第八十話 交差




天文二十四年(1555)一月中旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




夕餉を早々に切り上げて執務の間に向かう。廊下へ出でると、外はすっかり帳が降りていた。深深と降り積もった雪が篝火に照らされて茫漠と光る。


……暗い方が良い。

これから会う男の事を考えて小さく笑みが浮かぶ。


「待たせたな」

「いえ」

執務室に入ると、入口寄りの隅の方に勘助が座っていた。

今の儂は左馬助も連れていなければ馬場民部少輔も連れていない。小姓すら連れ立っていないのだ。この距離は勘助なりの気遣いだろう。

手元の扇子で床を叩いて近くに来るように促す。


半分程進んで勘助が腰を掛ける。それでは遠い。再び床を軽く叩いて近づくように促す。勘助の少し驚いた顔が面白い。小声でも届く距離になった。これで良い。

「駿河から今川の援軍が出陣したと報せがあった」

「はっ。某も存じておりまする」

「ほぅ。流石だな。まだ誰にも話しておらなんだが」

「駿河で情報を集めるよう命じている某の手の者から報告がありました」

「なるほどの」

勘助ならば知っているかもと思ってはいたが、問題は儂に知っている事を話すかだった。それなりに儂の事は信用してくれているようだ。いや、してくれつつあるといったところか。


「では大将が誰かも分かっておるか」

「旗印は八紘一宇だと報せを受けておりまする。であれば今川治部大輔様かと」

隻眼の男の残った一つの目が光っている。儂の顔を強い眼差しで見上げている。勘助の事だ。儂に試されていると察しているのだろう。


「その通りよ。儂も報せを受けて驚いたわ。北信攻めの援軍で次期当主である治部大輔殿が来るとはな。以前の援軍にも治部大輔殿、当時は龍王丸殿だったが見えた事はある。だがあの時は戦に参加しないことが分かっている後詰めであった。此度とは明らかに異なる」

