第八十一話 信濃出兵




天文二十四年(1555)一月中旬 駿河国富士郡 富士山本宮浅間大社 今川 氏真




二拝二拍手して手を合わせたまま祈る。

怪我無く、無事に、勝利、帰国……ちょっと欲張り過ぎかな。

願い事を終えて最後に一礼をする。


本殿を下がろうとすると、皆が不思議なものを見たような顔をしている。つい前世の癖が出たな。確か二拝二拍手一礼が出来たのは明治になってからとテレビで見たような気がする。

まぁいい。余り聞いてくれるなとばかりに険しい顔をしておこう。


「しかしまた、大層な量の兵糧ですな」

輜重車に積載された兵糧を見て、浅間大社の大宮司である富士兵部少輔が感嘆の声を出している。俺の直臣になったとはいえ歴史ある神宮の由緒ある宮司だ。それなりに気を使って扱っている。大宮司もそれを感じているからか、武田の動きや富士郡での荷の動きを逐一俺に報告してくれている。良い関係を築けているな。


さて、我が手勢の荷に驚いた大宮司だが、それもそのはずだ。今回の出陣にあたっては四千の兵が半年間は食える量を用意した。こんなに量が多いのかと命じた本人が驚いた位だ。お陰で四千の兵がいても千人近くが荷駄の輸送に人をとられている。


「今回の戦は長引くかも知れぬ。腹が減っては戦は出来ぬからな」

「それは分かりますがここまでとは……。いやはや、この兵部少輔恐れ入りました」

「これだけでは足りぬ可能性もある。その場合は大宮司に兵糧を融通してもらうぞ」

「これだけ用意しても足りないのでございまするか!?いったい殿は此度の戦が如何ほど続くとお考えで?」

大宮司が驚いた顔を浮かべて尋ねて来る。

「俺の読みでは越後から長尾が援軍にやってくるはずだ。長尾も武田も今回の戦に駆り出す兵力はかなりの数になるだろう。互いにぶつかれば損害が大きく出るのは分かっている。となれば様子見で時が経つのを待ってもおかしくは無い。そうだな、半年かそれ以上……長ければ一年になるかもしれぬ」

「一年!そうするとこの倍の兵糧が必要ということでございまするか」

「で、あるな。我が軍だけでないぞ。兵糧が必要なのは武田も同じよ」

俺が唆すと大宮司が商人の様な顔付きになる。大宮司は神官としても武士としても商人としても優秀なオールマイティー人材だ。

「某が利を得てもよろしいのでしょうか」

「構わぬ。その代わり兵糧の補給は恙無く頼むぞ」

「必ずや」

大宮司が真剣な眼差しで頷いている。確か俺の記憶が正しければ、今回の戦いは二回目の川中島になる。両軍決め手を欠いて睨み合いが長らく続き、最後は今川義元の出兵と和議斡旋で終わるはずだ。この戦に氏真が参加したかどうかまでは分からない。

今回俺が率いる兵力は四千だ。援軍として出すには憚り無い兵力を可能な限り集めた。武田からしてみれば心強い数になるが、大勢を決める程の数ではない。もし史実をなぞるなら睨みあいが続く長期戦になる。そういえば荒鷲の報告では北條からも二千程援軍が来るらしい。北條からの援軍は気持ち少なめだな。盟約を結んだばかりだからか、関東の各所で戦っていて余裕も乏しいからか、多分両方だな。


大宮司の案内に従って進んでいくと、境内の中にある本殿の一室に案内される。

いつもなら静かな聖域の一室である場所にぞろぞろと鎧を纏った武者が詰めている。上座に用意された床几に腰を掛けた。

吉良上野介と狩野伊豆介に始めるよう下知すると、二人が粛々と盤図の準備を始める。信濃、甲斐、駿河、相模の地図が描かれた大きな紙が広げられ、その上に軍勢や城を示す駒が置かれる。

駒の設置を終えて全体を俯瞰出来るようになった後、上野介がこの後の方針を話し出した。


「これより我が軍は甲州往還を北上して甲斐へ入る。久遠寺へ着到の後はそのまま北上し、信濃の葛尾城を目指すこととする」

「躑躅ヶ崎館にはよらぬので」

庵原安房守が不思議そうに尋ねてくる。皆には武田本隊との合流地点を伝えていなかった。武田の居城に寄らなくていいのかと思うのは普通の事だ。


「大膳大夫殿からは葛尾城にて合流したいと知らせを受けている。葛尾城に行くのなら躑躅ヶ崎館に向かうのは遠回りだ。どうせこの先は雪で足元の悪い中での進軍だ。遠回りしない代わりに落伍者を出さないよう慎重に行くとしよう」

