第七十七話 凋落
天文二十三年(1554) 七月中旬 駿河国安倍郡府中 駿府取引所 今井 宗久
一階は立ち会う人で群れている。入場には少なくない費用が掛かるが、二階の一等席にしておいて良かった。堺で人混みは慣れてはいる。だが、この場での取引に慣れているわけでは無い。日頃から出入りしている玄人達の邪魔立てをしてはならぬ。
一等席から一階の取引を物珍しく覗いていると、"カンカンカンッ"と鐘の音がした。皆の顔が一斉に掲示板の方を向く。掲示板とは商品価額掲示板の事で、この取引所で取引がされる商品の今の相場がずっしりと掲示されている。それぞれの価額には現物と呼ばれる直ぐの受け渡しに用いられる価額と、将来の受け渡しに用いる先物の価額が
「米の値が動きましたな」
旅路を同じくする天王寺屋の助五郎さんが、掲示板を眺めながら呟かれている。心なしか口惜しそうだ。だがこの顔は損した時のお顔ではない。何かあるな。
「三十八貫と五百文……。先程より七百文も上がりましたな。どこぞから大口の買いが入りましたかな」
「彦右衛門さんは余裕ですな。先物も動いておりまする。どこかで戦の動きがあったか。もしくは不作の情報でも入ったかですな」
「そんなところでしょうな。手前は大分前に随分と低い値で売りの先物を入れる事ができましてな。上がる分には歓迎ですよ。そう言う助五郎さんこそ渋いお顔をされてはおりませぬな」
私が指摘すると助五郎さんがカラカラと笑いながら応える。
「実を申すと手前は昨日も来ておりましてな。府中についたのが子の刻でしたでしょう?まだ取引所が開いている時分であったので、いてもたってもおられず来てしまいました」
「そうだったのですか。すると苦いお顔の原因は何ですかな」
「昨日は米の値動きが盛んでしてな。上がったり下がったりしておったのです。引けに掛けて値が上がっていったので大引けで売り抜けて儲けました。ただ、今日はまた値上がりしているので口惜しゅうなりまして」
ほくほくとした笑みを浮かべながら助五郎さんが掲示板をご覧になっている。
「欲深いと火傷を負いまする。儲ける事が出来たのならよしとしましょう」
「そうですね。しかしこのような場所があるとは駿府は進んでおりますな。羨ましい。このようなものを作る治部大輔様をお武家様にしておくのは勿体ない」
「ははは、無礼かとは思いますが手前も同感です。堺では米はこの辺り、味噌はこの辺りと荷揚げされる場所に紐付いて立会が行われてますが、このように集めたものはありませぬな。それに先物というのも良い。商家同士で似たような取引をする事はありましたが、先物と呼んで一つの取引にしてしまうとは恐れ入りました。ま、治部大輔様がお武家様だからこそ、そのお力で出来た事もあるのでしょうな」
手前が治部大輔様の治世を褒めると、助五郎さんが"左様ですな"と頷きながら応えた。堺や上方でも今やこの取引所は有名だ。堺でも同じようなものを作ろうとする動きはある。だが、どの場所に作るか、土地はどうするか利権が絡み合って進んでいない。会合衆の会合でも話題に出ては揉めて流会になる。
取引所の影響は大きい。駿府より北と東、具体的には坂東と甲斐、信濃方面の相場は既にこの取引所の値に左右されているらしい。上方をはじめとした西側からの品は、駿河を経由して坂東や甲信へ渡っている。
「堺の大店に褒められると照れ臭いな」
取引所の喧騒を眺めながら助五郎さんと話を楽しんでいると、聞きなれた声が後ろからした。
「こ、これは治部大輔様」
「ご無沙汰しておりまする」
座布団と呼ばれる
「わざわざお越し頂き恐悦の極みにございます」
「うむ。納屋と天王寺屋こそ遠路はるばるご苦労であった」
「いえいえ、治部大輔様におかれましてはこの度のご婚儀、誠におめでとうございまする。堺の会合衆を代表しまして、私どもより謹んでお祝い申し上げまする」
