第八十三話 第二次川中島の戦い
天文二十四年(1555)五月下旬 信濃国水内郡長野村 旭山城 今川 氏真
第二次川中島の戦いは静かに始まった。
四月末に善光寺平へと到着した長尾勢約一万三千は、長尾に服属している国人を吸収して一万七千程に膨らみ、善光寺周辺に本陣を設けて暫く様子見をした後、犀川まで南下して川を挟んで武田勢と睨み合った。長尾勢の一部が渡河して武田勢に攻めかかったが、武田大膳大夫晴信は、“動かざること山の如く”で渡河仕返して反撃する様な素振りは微塵も見せなかった。
ここまでは長尾景虎も予想通りだったのだろう。武田勢の守勢を見るや、本隊を犀川北に置いて別動隊をこの城に仕向けて来た。こうなると普通ならば、武田としては旭山城に向けて援軍を出すか、本隊を動かして長尾と決戦することになる。
だが、晴信はどう動くか。俺の予想は"動かない"だ。
荒鷲から長尾勢が別動隊を仕向けてこの城に向かっていると報告を受けたが、武田の本陣には動きが無いとの事だった。遠方から来ている友軍に対して援軍を出さないというのも中々だよな。俺なら援軍を差し向けてしまうかも知れぬ。神経の図太さ、狡猾さは学ばねばならんな。
"ワーッッ"
"かかれぇ"
考え事をしていると、喧騒が増してくる。昨日までの霙がかった雨が上がり、清々しく晴れ渡った青天の中、長尾の軍勢が城に向かって攻めかかって来ている。見たところ七、八千といったところか。面的に仰々しい攻め方だ。大方、姦しく攻めて武田の焦りを誘おうとでも思っているのだろう。
そうだよな。普通の将なら救援に向かうと思うよな。何たって味方の見殺しは士気を大きく下げるからな。それに今旭山城は補給路も絶たれている。苦しむ味方を放っておくのは軍全体の士気に関わる。だがあの狸は今川の救援のために兵は動かさないだろう。長尾は知らないだろうが、俺には四千の兵に加えて膨大な糧食もある。無理をしなくても良い状況だと言うのを晴信は知っている。物資がある中で守るのならばそれほど難しい局面ではない。
城の改修で作った狭間から鉄砲隊が火縄銃を構える。戦上手と呼び声高い長尾の尖兵だ。精鋭中の精鋭が来ているのかも知れない。雄叫びを上げて意気軒昂に突撃をしてきている。まだだ。もう少し引き付けろよ……。
"まだじゃぞ。今少し控えよ"
井伊彦次郎が火縄銃を構えている者達に指示を伝えている。いいぞ。その通りだ。彦次郎に率いられた府中親衛隊の鉄砲隊の兵達を眺める。本格的な実戦は尾張以来か。伊豆の坊主どもを鎮圧する時も何度か実戦があったか。だが鉄砲をここまでたくさん使うのは初めてだな。徹底した軍事教練のお陰か兵達に乱れはない。
"うぉっ"
"なんじゃこれはっ!"
城壁の手前に掘った落とし穴に長尾の先陣が躓いた。一度崩れた突撃体勢は止まらない。後ろの兵達も続いて態勢を崩している。良い頃合いだ。
「彦次郎っ!」
俺に名を叫ばれると、彦次郎が"はっ"と素早く応じて鉄砲隊に向かって号令を掛け始めた。
「一番隊!!撃ち方始めぇっ!」
"ズダダダダァーンッッ"
彦次郎の号令が聞こえたかと思うと、すぐ後に耳を
"ぶはぁっ"
"ぐおぅっ"
長尾勢の方を見れば、落とし穴に躓いている最前列の者達に被害が出ている。弾が当たった所を押さえる者、口から鮮血を流している者等様々だ。
だが流石は長尾の兵達よ。多少の動揺はあるようだが、後続が突っ込んでくる気配が見せている。来るか?来た!
