第八十二話 竹千代元服
天文二十四年(1555)二月下旬 信濃国水内郡長野村 旭山城 今川 氏真
“カァーン、カァーン”
“おいさっ、ほいさっ”
あちらこちらで威勢の良い声がしている。
作業に従事している人夫の多くが、身体から蒸気を昇らせながら作業に勤しんでいる。
「極めて順調ですな」
作業の進捗を見て井伊彦次郎が呟くと、隣の狩野伊豆介も頷いて応じている。
総大将である武田晴信の判断で、善光寺平の長尾寄りな国人達には旭山城と栗田城へ兵を置いて圧力を加え、頃合いを見て降伏の勧告を行う事となった。今のところ戦になる気配も無ければ国人達が降伏する気配も無い。長尾の援軍が来るまで状況は変わらないだろう。春先までは奴等も頑張るはずだ。
と、なるとだ。俺としては出来る準備をしておくべく城の改修に着手している。
まずは防壁の強化と雨避けの建設だ。この時代の城は城と言っても砦に近い。というか城と砦の違いって何だろうな。軍事拠点だけなのが砦で町人を抱えるのが城か?となると城下町を持つか否かか?意外と知らなかったな。
太い木で柵を設けた程度の、防柵と呼んで差し支えない城の周囲を文字通り城壁にしていく。突貫の簡易工事だが攻めにくくはなるだろう。それに合わせて雨天でも射撃が出来るように雨避けの屋根も設けていく。狭間も多めに作らせている。少し余裕が出来たら櫓も作ってしまおう。見た目にも相当な圧迫になるはずだ。
石を運んだり木材の伐採、運搬といった単純だが労力のかかる作業には地元の百姓を動員している。ちょっと銭を奮発してやったら目の色を変えて作業に勤しんでくれている。元々寒さが農作業を許さない時期だ。手持ち無沙汰な民草は給金を貰える力仕事に喜んでいる。
あまりにもよく働くので、積み荷から駿河の清酒を少しだけ分けてやった。余程旨かったらしい。もっとくれと尚励むようになった。折角働いているのだ。手元に銭がしっかり残る程度にだけ酒を売ってやっている。
「蔵の建設も滞りなく進んでいるようだな」
「はっ。簡単な蔵ですから何年も長持ちするものではありませぬが、その分直ぐに出来ましょう。来月中頃には出来まする」
彦次郎の弟で輜重方を勤めている平次郎が応じる。
城壁の強化のために伐採を行い、新たに空いた場所には蔵を建設している。完成の暁には何棟も建ち並んでちょっとした湊町のように見えるかも知れない。木造突貫工事の簡素な蔵だが、次の冬を越すくらいは出来るだろう。
「うむ。ちょうどその時分に富士方面から大宮司の部隊が兵糧を運び入れに来るはずだ。長尾の着陣がどうなるか分からぬが、最悪の場合この城は孤立する。その方の差配に俺の命も兵の命も掛かっている。頼むぞ」
平次郎の顔を見ると、真剣な眼差しで感極まったように頷いた。兵糧の管理や補給は、槍働きの様に目立たないが、極めて重要な仕事だ。むしろ籠城の可能性が高い中、今もっとも大事な仕事と言えるかも知れん。大事な仕事を勤める者を認めて正当に労う。うん、大切だよな。
少し歩いて三ノ丸に向かうと、練兵を終えた兵達が小休止している所だった。俺の姿を見て敬礼をしてくる。府中親衛隊の兵だな。
休憩時間だというのに、木刀で稽古をしている者がいる。まだ寒いからな。身体を動かしている方がいいのかもしれぬが真面目だな。
「其処の者。手合わせ願えるか」
俺が言葉を掛けると、まだ青年になったばかりといった若い兵が緊張したような、だが嬉しそうに"はっ"と応じた。
互いに木刀を構えて向き合う。
緊張をしているのだろう。若い兵は構えたまま向かって来ない。"よいぞ。いつでも掛かって参れ"と声を掛けると、大きな掛け声と共に踏み込んで来た。先程見えていた剣筋でもそうだったが、まだ真っ直ぐな剣だ。筋は悪くないが分かりやすい。軽くいなすと今度はすれ違い様にまた踏み込んで来た。これも払いのけてそのまま胴に一太刀浴びせる。
「大事ないか」
「はっ。問題ありませぬ」
若い兵が少し苦しい顔を浮かべながら応じている。
「筋は悪く無い。引き続き励め」
「はっ!ありがとうございまする」
剣筋を褒めると嬉しそうな顔を浮かべて敬礼をしてくる。受け礼をしてから歩き出す。
「お見事でござりますな」
近習達がいる方に向かっていくと、対戦を見ていた信濃守が笑みを浮かべながら呟いた。
「それなりに鍛えているからな」
「某とも一手願えまするか」
「信濃守と?」
「はっ。殿の剣を見ていたら某も一戦お手合わせ願いたくなり申した」
「で、あるか。構わぬが信濃とは初めてだな」
「はっ」
「お手柔らかに頼むぞ」
「手を抜いて勝てる相手ではござりませぬ。本気で行かせて頂きまするぞ」
俺が笑いながら話すと、信濃守が先程までの柔和な表情を消して真剣な面持ちで構えた。
伝わってくる覇気が違う。
卜伝師匠と対戦した時の空気に似ている。
多くの将兵が見ている前だ。恥じぬ戦い振りをせねばならぬ。
雑念を消して正眼に構えた。
天文二十四年(1555)三月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 義元
目の前に座する竹千代の頭に烏帽子を置いて紐を結わえる。
当主の席に戻って腰を掛けてから面を上げるように伝えると、竹千代が顔を上げて応じた。もはや子供ではない。凛々しい顔をした男の面構えになっていた。
「うむ。これよりその方は竹千代改め松平次郎三郎元信と名乗るが良い」
「はっ。御屋形様のご厚情によりこの次郎三郎元信、この度元服する事が出来ました。より一層今川の御ため、御屋形様のために励む所存にございまする」
次郎三郎が大きな声を上げながら口上を述べると、家臣達も元服を祝うように笑みを浮かべた。
「次郎三郎には余から太刀と脇差しを与える。励め」
「ははっ。ありがたき幸せにござりまする」
余が刀を授けると、次郎三郎が恭しく受け取った。予想していなかったらしい。嬉しそうな表情をしている。
元服式に向けて気負っていた所もあるだろう。少し肩の荷が降りたようだ。だがこの後起こる事にはどの様な顔をするかの。
家臣達が座っている方を見ると関口刑部少輔と顔が合った。余の顔を見てゆっくりと頷いている。
「次郎三郎」
「ははっ」
余に名を呼ばれて次郎三郎が深々と頭を下げている。
「元服を機にその方に嫁を遣わす」
「嫁、でござりまするか」
次郎三郎が面を上げていささか面を食らったような顔をして応じる。
「左様。その方には我が一門にあたる関口刑部少輔の娘、瀬名を遣わす。夫婦になるのはまだしばし先で良いがそのつもりでおるが良い。それに瀬名は余の養女として次郎三郎に遣すこととする」
"おぉ!"