「ほぅ。納屋と天王寺屋としてだけではなく、会合衆としても祝ってくれるのか」
「はい。お祝いの品は堺からお納めさせていただきます。もちろん納屋としても、天王寺屋としてもお納め致しまする」
治部大輔様は此度北條家より姫君を側室に迎えられた。既に駿河から坂東へは荷の流れが年々増えているが、この盟約によって益々増えるだろう。商いをする者にとってもこの盟約は好ましい。堺にも何かと富をもたらす治部大輔様にご祝儀を会合衆として拠出するのを反対する者はいなかった。
「ま、その辺の話は明日館でしよう。館ではゆっくりと話せぬと思ってな。今日は時があって、なおその方らが人目を憚れる場にいると言うではないか。少々話したいこともある。邪魔させてもらった」
なるほどそういうことか。助五郎さんと顔を見合わせて頷く。治部大輔様と話せる機会ならば幾らでもありがたい。こちらとしては大歓迎だ。
「ありがとうございまする」
助五郎さんが話ながら嬉しそうに頭を下げる。私も同調して同じように頭を下げる。
「うむ。権右少弁とは面識があろう。それに俺の大蔵方でもあるゆえ連れだった」
「久しいの。権右少弁でおじゃる」
治部大輔様の紹介を受けて権右少弁様がお声を掛けて下さる。
前回は茶の湯の席をご一緒した。茶席という事もあってか私にお気遣い頂いたが、緊張した事を覚えている。治部大輔様の金庫番だ。お二方を前に、胸の内が高まっていくのが分かる。
「上方の動きはどうだ。筑前守殿が力を増しておるだろう」
「はい。昨年に行われた内藤備前守様による丹波攻めに続いて、今年は三好日向守様が播磨に出兵されておりまする。筑前守様のお力は畿内で並ぶ者おらずにございまする」
上方の動きを問われれば三好様の動きが大きい。もっとも、治部大輔様もご存知であったのか“であるな。物の値はどうだ”と続けて問われた。鋭い目線だ。試されている様な気になる。いや、これは試されているのだ。
「総じて上がっておりまするが、それ程ではありませぬな。こんな事を申しては何ですが、公方様が朽木谷に行かれて落ち着いておりまする。これは商家だけでなく貴人様も同じのようで」
私が話し終えてお二方の顔を覗くと、大きく笑いながらお応えになられた。
「フフフ、力も無いのに三好を倒す倒すと叫び続け、大した結果もないからな。その身体に首がつながっているだけ良かったな」
「ほほほ、左様でおじゃりますな」
治部大輔様は公方様や幕府の存在を歯牙にもかけていない。公方様の扱いがここまで低いとは……。助五郎さんと顔を見あわせると、治部大輔様から“誰の事とは言っておらぬぞ”と笑いながら声を掛けられた。
知っている情報を話したところで治部大輔様は面白くあるまい。この方は利につながる話には利でお返し下さる。あの話をさせていただくとするか。
「南蛮の動きが活発になっておりまする」
私が居住まいを正して南蛮の話を繰り出すと、治部大輔様が先程まで楽しげに浮かべていらした笑みを隠された。
「ほぅ」
目で続きを促される。
「はい。遠く九州は肥前国に平戸という地がございまする。その地を拠点とする南蛮商人がおりましてな。先日堺に来ておりました。彼の者に駿府の事を話しておりまする。興味深く聞いておりましたぞ。遠からず駿府に参るかと存じます」
「それは重畳だな。領内の湊には南蛮船が来たら丁重に扱うよう触れを出しておこう」
「よろしくお願いいたしまする」
「さて、南蛮の者は何を売って何を買ってくれるかな。楽しみであるな権右少弁」
治部大輔様が含みのある笑みを浮かべて権右少弁様に話しかける。
「ほほほ、そうでおじゃりますな。何を買ってくれますかのう。堺に行った時の様子を参考にするならば茶、漆器、陶器あたりが売れそうでおじゃりますな」
権右少弁様の予想は的確だ。おそらく仰せの通りとなるだろう。南蛮人が駿府を知れば間違いなく堺に来る船は減る。我らも駿府での儲けを増やさねばならぬ。