「結構倒れたな。だが敵は引き続き来るようだ。良いぞ、このまま撃ち続けよ」
「かしこまってござる。一番隊は下がって装填準備、二番隊は構え」
彦次郎の指示で鉄砲隊が機敏に動く。一番隊が撃っている間後ろに控えていて準備万全な二番隊が銃口を構える。
「撃ち方始めぇっ!」
"ズダダダダァーンッッ"
再び凄まじい砲声が轟いたかと思うと、意気軒昂に突っ込んで来ていた長尾勢の多くが倒れた。間髪を入れない二発目に驚いているのだろう。流石に突撃の勢いが失われている。あれは……、目に弾が当たった者がいるようだ。一際大きな呻き声を上げながら藻掻き苦しんでいる。見るに堪えない光景だが、苦しみ続けてくれる事で周りにいる敵の士気を下げてくれるはずだ。目の前で広がる景色に気分を害しそうになったが、司令官が怯んだ姿を見せる訳には行かぬ。努めて無表情を装った。
「これは何というか阿鼻叫喚だな。だが手を緩めるで無いぞ」
俺が凄惨な長尾勢の様子を呟くと、彦次郎が苦笑いを浮かべながら大きく頷いた後、兵達に指示を出し始めた。
「何だ。何かあるか」
「いえ。何でもありませぬ。冷静沈着な殿のお姿を見て、頼もしゅう思っただけでござる。三番隊、撃ち方始めぇっ!」
"ズダダダダァーンッッ"
彦次郎の指示を受けて三番隊が砲弾の雨を降らせる。
三番隊が撃ち終わった後はまた一番隊だ。速やかに入れ替わって銃を構えて……撃つ!
何度か繰り返す内に辺りには地獄絵図が広がっていた。前世では映画の中でしか見たことのなかった世界が目の前に広がっている。
四半刻経ったかどうかという頃に長尾勢が退却を始めた。降り注ぐ砲弾の嵐に対して挑み続けた方だろう。だが、結局城門までたどり着いた長尾勢は現れなかった。一人だけ惜しい兵がいたが、あと一歩のところで鉄砲隊から蜂の巣にされて息絶えた。
戦闘が終わった城内に静寂が訪れる。完全な大勝利だが、余りにも大きな勝利過ぎて皆が言葉を発せずにいるのかも知れない。狭間から長尾勢の行方を追うのを止めて城内へと視線を移す。すると、親衛隊の兵達が銃を下ろしてローマ式の敬礼をし始めた。あ、これも俺が教えたやつだな……。親衛隊の将兵は兵学校で学んだことを忠実に行っている。子供の頃に見た映画を思い出すな。ベン・◯ーだったかな。いや、鷲は舞い降◯たかも知れない。似たようなシーンが合った気がする。
自分で蒔いた種だ。ここは応えなければいけないな。
「その方らの勇戦力闘によって大きな勝利を得ることが出来た。これは親衛隊の歴史だけでなく今川の歴史に残る勝利となるだろう。ジークハイルッッ!!」
「「ハイル!」」
右手を伸ばしながら腹から声を出すと、将兵の呼応が辺りに大きく木霊した。
天文二十四年(1555)六月上旬 信濃国水内郡長野村 大堀館 武田 晴信
「凄い雨じゃの。これでは戦にならぬ」
「川の水も増えておりますれば、戦は難しゅうございますな。しかし兄上、わざわざ濡れに行かずともよろしいものを」
左馬助が顔に付いた水飛沫を鬱陶しそうに払いながら呟くと、刑部少輔が縁側から左馬助に声を掛ける。梅雨の時期だ。これからは雨が多くなる。
「何を申すか。兵達はこの雨の中で敵の動きを警戒し、戦に備えておる。儂だけゆるりと館に籠っているわけには行かぬ」
「左馬助、良い心がけじゃな。その方が」
"申し上げます"
左馬助の話に付き合おうとしていると、伝令役が駆け寄って来た。
「何事ぞ」
「はっ。長尾勢に動きがありまする。六千程の部隊が旭山城に向かっておりまする」
「あい分かった。下がってよいぞ」
「は、ははっ」
儂が迷いも見せずに下がるように申すと、伝令役が少し言い淀んでから下がっていった。応戦の指示でもあると思ったのだろう。