「武田との盟約を大事にしているか、経験を積ませようとしているか……。それとも今川に何かあったか」

勘助の顔が不適な笑みを帯びる。

「何か、か。ありうるの」

懐から文を取り出して勘助に差し出すと、両手で恭しく受け取って読み出した。今川参議が寄越した文だ。


「今川からは治部大輔殿を大将として援軍を出すこと、最前線でも構わぬから使ってくれてよい、よろしく鍛えて欲しいとある」

文の内容を先取りして伝えると、勘助が少し驚いた様子で儂の顔を眺めた。ふむ。勘助はあまり感情を表に出さぬが、この男でも驚くか。

「やはり何ぞあったのかも知れませぬ」


「うむ。今川は三河で国人や宗門の不満が燻り、尾張攻めも手古摺っている。尾張方面を巡って意見の相違があったのやも知れぬ」

「その可能性はありますな。宗門への扱い一つをみても参議様と治部大輔様ではお考えが違いまする。何かを切っ掛けに溝が出来ても可笑しくありませぬ」

「今川が尾張を取ると我が武田との差が大きくなりすぎる。今川には今のまま、尾張攻めで手こずってくれている位が調度良い」

儂が腹の内を隠さずに申すと、勘助の口角が少し上がった。勘助は今川に仕官をするも叶わぬばかりか、最近まで家族を人質に取られていた。今川への恨みは深いものがあろう。


「御屋形様。一つ試みてみたい事がありまする」

ぎろりと隻眼の目を見開きながら勘助が儂の顔を見ている。

「申してみよ」

「はっ。尾張と三河で流言を流しまする」

流言とな。面白そうではないか。"続けよ"と先を促した。

「今川は今や治部大輔様の下にあり、参議様も雪斎殿も飾りに過ぎない、と」

「……フフフ、ハハハハハ」

思わず笑みが出る。自尊心の強い参議殿の事だ。その様な噂は承服しかねるだろう。何か形にせんとして治部大輔と対立するかも知れぬ。

「良い。勘助に任せるゆえよきに計らえ。ただし、足を付けるなよ」

「お任せ下され」

勘助が力強く応じながら頭を下げた。


治部大輔か。優秀すぎるのも罪よな。

フフフ、一波起こる予感に胸が騒いだ。




天文二十四年(1555) 一月中旬 駿河国安倍郡府中 長慶寺 今川 義元




「御屋形様、長慶寺につきましてございまする」

馬車に揺られながら今後の方針を考えていると、馬車が停まって外から朝比奈備中守の声がした。馬車の窓を開けて返事をすると御者が余を降ろす準備を始める。


外では備中守が警備の者達に手際よく指示をしている。本来備中守は治部大輔の家臣となっているが、最近は手元に置いてしまっている。あれも特に文句を言ってはこない。


治部大輔とは雪斎が倒れた時以降話す機会がほとんど無かった。あやつが余を避けたというよりは余が治部大輔を遠ざけた。あの時は少し癇に触っただけなのだが、余が折れるのも府に落ちぬ。どうしたものかと考えているうちに時が過ぎ、昨日久方振りに信濃へと出陣する治部大輔に会った。


男子三日も会わずんば刮目して見よとはよく言ったものだが、久しぶりにあった我が息子を眩しく感じたわ。よく育ったと感慨深く思うと同時に、余とてまだ四十にすらなっておらぬ。花は散っておらぬと闘志が宿った。良くないと思うたが変えられなんだ。冷たく見えたかも知れぬ。治部大輔の挨拶に素っ気なく応えた。


「御屋形様、お待たせ致しました」

昨日の事を思い出していると、備中守から声が掛けられる。

馬車の降り口が開けられ、備中守が迎えていた。

「うむ」

備中守の案内で寺の境内を進む。矍鑠かくしゃくとしてはいるが、備中も歳をとったな。頭の毛はすっかり白くなっている。

「雪斎の様子は聞いているか」

「今日の調子は悪くないようにございまする。床から起きることが出来ているとか」

備中守が歩きながら雪斎の様子を応える。床から起きることが出来るか。冷泉権大納言を訪ねた時の事を思い出すな。床から起きることが出来るのが調子が良いというのでは、我が師の余命は幾ばくかかも知れぬ。


雪斎がいる部屋へと向かうと、布団から身体を起こそうと力んでいる雪斎がいた。竹千代がその背を支えている。

「止めよ。無理はせずとも良い」

余の言葉を受けて竹千代が雪斎を労りながら寝かせて隅に下がった。雪斎が苦虫を噛み潰したような顔で口を開く。

「申しわけありりませぬ」

前回あったときよりも呂律が悪い。病は確実に進行している。

「気にするで無い。それよりも身体を厭え。調子はどうだ」

「左手の痺れが引きませぬ。かおも左側がひくつくようなかんきゃくが残っておりまする」

「そうか。こればかりは急いでも致し方無い。そなたは我が今川にとって大事な身よ。急がずゆっくり休めば良い」

本音を申さば雪斎にはすぐにでも戻って来て欲しい。だが控えている備中守や竹千代の手前もある。真の思いを隠した。

「お気遣いありがとうござあいまする。なれどあなたさまはすでに立派な戦国の大名なれば、ぐそうなど必要ありますまい」

「振り返ってみれば師匠に褒められた事はあまりないの。どこか新鮮に聞こえるな」

余の冗談てんごうに雪斎の顔が半分笑う。


「じぶ大輔さまは信濃へといかれましたか」

「うむ。昨日四千の兵と共に出陣していった。得意の軍楽隊が大きな音を奏でて民草も盛り上がっておったわ」

「ははは、じぶ大輔様らしいですな。民も暮らしぶりが豊かになりじぶ大輔様を慕う者もおおいとか。それに軍れきも申し分なく、憧憬の的ともなりましょう。今川の次代は明るうございまするな」

「……そうだな」


心が荒んでいるのだろうか。

"治部大輔の治世で豊かになった"

"余ではなく治部大輔が民に慕われている"

"治部大輔の今川が明るい"

と聞こえた。


「じぶ大輔様には申し訳無いことをしたと思うておりまする」

「如何致した」

「三河の事でございまする。尾張で力攻めに踏み切れぬのは三河が今一つ固まらないことが要因でございまする。御屋形様もごしょうちのとおり三河は一向衆の強い地域なれば、国人達も一向門徒が多うございます。治部だゆう様の仰せのとおり、諸悪の根源たる一向衆を根絶やしにしておれば、今頃尾張には丸に二引が棚引いていたかも知れませぬ」

「それは結果を見て考えているに過ぎぬ。隣の田は青く見えるものよ。治部大輔が豆州でやったような事を三河でしていたら、坊主だけでなく国人も、下手をすれば松平の一党までもが離反していたかも知れぬ。考えただけで胆が冷えるわ」

