第七十八話 凶作




天文二十三年(1554)八月中旬 甲斐国山梨郡 東光寺近郊 武田 晴信




"ハッ"

馬の腹を蹴って速度を上げる。早くなるにつれて増す風が心地よい。

左馬助や近習たちが急いで付いてくる。儂の急な早駆けにも離れる事なくしっかりと付いて来ている。

この辺りでいいだろう。喉も乾いた。


"どぅどうどぅ"

辺り一面に青田が広がる。だが、八月も半ばだというのに稲が随分と短い。

「今年は稲の育ちが悪うございますな」

竹筒の水を飲みながら青田を眺めていると、儂の心の内を悟ったように左馬助が声を曇らせている。

「そうだな。この時分でこの程度の育ちでは秋の収穫は例年よりも悪くなるだろうな。今年は随分と涼しいのが悪さをしているのかも知れぬ」

「御屋形様の仰せの通りでござりましょう。夏は夏らしい方が米はよく育ちまする。今年は夏が涼しゅうございまする。今からでも今少し日照りしてくれると良いのですが」

跡部尾張守が困ったような顔をして声を上げる。跡部家は古くは甲斐国守護代まで務める程勢力を持ったが、武田に討伐され軍門に下った。力をもって再興されるのを避けるために軍備を制限されているため、跡部の歴代は内政に手腕を発揮してくれている。当代である尾張守信秋も各地の田畑を任され、武田の兵糧を支えている。


「残念ではあるが、尾張守が申すのならば間違い無かろう。刈り入れまでに天気が好転する事を祈ろう」

儂が話すと、皆が田畑を眺めながら応じた。儂の願いを嘲笑うように乾いた涼しい風が吹く。

「刈り入れの具合が悪いと梅姫様の輿入れの費用に支障が生じまする。以前一万の輿入れと仰せでありましたがご再考をいただく必要があるやも知れませぬ」

左馬助が言いにくそうにしている。輿入れの規模は既に北條家へと伝えているからな。今から規模を縮小する等体裁が悪いと考えているのだろう。その通りだ。そのような事絶対にさせぬ。


「梅の輿入れ行列は一万じゃ。これは何としても譲れぬ。輿入れは一つの戦じゃ。行列の華美で武田と北條の今後の関係が決まる。北條における梅の扱いが決まるのじゃ。この大事が分かっているからこそ、今川の参議殿や治部大輔殿は当家への輿入れに、あのような行列を用意したのじゃ。おかげで当家において裏方を謗るものはいまい」

「御屋形様の仰せになっている言やご尤もにございまする。某とて武田から送り出す梅姫の輿入れを出来る限り飾ってやりたい気持ちに偽りはございませぬ。なれど無い袖は振れませぬぞ」

弟の刑部少輔が意見を具申してきた。家臣たちが言い辛い事でも、二人の弟達は儂に容赦なく言ってくる。


「民が苦しんでいる事は儂も分かっている。その民を救うための盟約であり婚姻よ。……と、こんな事は皆既に分かっておるな。無い袖は振れぬか。致し方ない。鉄砲の調達を減らしてでも輿入れは一万の規模で成し遂げよ」

「鉄砲と言うと、先般お出しになられた三百丁調達の布告でありまするか」

今川や尾張の織田が鉄砲を整え始めている。先般、武田も多少は揃えるべきかと思って鉄砲を買い揃えるよう下知を出した。少しずつ買い始めているが、鉄砲は兎に角高い。そして驚くのは買った後の調練にも莫大な銭が掛かることだ。火薬、玉と銭が幾らあっても足りない。揃える数量を減らせばその分の費用が浮く。


「最近は鉄砲を買う大名が増えたようだが、儂が見る限りあれを戦で使うのは籠城が中心となるだろう。であれば我が武田は攻め続ければ良い。鉄砲が必要なくなる」

治部大輔の鉄砲隊による射撃を見た時から思っていた事を告げると、左馬助と刑部少輔が大きく頷いた。

「確かに鉄砲の調達を控えれば銭は大分浮きますな」

刑部少輔が頷いた後、物思いに耽っている。得意の算段でもしているのだろう。

「それは良きご思案かと存じまする。治部大輔様の鉄砲隊の動きを見る限り、鉄砲は放つまでに時間がかかりまする。あれでは戦の役にはたちますまい。武田に必要なのは騎馬でございまする」

左馬助が手綱を引きながら大きな声で話す。武田には騎馬が必要と聞いて、他の者達が頷いている。

「鉄砲にもよい使い方があるのかもしれないが、それにしても金が掛かりすぎる。物を知るために幾らかは持っておかねばならぬが、仰々しく持つ必要はない」

過日鉄砲集めを命じた時の儂が聞けば笑うだろう。話していて笑いが溢れそうになるのを必死に堪えた。儂が今言った事は、銭が無くて諦めざるを得ない状況を取り繕うための言い訳に過ぎない。