"なんと"
重臣達が驚いた後、目出度いと祝いを述べ始める。
"これは目出度い"
"刑部少輔殿もおめでとうございまする"
三國同盟で後顧の憂いは絶った。今川は西へ向かう。その入口にある三河を抑えるために松平を一門化する。古参の家臣達は思うところある者もいるかも知れぬが、表だって余に抵抗できる者はおらぬ。尾張を落としてその先に向かう頃には些末な事になっているはずだ。
「雪齊は何と申しておった」
家臣達に囲まれて祝いを受けている次郎三郎を見ていて恩師を思い出す。
「はっ。元服を目出度いと仰せ頂いた後、一層今川への忠節に励むよう仰せでありました」
「そうか。雪齊の体調は相変わらずの様だが、我が子の様に可愛がっていたその方が元服を無事に迎える事が出来て嬉しいだろう」
「我が子等と……。恐れ多い事にございまする。禅師には治部大輔様という一番弟子もおりますれば」
フフフ、次郎三郎は中々謙虚で機嫌取りが上手いな。謀が出来るようになれば大きくなるかもしれぬ。
「治部大輔は可愛げの無い弟子であっただろう。その点、雪齊はその方の事を常に気に掛けているように見える。まぁよい。雪齊も三河から来ているその方の近習らも、その晴れ姿を見るのを今かと待ち望んでいるだろう。許すゆえ行ってやるが良いぞ。輿入れの事は追々話す事としよう」
「はっ。ありがとうございまする」
天文二十四年(1555)四月上旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 長尾 景虎
「武田勢は兵力一万で犀川の南側にあたる大館城に本陣を置き、約三千ずつ旭山城と栗田城に手勢を置いて善光寺方面に圧迫を掛けておりまする。特に山上の旭山城は昼夜音をたてて改修を試みている模様なれば、善光寺方面で構える味方からは目障りなものかと」
「平野を見下ろす点でも北西方面との連絡を取られる拠点という点でも目障りな存在だな」
直江大和守が図上に扇子を当てて動きを説明すると、柿崎和泉守が呟くように応じた。
「和泉守の言うとおりだ。善光寺平の北西には今回武田に靡いた栗田刑部大輔の所領にあたる戸隠神社がある。旭山城は戸隠神社とも連携を取れる上、犀川方面に南下すれば我らの横っ腹をつついて来る面倒な存在になっている」
儂が話すと、すぐ脇に控える本庄美作守がゆっくりと頷いた。
「我らは間もなく出陣するが、先だって葛山城を改修しておくようにせよ。多く兵が詰められるようにな。それと葛山城の北側に付け城を築く」
「それは良きご思案にございまする。我らも善光寺平を見下ろす城を持つことで威光を知らしめる事ができまする。それに付け城を持つことで戸隠方面との連絡はおよそ遮断され、旭山城の存在は形骸化しますな」
軍学の師である美作守が儂の見立てを褒めている。美作守は是々非々で語る事ができる信頼できる家臣だ。
「出陣は十日後とする。越後からは一万三千程率いていく。揚北に対する抑えも必要ゆえこの程度がよかろう。それに信濃衆は三千程になる。兵力では武田と互角になるはずだ」
「殿の仰せの通りでございまする。後は武田勢と如何に戦へと持っていくかが肝要にございまする」
美作守が含みのある言い方をする。武田は我等の本拠地が雪で閉ざされるゆえに決戦を避けて我慢比べする可能性がある。美作守はそこをどうするのかと言いたいのだろう。
「二つの城で背を固める事で我らは南下が出来る。栗田城を攻め落とし、犀川を挟んで武田と対陣しよう。その時旭山城は孤立する事になる。さすれば武田は味方を救うために川を渡らねばならなくなるだろう。そこで決戦となる」
「「ははっ」」
儂の言葉に皆が頭を下げた。
武田大膳大夫……。前回は我等との戦いを逃げるように避けていたが此度はそうはさせまい。戦わざるを得ない状況にして必ずや粉砕してくれる。
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