「治部大輔さまならば、その者どももまとめて潰されましょう。文字通り根絶やしにされるはずです」

「治める三河者が一人もいなくなって民草がおさまるか」

「民にとっては誰が治めようと構いますまい。しばらく駿河遠江の者を代官とすればそのうち静まりまする。それに税をやすくされる治部だゆうさまは歓迎されましょう。事実として伊豆からは宗門の不満や横柄な事案は一切無くなりました。僧はじぶ大輔様を畏怖し、暮らしが豊かになった民は治部大輔様に畏敬の念を覚えております」

「……禅師は余が誤っていたと申すか」

「さような事は申しておりませぬ。じぶ大輔様の意見ももっと真剣に考えるべきであったと申しておるだけでございまする」

「左様であるか。ふむ」

胸の奥に何とも言い知れぬもやが掛かったような気になった。



「こたびの武田による北信濃攻め、なかなかに手こずりましょう」

縁側を眺めて気持ちを落ち着かせていると、雪斎から言葉が掛けられる。

「ほぅ」

「昨秋の甲斐の刈り入れはあまり良くなかったようでございまする。商家からの知らせによれば甲斐で米の値が上がっているようです。こたびの戦さにはえちごから長尾の援軍が出てくるでしょう。えちご勢も武田の懐が寂しいのは知っているはず」

「となると先に兵を引いた方が負けるな。我慢比べになる」

余の言葉を受けて雪斎がゆっくりと頷く。


「両軍睨みあってがまん比べになりまする。兵はあまり失わずにすむやも知れませぬ。ましてや援軍の今川勢に被害はありますまい」

「そうだな。此度は北條も援軍を出すようじゃ。今川と北條でそれなりの兵力になろう。後詰めは両家に任せて武田の本隊は長尾と対峙。そんな形になるかも知れぬな」

余の言葉に雪斎が再び頷く。


武田大膳大夫への文には治部大輔を最前線で使っても構わぬと書いた。魔が差した行いだったな。治部大輔の事だ。問題は無かろうが一人息子を危うい場所へ送る事になるやもしれぬ。思慮が欠けていたと反省せねばならぬ。

反省の念が生じると共にふと違う思いが過る。


……もう一人位男の子がいれば安心なのだがな。


先日会った武田の御曹司は悪くなかった。お隆を遣わして一門に取り立てるのも良いかも知れぬ。毛並みも悪くない。武田の嫡男に我が娘か……。いずれ時を見て義父上に話してみるか。


「御屋形さま。ちょうど良いきかいにございまする。お話したき事がありまする」

雪斎が真剣な眼差しで余を見ている。大事な話のようだ。雪斎の方を向いて居ずまいを正した。

「よいぞ」

「はい。この雪斎、もはやお家のために働きたくてもからだがそれを許しませぬ。隠居させていただきとうございまする」

「何を……申すか」

思いがけぬ師の申し出に言葉が詰まった。


「わが身のことなればよく分かりまする。尾張、みかわの事、志なかばにて無念ではありまするが、御屋形さまならばきっと大丈夫にございまする。尾張を治めた後は上洛となりましょう」

「上洛とな」

「はい。尾張、三かわ、遠とうみ、駿河、伊豆。これほどの大国を治める大名を幕府が放っておきますまい。それに今川は足利のごいちもんなれば、上洛を求める沙汰がありましょう」

「その見識、まだまだ余には必要だ。隠居などとは申さず療養に努めて快方の後は余に尽くしてくれ」

余の言葉に雪斎の顔が穏やかに笑う。半分だけでもよく分かる。

だがその顔が厳しいものに変わった。昔、それも随分と昔の頃に見た師の顔つきだ。



「かぁぁつッッ!」

突如雪斎が大きな声をあげた。竹千代や備中守も何事かと驚いている。

だが余にはどこか懐かしい。


「梅岳承峰」

「はい」

昔の名で呼ばれる。

「疑を以て疑を決すれば決必ず当たらず」

ほぅ。荀子か。

……何て応えるか。昔を思い出すな。

「貴方様はこれまで己のさい定に迷いはありいまするか」

答えに逡巡していると、師の方が口を開いた。


「迷いか。無いな」

余の言葉に恩師がにやりとする。

“それならば良い。それで良いのです。これからも変わらず行かれませ”

目が潤んでか、雪斎の顔が一面の笑みを浮かべているように見えた。




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