「年末の輿入れが済んだら信濃へ兵を向ける。せっかく盟約を結んだのだ。今川と北條にも兵を出してもらおう。長尾に縋って生き長らえている残党どもを一思いに押し潰してくれる」

「「ははっ」」

不景気な話を延々としていても楽しくはない。信濃平定の意気込みを伝えると、皆も同じことを思ったのか、いつも以上に大きく応じていた。




天文二十三年(1554) 八月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「これが新たな窯で作ったものか」

「はい。この者の差配で作った窯で焼いておりまする。土選びもこの者に教えをこうておりまする」

臨済寺の僧である宗守が後ろで平伏している男を指し示す。高温での燃焼ができる窯だな。本来日本では朝鮮出兵の頃から作られるようになったはずだ。少し時代を先取りだな。

「まさかこの様なものが領内で作る事ができるとは。誠に驚きでおじゃりますな」

草ヶ谷権右大弁が器を大切に扱いながら感嘆の声を上げる。"色合いと言い、艶と言い、何とも言い尽くせぬ"と独り言を呟いている。俺も実はかなりテンションが上がっている。よく分かるぞ。


「うむ。この者の腕は確かなようだ。伊豆介、大儀であった。この者に褒美を遣わせよ」

「はっ」

伊豆介に命じた後、宗守に目配せをする。俺の意を察した宗守が、男に褒美が遣わされると明の言葉に訳して伝える。男が俺の顔を見て、嬉しそうに大きな笑みを浮かべながらペコペコと頭を下げた。

“引き続き励めばさらに褒美を出す。家族のためにも励め”

と伝えると、男は真面目な顔になって頭を下げた後、小姓に連れられて控えの間に下がって行った。この後は家族と過ごせる一時を楽しむはずだ。


男は明の景徳鎮窯から引き抜いてきた陶工だ。景徳鎮窯は、元々官制の窯で門外不出の管理をされていたが、高まる需要に応えるために二、三十年程前から製造の一部を民間に委託するようになった。今も国家による厳しい管理がされているが、完全に官制だった頃に比べれば抜けが無いわけではない。あの男の場合、能力はあるが銭の使い方を知らず、借金取りに追われている所に宗守が目を付けた。宗守は俺が明への留学費用を肩代わりする代わりに明の情報を定期的に送らせていた僧だ。宗守は修験僧の格好で足繫く景徳鎮窯に通い、目ぼしい者を見繕っていたらしい。当初は勉学に励んでいたが、明で学ぶものは思ったよりも無かったようで、最近は専ら隠密行動ばかりしていたらしい。まぁこの頃の明は朱子学一辺倒だからな。思想が合わなければ水は合わないかもしれない。


「宗守にも礼を申さねばなるまい。その方のお陰で今川はまた一つ力を得るだろう。それにこれは日の本の歴史に新たな足跡を残すことになる。作陶の歴史にその方の名が刻まれるだろう」

俺が自尊心を擽るような言い方をすると、嬉しそうに宗守が応じた。宗守は良い人物なのだが、まだ二十代と若いせいか承認要求が強い。僧の皮を被った密偵が向いている。本人も寺の僧として終えるよりも大名の嫡男から礼をされる今の方が嬉しそうだ。雪斎も好きにして良いと申していた。引き続き上手く使っていこう。


「今回の品は白磁と青の絵染めだが、赤も入れたいな。白地に色が映える」

「ほぅ、赤でおじゃりますか。色が入れば美しゅうおじゃりましょうな。紅葉でも描けば秋の風情が楽しめまする」

権右大弁の言葉に頷いて応える。ふと前世の九州で乗った豪華列車を思い出す。あの時は随所に使われていた酒井田柿右衛門の作品に見惚れたものだ。そういえばあの列車は 大川組子も良かったな。障子を組子にしたら驚く程高かった。障子に組子……いいね。今度駿河細工の職人に作らせてみよう。皆技術はあるんだ。アイデアを少し授けると凄く良いものが出来たりする。フフフ……と、惚けていると皆が俺の顔を見ているのが分かった。

「あ、うむ。何処で、誰に売っていくか考えていかねばならぬ。付加価値をどう付けていくかだな」

「「はっ」」

真面目な事を話すと、皆が笑みを含んだ顔で平伏した。




天文二十三年(1554)八月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「尾張で行われた織田大和守様と織田上総介殿の戦でございまするが、上総介殿が大勝利を収めてございまする」