安房守や信濃守が"なるほど"と言いながら頷いた。


「久遠寺では馬場民部少輔殿が我らを待っている予定でござる。その後は民部少輔殿の先導で葛尾城を目指す予定でござる」

上野介が馬場民部少輔との合流と目的地を告げると、皆が疲れた様な顔で頷いた。

「しかし大膳大夫様も足元の悪い時期からご出陣をなさるものですな」

「左様。この時期の行軍では制約も多かろう」

安房守が冬にあえて行軍する武田を批判すると、井伊彦次郎が同意の意見を述べている。確かにその通りだ。だが戦は相手の意表を突いてこそ勝利が近づく。


「敵が動けぬ間に動かすというのは理に適っている。そうであろう?信濃守」

安房守や彦次郎の発言に頷いていない信濃守へ問いかけると、少しニヤリとして頷いた。

「はっ。信濃は雪が多い地域でございますが、善光寺平はそれほど雪が降りませぬ。信越国境が豪雪で長尾の援軍が来れぬ内に、北信の地侍を抑えるのは理に適っておるかと」

「信濃の事に随分とお詳しいの」

安房守や彦次郎が感心したように応じている、

「信濃は上野の隣でござる。旧主の関東管領様は信濃にも影響力をお持ちの頃がありましてな。何かと信濃を知る機会に恵まれており申した」

「流石は信濃守だな」

俺が冗談めかして褒めると皆が感心しながら笑った。信濃守も満更では無さそうだ。


「大膳大夫殿からの文では、つい先ごろに善光寺の別当を務める栗田刑部大輔が味方についたらしい。武田としては早々に兵を出して一気に善光寺周辺の勢力図を塗り替えようというところだろう」

「なれど、某が申すのも可笑しゅうござりますが宗門絡みは色々とややこしいから気を付けねばなりますまい。利よりも情で動く事も多ければ武田様の思惑通りに進むとなるか……」

「大宮司の申す通りだ。とはいえ武田方の出兵には長尾を頼りとする北信の国人たちは戦々恐々としているだろう。如何に長尾が戦上手と言えど信越国境の雪は越えられまいからな。長尾の援軍は早くても三月、いや四月になるだろう。あと二か月だな。ここは大膳大夫殿がどのように用兵をされるのか、しかと拝見させてもらうとしよう」

俺の言葉に皆が頷いた。




天文二十四年(1555)二月上旬 信濃国埴科郡坂城村 葛尾城 北條 綱成




軍議が行われる広間へと入ると、正面に三つの席があった。その内の一席に案内される。隣は大膳大夫様だ。大膳大夫様を挟んで向こうに若い男が座っている。位置を見る限り今川からの援軍の将だろう。御屋形様からの文では今川から援軍が出る事は聞いているが、どの将が出るかまでは分からぬとあった。丸に二引の家紋が付いた陣羽織を着て涼しい顔をしている。丸に二引?もしや……。

「北條左衛門太夫綱成でござる。遅くなり申した」

「武田大膳大夫でござる。この度の馳走忝ない」

横の二人に挨拶をして床几に腰かけると、大膳大夫様が笑みを浮かべながら話し掛けてきた。

「左衛門太夫殿、こちらは今川殿でござる」


「今川治部大輔氏真でござる」

治部大輔!嫡男様ではないか。今川は治部大輔様自ら援軍に参加されたということか。

「左衛門太夫にございまする。某がこちらでは……」

武田家当主と今川家の次期当主がいる上座と同じ座に儂がいるのは良くない。慌てて次席への移動を願った。

「何を申される。左衛門太夫殿は左京大夫殿の名代かつ御一門なればお気になさりますな」

大膳大夫様が儂を気遣う一言を話された後、治部大輔様の顔をご覧になった。目があった治部大輔様が笑みを浮かべられる。中々に色男だな。

「左様でござる。それに陣中なれば細かな気遣いは無用でありまするぞ」

治部大輔様の言葉を受けて大膳大輔様も儂の顔を覗かれる。治部大輔様と言えば厳しい方かと思っていたがそうではないようだ。いや、まだ分からぬが、少なくとも陣中での気遣いは頂ける御仁のようだ。御二方にそこまで仰って頂いては致し方ない。