「そうだ。納屋と天王寺屋に伝える事があった」
治部大輔様がおもむろに扇子を口元に運んで話される。
「何でありましょう」
ご様子からすると悪い話では無いだろう。手を付きながら治部大輔様のお顔を伺う。
「豆州で樟脳の大幅な増産に成功している。増えた分の差配をその方らに任せよう」
「樟脳の増産分を手前どもに!ありがとうございまする」
助五郎さんが嬉しそうに応じるのに合わせて私も頭を下げる。
これよ。このお方は商家の事をよく分かっていらっしゃる。
思わず笑みが零れた。
天文二十三年(1554)八月中旬 尾張国春日井郡安食村 坂井 友綱
「殿、上総介の軍勢約七百が前方に現れましてございまする」
「さ、左様か。あい分かった」
永楽通寶を飾った特徴ある軍旗を棚引かせた、弾正忠家の手勢が来たことを告げると、我が殿織田大和守様が応じられた。あまり感情を表に出されない御方であるが少し声が上ずっている。意外と肝が小さいのかも知れぬ。武衛様を刃にかけてからこの調子が続いている。
六日程前に尾張守護で武衛様と呼ばれていた斯波左兵衛佐義統様を討ち取った。大人しく、傀儡らしい生活をしていてくれればよかったのだが、最近は大和守様を飛ばして上総介や勘十郎を呼び出し、何かと指示をされていた。守護に対する敬意を払わない大和守様や儂の事を面白くないと思っていたようだ。病死にでも見せて子の岩龍丸さまに挿げ替えようと思っていたのだが計画が露見した。毒を盛らせようとした女中が吐露したようだ。
清州城にくれば殺されるとでも思ったのか、それから武衛様は屋敷に籠るようになった。どうしたものかと思案していると、岩龍丸さまが涼を取りに手勢を率いて川へ出かけた。白昼堂々に屋敷を攻められるとは思っていなかったのだろう。屋敷に残った武衛様を急襲して討ち取った。守護を討ち取ったわけだが、弾正忠家の他には特に非難は無かった。それもそうだろう。守護とはいえ武衛様は特に何かしていた訳ではない。主な裁定はほとんど大和守家が成してきた。大和守様が守護の代わりとして差配されれば何の不都合もない。そして大和守様は儂が転がしているようなものだ。後は目の前の上総介を潰せば尾張は我が掌中に入ったも同然という事よ。
「大膳、味方はどうなっておる」
「はっ。左翼に河尻左馬丞殿率いる約二百、右翼に織田三位殿率いる約二百、正面には我等本隊が約四百で、総勢約八百名にて応戦致しまする。兵力は我が方が優位にございまする」
「勘十郎はどうした」
「まだ到着しておりませぬ。随分前に使者は出したのですが」
「今一度出せ!勘十郎の、末森城の兵力が我が方に付けば戦は終わったも同然よ」
「御意にござりまする」
大和守様の下知を受けて使い番を今一度準備する。勘十郎め、大事な時に手を煩わせおって。今川から内々で貰った金子をどれだけ注ぎ込んでやったことか。
「申し上げまする!」
上総介の手勢に動きが無い。しばらく睨み合っていると、伝令役が慌ただしく登場した。見覚えのある顔だな。そうじゃ、先ほど勘十郎への使い番に出したばかりの兵では無いか。
「如何致した」
「はっ、織田勘十郎殿、約八百を率いて参陣。相対しておりまする」
「何だと!?」
思わず握っていた扇子を落とした。使い番の申した方角を確認すると、先程までいなかった新たな軍勢が目に見えた。
「か、勘十郎が裏切ったか!」
床几に腰かけている大和守様が焦ったように声を上げる。勘十郎の寝返りで敵の方が二倍近い兵を抱える事になったのだ。気持ちは分かるが兵の前で不安を露にし過ぎだ。やはり肝がお小さいの。
「その様にございまする。大和守様、ここは致し方ありませぬ。清洲城へ引き上げましょう。この兵力差で野戦をして勝つのは難しゅうございます」
"うむ"
大和守様が頷くや、清洲城への撤退を指示する。左馬丞殿には悪いが殿を務めてもらうか。全く慌ただしいの。
"ワァー!"