伊豆介が戦闘の詳細を記した詳報を俺に差し出す。一つの下剋上が成った事に皆が驚く中、出された詳報を読み続けた。俺が読んでいる最中、伊豆介が盤を整えている。清洲の大和守に×印が付けられ、永楽通寳の旗を持った駒が置かれた。信長が着々と力を増しているな。ちょっと嫌な汗が流れるぞ。信長の父である信秀が死んだ頃には混沌としていた尾張の勢力図が、徐々に纏まって来ていると感じる。今の今川なら何度か大軍での出兵を可能にする国力がある。早めに潰しておく方が得策だと思うのだがな。


「上総介の勝利は対立していた弟が味方に着いた事もあるが、長槍の存在が大きそうだな」

「はい。上総介様が率いる手勢は三間半にもなる長槍を持っていたそうにございまする。大和守様の兵の槍が全く役に立たなかったとか」

「三間半か。親衛隊で使っている物と同じ長さだな、彦次郎」

「はっ。長槍は強力でありまするがその分重さがありまする。雑兵には持てませぬ。銭で兵を雇うという上総介殿ならではの戦法かと」

府中親衛隊を鍛えている井伊彦次郎が頷いた。信長は俺と同じく銭で兵を雇う。俺と同じというか、むしろ俺が信長と同じなのだがな。日頃から鍛練をして長槍の扱いに馴らせるのだろう。


「大和守の軍勢は弾正忠家の軍に散々に蹴散らされ、余勢を駆って攻め込んできた上総介に本拠の清洲城まで落とされたようだ。大和守は討ち死、家老の坂井大膳は安食から逃亡、行方不明らしい」

本当の所、大膳亮の行方は分かっている。荒鷲の森弥次郎から苅屋付近で暗殺されたと報告があった。雪斎の手の者によるらしい。暗殺を手掛ける家だと風聞が立つのはよろしくない。雪斎もこの事は内密にしているようだし、俺も知らぬ存ぜぬを通すことにしよう。この事を知っている弥次郎と狩野伊豆介には極秘だと伝えてある。


「この次は上総介殿と勘十郎殿がぶつかるでしょうな。勝ったどちらかが尾張を纏めまする」

「某もその様に思う。銭で兵を雇う上総介殿が勝つとややこしくなりまするな。叩くなら纏めて今の内がよろしいかと」

安房守が呟くと、頷きながら長野信濃守が続けた。今部屋にいるのは吉良上野介、庵原安房守、長野信濃守、井伊彦次郎、井伊平次郎、狩野伊豆介だ。三浦内匠助、朝比奈弥次郎、鵜殿藤太郎、井伊新次郎ら近習達は学びのために隅に控えている。軍事を話す時はこの面子になる事が多くなってきた。兵法と言えば朝比奈備中守も経験豊富なのだが、最近は何かと父上に呼ばれている。


「過去にも尾張を攻めるべきだと一度具申したのだがな。父上と雪斎の考えは策略を優先すべきというものだった。あの頃に比べれば三國の盟約によって背を気にせず攻める事が出来る。今一度俺から力攻めを具申して見よう」

「恐れながら、それは危険かも知れませぬ。尾張と三河は御屋形様の専権事項にございまする。それに雪斎殿も心を砕いておりますれば、ここは静かにしている方が良いかもしれませぬ」

庵原安房守が心配そうに声を上げる。雪斎と安房守は縁戚だからな。色々相談もしているし受ける事もあるようだ。普段は飄々と冗談を言ったりすることも多い安房守が俺を心配している。うれしいじゃないの。

「今動かさねば、いよいよ尾張は纏まる。これを見過ごすのは悪手ぞ。父上のお考えや雪斎の努力は分かるが、今は兵を挙げるべき時だ。俺の兵だけで出兵しても良い。父上や雪斎が懸念する西三河も、尾張を今川が治めればおのずと鎮まって来るだろう」

「駿河、伊豆、渥美の兵を総動員されれば一万三千は動かせまする。尾張を攻めるには十分な兵力かと」

上野介が決意を秘めたような顔をしている。今が攻め時だと言いたそうな顔だ。気持ちは分かる。どうみても攻め時だよな。父上は西三河が揺れているのを気にしているのだろうか。それとも雪斎に任せているから気を遣っているのか。あ、大義名分が今一つなのか?

「安房守の懸念は分かるが、今川の事を思えば今すべきは出兵だ。来月には雪斎が三河から府中へと帰って来る予定だ。雪斎が戻り次第父上に具申してみよう」

「「はっ」」

俺が出陣の可能性を示唆すると、皆が頼もしく応じた。




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