵部少輔に賛成だ。雪斎殿が隠居した事を受けて三河の国人や坊主に不穏な動きがある。既に織田に内通して今川に反旗を翻している者達もいる。

御屋形様にはお伝えしておらぬが、最近三河では御屋形様を謗る声も出ているらしい。"今川は治部大輔の今川であって、参議は飾りに過ぎない。雪斎という飾り付けの職人がいなくなって恐れるに足らず"とな。


この様な報告等出来るはずが無い。雪斎殿ならばどうしただろう。儂と同じく筆頭家老の席に座する三浦左衛門尉殿の顔を見る。左衛門尉殿も儂と同じ意見であろうが、直接御屋形様に反論は出来かねているようだ。今回の話はどちらかと言えば軍略だな。であれば儂が言わねばならぬか……。やれやれ、胃が痛んだ気がした。

「御屋形様、某も兵部少輔の具申に同意致しまする。三河が揺れている上、我等の敵は尾張にございまする。手伝い戦に余り力を入れるのは得策ではありませぬ。角が立たぬ程度に出兵すれば宜しいかと」

儂が具申をすると、御屋形様の視線が儂へと寄せられた。流し目で見られただけだが、突き刺さるような目だ。筆頭家老の儂が仲裁でなく反論したことを咎めておられるのやも知れぬ。背中がぐっしょりと汗で濡れているのが分かる。顔からも汗が吹き出る。思わず御屋形様に正対して頭を下げた。


「三河で一部の者どもが織田に鞍替えしたのは知っている。坊主が不穏な動きをしていることもな。だからこそここは大軍を動員して我が今川の力を示すのが大事だと思うのじゃ。それに我が今川の力を信濃で見せることで武田との盟約も強固になる。武田は間違っても今川を敵にしようとは思わないだろう。背を取られる事が無くなると言う事だ。今川の武威をここまで示しても三河が揺れるのであれば、信濃出兵の後に征討すれば良い」

「武田家に対する御屋形様のお考え、いやはやごもっともにございまする。なれどここは備中守殿や兵部少輔殿の申す通り、三河からの動員はお避けになった方が宜しいかと存じまする。遠江からの兵だけでも十分な兵力になりまする。どうしても二万を超える兵が必要ならば、駿河伊豆からの動員が宜しいかと考えまする」


御屋形様があくまで大軍で出兵するご意向を話されると、鳴海からこの軍議に駆け付けた岡部丹波守が兵部少輔の後押しをした。尾張攻めの最前線にいる者として、三河の動揺には不安があるのだろう。

「駿河からは既に若殿が兵を率いて御出陣されている。此度は御屋形様が御自ら御出陣遊ばされるのだ。されば三河と遠江から兵を集めて御出陣遊ばされる事が肝要でござろう」

豊前守殿が御屋形様の背中を押すような意見を述べる。豊前守殿は織田上総介に奇襲を受けて村木砦を失っている。その失態を埋めようと御屋形様に迎合している感がある。豊前守殿の言葉に御屋形様がゆっくりと頷かれた。


「皆分かっていると思うが、駿河と伊豆は治部大輔の領国になる。治部大輔に任せた以上、余が恣意的に動かす訳には行かぬ。なればこそ遠江と三河から動かす必要があるのだ。丹波守が申す、遠江の兵のみで出兵すべしとの具申もよく分かるが、大軍を動かしてこそ越後の長尾も甲斐の武田も我が今川に一目を置き、此度の戦も早く終わるはずだ。それに今川は既に治部大輔が四千を動かしている。大膳大夫殿は余が送る兵は精々一万程度を見込んでいよう。二万を超える兵を動かさば、肝を冷される事間違い無しじゃ。これは長尾とて同じよ。拮抗している所に二万五千の新手が現れては戦いたくも戦えまい」

