第七十九話 酒毒




天文二十三年(1554)九月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「織田上総介は着々と力をつけておりまする。某の見立てでは尾張一国五十万石は固いと思いまする。今はこの五十万石を弾正忠家では上総介と勘十郎の二人で争って割れておりますが、これが合わされば岩倉織田も犬山の織田も守山の織田までもすぐに併吞されましょう。敵が強くなる前の今こそが攻め時にございまする」

「治部大輔様。仰せになることは分かりまするが、上総介と勘十郎は激しく対立しておりまする。容易に手を結ぶとは思えませぬ。此度愚僧が坂井大膳を用いて潰し合いをさせました。同じように潰し合いをさせてみせまする。それからでも潰すのは遅くありますまい」

「うむ。此度の雪斎の差配は見事であった。我が兵を失わずに織田を痛めることができておる。西三河が今一つ収まらぬ今、本隊を動かすのは早い。引き続き謀事を続けよ」

父上の言葉を受けて雪斎が頭を下げる。話は終わりだとばかりに父上が酒杯を上げる。雪斎が父上から酒を賜って旨そうに飲んでいる。

「今宵は酒が旨い。勝利の美酒よ。のぅ雪斎」

「はい。水のように入りまする。僧が酒を飲むのは憚られまするが、水ならば構いますまい」

「ほほほ、雪斎殿は悪い人ですね」

雪斎の冗談に父上と御祖母様が笑っている。


「御屋形様。治部大輔は重ねてお願いいたしまする。尾張への出陣を」

俺が水を指すように具申すると、父上の眉が引く付いた。

「兵は動かさぬ。敵が潰し合うのが分かっているのに、なぜわざわざ我が兵を失わねばならぬのだ。その方は知らぬだろうが、三河の坊主達も不穏な動きを見せている。血気流行るのも分かるが、ここは腰を据えて進めばよい。父の軍配を見ているがよい」

坊主か。当然知っている。朝廷も使って和議を結んだ一向宗どもが再び鼻息荒いらしい。三河では俄に今川に反旗を翻す者達が増えてきて気を大きくした坊主どもが増長しているのかも知れない。

「お言葉ではありますが、西三河で不穏な動きを見せる坊主どもは、かつて某が根絶やしにすべしと具申した者達にございまする」


"パシャッ"


"カコォーン"


顔に酒が掛かったと思ったのも束の間、酒杯が宙を舞った後に雪斎の膳に落ちて大きな音を立てた。

「如何に我が息子と言えど、余に向かって無礼であるぞ!」

珍しく父上が語気を強くして肩を震わせている。ここで引くなら具申した意味がない。


「無礼を承知で申し上げまする。これは今川の大事にございまする。尾張が一枚岩になる芽は早めに摘む必要がありまする。今は生きるか、死ぬかの瀬戸際にございます。何卒出兵を」

「治部大輔殿、言葉が過ぎますよ。我が今川が織田の、それも守護代の家臣筋に遅れを取るなどありませぬ。現に参議殿は尾張を揺らして力を削いでいるではありませぬか」

御祖母様が慌てて取り成すように言葉を挟む。俺としては桶狭間になるリスクを減らさねばならない。名門だから敗れない、安穏と出来る時代は終わったのだ。


「お言葉ではありますが、尾張守護の斯波は守護代に討たれました。時代は名門であれども弱ければ倒れ、卑しくても強く賢きものが残る世でありまする。上総介はうつけではありませぬ。強かに戦国を生きておりまする。財ある弾正忠家を放置するは危険でございます」

「治部大輔様、愚僧も御屋形様も決して弾正忠家を野放しにしているわけではありませぬ。攻め方の違いでございまする」

「左様な事は分かっている。謀も大事だが時が許さぬ。今は力攻めで今川の武威を示す時だと申しておるのだ」

「今川の武威は皆が存じておりましょう。御屋形様が四ヶ国を束ねる威を示されているからこそ、尾張の国人達は我が方の策に靡くのです」

父上、雪斎、御祖母様が俺をじっと睨むように見ている。どちらも正論だ。となれば数が少ないこちらが苦しいな。それでも言わねばならぬと息を吐くと、雪斎が"治部大輔様、ここは"と話し出したかと思うと、酒杯を落としてよろけた。