「この雨でございまする。鉄砲が使えぬと睨んでいるのでございましょう」
「刑部少輔の言うとおりだな。弾正少弼は恐らくこの雨を好機と捉えて兵を差し向けたのだろう。治部大輔殿がどう出るか見物よな」
「ハハハ。兄上もお人が悪うございますな」
「これ左馬助、人が悪いとは何じゃ。儂は適切な場所に適切に人を配置しているだけじゃ。先の戦いでも今川殿に被害は一兵も出ていないと言う。六千程ならば治部大輔殿の兵で守れるじゃろう。長尾は我等に揺さぶりを掛けたいだけじゃ。城を落とすつもりまではあるまい」
「確かにその通りですな。鉄砲が使えなくともあれだけの兵があれば弓と槍で防げましょう」
「左様。儂は適材を適する場所に置いているのじゃ。分かったか」
「はっ。御屋形様の軍配にこの左馬助、恐れ入りました」
左馬助が茶目っ気たっぷりに応じる。
しかし今思い出しても身震いがする。長尾勢が旭山城に向かったと聞いた時、手勢を差し出すか思案をしていた。形だけでも兵を出すことで上がる士気、下がらぬ士気がある。
だがその懸念は杞憂だった。しばらくすると、旭山城の方向からけたたましいまでの轟音が聞こえて来た。治部大輔の部隊が持っていた鉄砲が火を吹いたのだ。驚いたのはそれだけではない。ほとんど間断なく砲声が轟いた事だ。治部大輔は千丁程の鉄砲を持っていたはずだが、上手く使い分けて間断なく撃ち続けたようだ。精鋭を誇る長尾の兵達も流石に耐え切れなんだか、半刻と持たずに撤退が始まった。
旭山城での戦の後は十日ばかり睨みあいが続いていたが、昨日から雨が降り始めた。今日に至っては朝から土砂降りだ。このような天気の時はじっとしておくに限るが、長尾勢はこれを好機と捉えたらしい。確かに鉄砲は雨では使えない。だが梅雨の時期が来るのが分かっていてあの治部大輔が無策に時を過ごしていたとは思えぬ。何か対策はしているだろうが……。
"ズダダダダァーン!"
「おぉっ」
「またあの音ぞ!」
旭山城の方向から再び聞き慣れた轟音が轟いた。雨の中でも轟く音に陣中の将達も驚いている。
「御屋形様、豪雨でも今川様には関係無いようでございまする」
左馬助の言葉に陣中の将達も頷いている。
「うむ、そのようだな。この分なら援軍は必要あるまい。我等はこの本陣でどっしりと構えておくとしよう」
「「ははっ」」
相変わらず凄まじい音だ。雨音に消される事無く大きな音が本陣にも届いている。この様子では長尾勢の旭山城攻めは早晩失敗するな。問題はその後の長尾がどう出るかだ。傷付いたとは言っても、まだ兵力は我が方が少し優位になった程度だ。この状態では正面から当たっても被害が大きいだろう。向こうが善光寺周辺まで本陣を下げるなら睨み合いが続く事になる。となると心配の種は兵糧だけだな。あと二月分はあるが、その後は今年の刈り入れ次第だ。長尾がどのように考えているか草に探らせよう。直江津の荷の動きも確認させなければならないな。
それからこの本陣に少しずつ広がっている厭戦気分をどうするかだな。此度の戦で戦っているのはほとんど治部大輔だけだ。我が家臣達が自分達にも見せ場が欲しいと痺れを切らしそうな節がある。無理して戦って大事な兵を失わなくとも良いということを分かって欲しいものだが……。まぁ今回の北征で少なくとも犀川以南は武田の領土になる。新たに手に入れた所領を論功行賞する事で士気を維持すれば良い。問題があるとすれば今川への謝礼だな。これは頭の痛い悩み事よ。
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