「御屋形様、恐れながら」

「兵部少輔、その方の具申、この義元よく承知した。信濃出兵の後は三河の治世に今まで以上に骨を折るとしよう。それでよいか」

「……はっ、」

兵部少輔が硬い表情で頭を下げている。御屋形様にあの様に言われては承知せざるを得ない。仕方がない。後で兵部少輔の部屋を訪ねて話をしよう。左衛門尉殿も連れていく方が良いな。府中方で出来ることがあれば支援せねばならぬ。また胃袋がしくしくと痛み出した。歳のせいだろうか。この大事な時に我が身の情けない事よ。




天文二十四年(1555)十月上旬 駿河国安倍郡府中 長慶寺 松平 元康




「おぉ元信、いや、元康であったな。雪斎の容態はどうじゃ」

寺にお越しになられた御屋形様と顔があったかと思うと、私の名を間違えてお呼びになった。まだ新たな名に慣れて頂けていないようだ。先月、祖父にあやかって名を変えたいと御屋形様に申し出たところ、元康という名を頂いた。前の名も良い名であったが、今川の重臣の一部に、織田上総介殿の名からとったのではないかと揶揄する方々が見えた。御屋形様が下された名だと言うのに心無い事を言うものだ。松平を大きくされた尊敬する祖父の名をつけて頂けたのは有り難い。今まで以上励んで参ろう。

「お部屋でお休みになられております」

「左様であるか。お主から見て最近の雪斎はどうじゃ」

御屋形様が御師匠様のお身体を心配されている。心の内側があまり分からぬ御屋形様ではあるが、御師匠様の事となると本当にご心配されているのだと感じる。

「よろしくありませぬ。ここ数日は寝込んだままの事が多く、お食事もあまり喉を通っておりませぬ」

「……そうであったか。寺の者からその方が献身的に支えてくれていると聞いた。礼を申すぞ」

「いえ」

御師匠様は私にとって最大の恩人である。家臣達には人質生活を嘆く者もいるが、御師匠様のお陰で府中での生活は得難いものとなっている。まつりごとから軍学まで幅広く教えて頂いた。


「こちらにございまする」

御屋形様を御師匠様が横になっている部屋にご案内すると、御屋形様が御師匠様の傍らにお座りになったと思えば、手を取って静かに握られた。


何となく席を外した方が良いと感じて部屋の片隅に下がっていると、しばらくして御屋形様の声が聞こえて来た。

“雪斎、何時ぞやその方が申していた通りになった。長尾と武田は決着が付かず、大膳大夫が余に助けを求めて参った。これより信濃へ行って参る”

“なんじゃ。瞑想か?何か申せ……”

“思えば二人で京を出てからは走り続けてきたのう。休む間も無かった。ゆっくり、ゆっくりと休むが良い”


御屋形様の立ち上がる足音が聞こえると、頭を下げて控える。

「留守の間雪斎を頼むぞ」

「ははっ」

頭を下げたまま応じると、御屋形様が足早に去って行かれた。

関口刑部少輔殿にお聞きしたところでは、二万五千を超える大軍で信濃に向かわれるとの事だ。武家だけでなく町民までもが勝ち戦に違いないと浮かれている。これも刑部少輔殿にお聞きした話だが、越後勢は一万五千程らしい。北信濃での戦いは御屋形様の参陣によって大きく動くだろう。問題は三河だ。国許からの知らせでは、三河の状況は芳しくない。今川の武威で鎮まってくれるのならば良いが……。


“うっ、うぅっ”

御師匠様が辛そうに呻き声を上げている。手ぬぐいで額に浮かんだ汗を拭って差し上げた。

三河で不穏な動きが収まらない一つの要因は御師匠様の不在だが、御師匠様はしばらくこの長慶寺から動く事ができていない。三河を治めるにあたって重要な箍となっていた御師匠様が隠居し、瞬く間に緩み始めている。そして最近では隠居はただの隠居ではなく、容態が優れない事も知られつつある。


“ゴロゴロロロゥ”


さっきまで明るかった辺りが急に暗くなったかと思うと、稲妻が光り出した。空気が湿ってきている。すぐに秋雨が降るかもしれない。何となく感じていた胸のざわめきと重なった。



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