「雪斎っ!」


急いで雪斎の身体を支える。

「心配いりませぬ。少々飲み過ぎたようです。風にあたれば何という事ござりませぬ」

雪斎が顔を歪ませながらも元の姿勢に戻ろうとしている。小刻みに手が震えている。嫌な予感がした。

「大事になると行かぬ。しばらく酒を断って療養する方が良いだろう」

雪斎の身体を支えながら禁酒と療養を促すと、雪斎が俺の腕を掴む力を強くして"御家の大事に悠長にはしていられませぬ。少し休めば問題ありませぬ"と腹の奥から声を絞り出すように話した。

「三河で骨を折って疲れておるのだろう。下がって休むがよいぞ。誰ぞに手伝わせよう」

父上が廊下に出て"竹千代はおるか"と声を上げると、人払いで下がっていた小姓が駆け付けて竹千代を呼びに行った。


しばらくすると竹千代が現れて雪斎を支えながら歩いていった。まだ十二歳程のはずだが鍛えているだけはあるな。それとも雪斎が軽くなっただけかも知れない。




「……参議殿と治部大輔殿。雪斎は病かも知れませぬ。今の姿は亡き我が夫の晩年に似ておりました」

御祖母様が声を絞り出すように話す。御祖父様……氏親か。あったことも無いので歴史上の人物という思いしかないな。晩年は体調を崩して専ら政務は御祖母様が取り仕切られたと聞いている。


「父上にでございまするか」

父上が驚いている。雪斎は今川を支える屋台骨だ。大軍師が病と聞けば驚くのも無理はない。俺は桶狭間までに雪斎は亡くなると知っていたから何となく覚悟は出来ていた。だが、ここはとりあえず神妙な顔をしておこう。先程の感触では雪斎の症状は脳梗塞の類いだと思われる。前世でも何人か同じようになっているのを見た。尤も前世はもっと歳が高齢な者がなる事が多かったが、雪斎はまだ六十にもなっていないはずだ。やはり塩分の多い食事と糖質のある酒に軍師という過労とストレスが……って、病になるに決まっているな。安静にして余生を過ごせる程度の状態なら良いが……。


父上も御祖母様も無言の時がしばらく続いた後、"治部大輔"と声が掛けられた。

「はっ」

父上の方を向いて畏まる。

「尾張三河方面への手出しは無用じゃ。雪斎もあの様なれば、余計な心配はかけとう無い」

「父上、なれど」

食い下がろうとすると、父上が俺を制止するように扇子を前に差し出した。

「甲斐の山猿が北進のための援軍を求めている。年末の北條との婚儀が終わり次第、年明け早々に出兵する予定のようだ。その方は今川からの援軍として出陣せよ」

「手伝い戦も大事かも知れませぬが、今必要なのは尾」

「口説い!」

なおも続けようとすると、父上が声高に叫びつつ立ち上がって部屋を下がろうとする。


……ここまでだな。

諦めて頭を下げ、下がっていかれる父上を見送る。すると、父上が部屋と廊下の境でふと立ち止まられた。

「武田も次期当主のその方が援軍に来るとは思っておるまい。煩わしい事になるのは叶わぬ。その方は粛々と、内々に出兵の準備をせよ」

「はっ」

「その方の具申、頭には入れておこう。なれど余にも考えがある。これ以上は言ってくれるな」

父上が呟かれたかと思うと、部屋を足早に去っていかれた。頭を下げていると、御祖母様が長い溜め息を付いた。何か言われるのかと思いながらお顔を覗くと、"信濃への出陣の折りは、武運を祈っております。大事な身体ですから気を付けるのですよ"と仰せになって下がって行かれた。大広間に一人残される。暫くその場で考えに耽っていた。