「それではお言葉に甘えまする」

「ハハハ。左衛門太夫殿は随分と律儀なお方のようじゃ。のぅ治部大輔殿」

「で、ありまするな」

大膳大夫様の問いかけに治部大輔様がお応えになる。何度か面識があるのだろう。お二人の間柄は親しく見受けられる。しかし、治部大輔様と大膳大夫様とでは親子程の年の差があるはずだが、治部大輔様の貫禄たるや大膳大夫様に引けを取らぬ。



「さて、全員揃ったゆえ軍議を始める」

短い談笑の後、大膳大夫様が引き締まった顔で仰せになった。集まっている諸将が姿勢を正す。

「これより我が軍は北信へと出陣し、信濃を完全に平定する。恐らく越後の長尾が出てくるだろうが、此度我らは今川殿、北條殿に援軍も出して頂いた。敗れる事は許されぬ。心してかかれ」

大膳大夫様の檄に武田の諸将が"おぅ"と応じた。皆口を一文字に食いしばって真剣な眼差しだ。大膳大夫様の指示を受けて武田左馬助殿が続ける。我らと諸将の前に大きく広げられた盤面を差し示しながら指示が出された。


「我ら本隊一万は大堀館に向かう。犀川の南側に本陣を構築する」

左馬助殿の手によって、武田軍を示す駒の多くが犀川の南側に置かれている。駒の動きを見て武田の将が頷く。

「なお、北信地域の要である善光寺の別当を務める栗田刑部大輔が当家へ服属した。ついては犀川以北にある栗田城へ援軍を出す必要がある。刑部少輔は別動隊として兵三千を率いて栗田城へ入れ」

「はっ」

なるほど。善光寺の別当を鞍替えさせているのは大きいな。だがそれだけでは北信は手に入らぬ。善光寺のような古刹には様々な利権が絡む。奥地にまで兵を出すのはまだ危険だろう。栗田城を出先にして北の善光寺方面に圧力を掛けるという所か。


“北條殿”

盤面を見て考えていると、左馬助殿から呼ばれる。目があったので"何でござろう"と応えた。

「北條殿に置かれては、東方面を抑えるべく春山城へ入っていただきたい」

「かしこまってござる」

春山城か。本陣である大堀館からみて東方面にある山城だ。東方面からの奇襲を防ぎ、東南からの補給路を抑える役目を期待されているのだろう。北條からの援軍に頼むには頃合いの場所だな。


“今川様”

左馬助殿が声を掛けると、治部大輔様が“うむ”と応じられた。

「今川様には栗田城の北西、善光寺より西の山上に構えられた旭山城に入って頂きたい」

「旭山城に?それは構わぬが某でよろしいのでござるか?」

「どういう意味でござりましょう」

「なるほど、旭山城は此度の戦の要になる善光寺周辺からよく見えまする。敵の旗印が山から見える事で善光寺周辺の国人たちは圧迫されましょうな。ただ、その旭山に棚引く旗が武田殿のもので無く、今川のそれでよろしいのかと思うたのでござる」

「治部大輔殿。そこは駿河から援軍にお越し頂いた今川殿の旗印が棚引く方が効果は大きいと思うており申す。武田の旗は栗田城と大堀館とで十分でござる」

「で、ありまするか。あい分かり申した。なれど大膳大夫殿、春になれば長尾の本隊もこちらに参るはずです。その前に力攻めも一考と思いまするが如何でござりましょう」

「うむ。それもその通りじゃ。じゃが今まさに起きている通り、長尾が援軍を出せる時期は限られる。わざわざ力攻めをして傷を負わせずとも、武田の武威を示すことで屈服させることはできるはずじゃ。ま、国人どもが春まで粘ったとしても、長尾の援軍を退けてしまえば、皆諸共に我等に降る他あるまい」

「なるほど。学びになり申した」

大膳大夫様のお考えに治部大輔様が頷かれる。どちらのお考えも正しいと言えるだろう。まぁ善光寺の様な古刹を簡単に力攻めしようとする辺り、噂通り治部大輔様は宗門に厳しいな。大膳大夫様は戦略に一理あるとは言え、寺を攻撃するのを憚かったとも言えよう。


ま、大膳大夫様の策で進めるとなると春までは静かな戦場になるな。今のうちに兵糧でも国元から取り寄せておくとするか。やれやれ、長い出陣となりそうよ。


せっかくの長丁場だ。武田や今川の陣を訪れて顔ぶれを知っておくのもいい機会かもしれぬ。




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