どの程度時間が経ったであろうか。目の前には当主の席が鎮座している。当主が座る席の後ろには、丸に二引の大きな旗が掲げられている。隙間風で蝋燭の光が揺らめくと、旗の家紋も揺れた。


何ともない何時もの光景のはずだが、暗澹たる思いが込み上げてきた。




天文二十三年(1554)十二月上旬 相模国足柄下郡小田原町 小田原城 北條 氏康




城下で最も広い大通りを、どこまで続くのかと思う程の行列が続いている。噂に聞く今川の輿入れ行列はこの様なものだったかも知れない。春の輿入れには北條として恥じないよう力を入れたが、豪華絢爛な目の前の行列を見ていると、今少し力を入れてやるべきだったかと反省の念が生じた。今川参議殿の娘が甲斐入りする際の輿入れ行列は一万だったと聞く。大膳大夫殿は今川家に引けを取ってはならぬと力を入れたに違いない。


「随分と豪華だな。かなり力を入れているとみえる」

「左様でございまするな。なれど我らの歓待とて中々のものでございまするぞ」

新九郎に話しかけられた松田左衛門佐が応えている。左衛門佐の申す出迎えの陣容は中々のものだ。当主の儂をはじめとして北條一門や重臣が軒並み出でて迎えている。

「しかしここまで豪華だとは、甲斐の財力も中々に侮れぬな」

「風魔の調べでは甲斐の実入りは散々だったらしいですぞ。武田殿は今回の輿入れのために随分と無理もしておりましょう」

新九郎が輿入れ行列を眺めて感嘆していると、幻庵宗哲が声を潜めて呟いた。宗哲は我が北條の耳を担っている。北條が抱える乱波の一党である風魔が報告をしてきたのだろう。

宗哲の言葉を受けて皆が神妙な顔をする。


「民を苦しめてまで見栄を張るとは、武田の義父上は何をお考えなのでしょうか」

新九郎が不思議そうな顔をして呟いてくる。北條では四公六民といって税を安くして善政を敷き、民が豊かになり、国が豊かになる。そしてその力をもって領土を広げるという流れが出来ている。だが、税が安い分、北條の銭事情は決して良くはない。だが、民を怒らせては国も纏まらぬ。天文十八年の大地震では苦しい生活に追われた民が領内から逃亡する事が相次いだ。あの時は徳政と税を下げる布告を出して何とか逃散を防いだ。本音を言えば税を下げずに済むなら下げたくはない。だがやむを得ず下げねばならぬときがある。これも見栄と言えば見栄だな。


「輿入れは戦の一つよ。戦に負ければ国が亡びる。であれば力を入れようとするもの。大膳大夫殿は北條に武田の力を見せつけようと頑張ったのだろう。新九郎、これが外交というものじゃ。よく覚えておくのだぞ」

新九郎が輿入れ行列を眺めながら小さく“はい”と応じた。まだ外交が何たるかは分からぬか。これからしっかりと教えていかねばならぬ。

宗哲と顔を見合わせて、互いに苦笑した。




しばらくすると長い行列も中盤に差し掛かって輿が見えた。

近隣に武名を轟かせる武田殿の娘がどのような姫なのか気になった。奥に知られたら怒られような。だが当主たる者いつも気が張っているのだ。心の内で位は遊びたいものよの。


この盟約で三國の絆は固くなる。この盟約の良い所は三國の利害が一致しているところだ。既に武田は信濃への出兵を準備している。風魔の調べではかなりの規模になりそうだとあった。この盟約で背を気にせずともよくなったからだろう。


その内に武田は越後の長尾とも再びぶつかるはずだ。対長尾という意味では武田とは共闘ができるな。越後に落ち延びた関東管領が関東への出陣を唱えているらしい。我らも長尾とは矢合わせすることになるだろう。此度の盟約を上手く使っていかねばならぬ。




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