"かかれぇー"
"守護様の仇討ちぞ!"
撤退の差配をしていると、先程まで静かだった上総介の軍勢がどっと攻めてきた。三位殿や左馬丞殿の手勢が応戦をしている。
"何だあれは!"
味方の倍は長さがあろうかという槍を持った敵が、味方の前線部隊を薙ぎ倒していく。味方の槍は全く届いていない。
不味い!想像以上に押されるのが早い。これでは撤退処ではない!
「弓放て!如何に長い槍とて弓には叶わぬ!」
「しかしそれでは御味方にあたりまする!」
儂の命に家臣の齋藤権兵衛が渋い顔をする。
「山なりに放てば良かろう!多少の被害はやむを得ぬわ」
自分でも可笑しな事を申していると思いながら下知をする。
大和守様は……逃げようと馬に乗ろうとしている。ええい、当てにならぬ!儂が手勢を支えるしか無い。儂が困ったような顔でもすれば味方は崩れる。下手な下知でも黙るよりはマシよ!
味方の弓隊が矢を射掛けた。多少は敵に被害が出た様だが弓の数が少ない!もうもたぬ。撤退の命を出そうとしたが、すでに身軽な弓隊は我先にと撤退を始めている。
"だめじゃ!"
"に、逃げろ"
味方の陣のあちらこちらから悲観的な声が聞こえてくる。
こうなっては厳しいな。おそらく味方は総崩れじゃ。儂も逃げるとしよう。
「と、殿。どちらに」
権兵衛が訝しんでいる。
「この崩れ様では清洲まで持つか分からぬ。それに持ったところで清洲城を守りきれるとも思えぬ」
"織田三位様御討ち死にございまする!"
"河尻左馬丞様、御討ち死にございます!!"
馬に乗ろうとしていると、手傷を負った使い番が右翼と左翼のそれぞれから報告に来た。
「報告ご苦労。その方も清洲城へと引くがよい」
使い番の二人が“はっ”と応じながらも左翼と右翼に戻っていく。律儀よな。味方の撤退を手伝うつもりなのだろう。正直に言えば、もはや儂にはどうでもよかった。馬の腹を蹴る。さ、行くぞ。
どれだけ走っただろうか。最初は儂の名を呼んで慌てていた権兵衛も、途中で儂の意図が分かったのか静かになった。馬を休ませる最低限の休息を挟みながら東へ駆け抜けた。三河には入っているはずだ。辺りに人が住んでいる気配は無い。苅屋辺りにいるとは思うのだが……。
「坂井大膳亮殿とお見受け致しまする」
「何者かっ」
行商のような男が二人、道の先に立っている。権兵衛が儂を守るように吠えた。落ち延びる時に覚悟はしたとはいえ、権兵衛と儂の二人だけになっていた。
「雪斎禅師の使いにござりまする」
やはりそうか。一目見た時にその様な気はしたのだ。
「如何にも、某が坂井大膳亮にござる」
弾正忠家を潰して大和守家を転がせば、儂に大部分を所領として認めてくれる約束だ。色々と上手くいかなかったが、上総介と勘十郎は指図通り対立させた。此度は手を取ったようだがすぐに仲違いするだろう。儂は今川のために何かと骨を折ってきた!
「図らずもこのような結果となったが安全な地に落ち延びたい。太原雪斎殿にお取り計らい願いたい」
乱波に頭を下げるのは気が引けたが、雪斎殿の使いと思えば致し方ない。頭を下げると二人の男が顔色も変えずに刀を構えてきた。
「何の真似だ」
権兵衛が再び声を上げる。
「禅師からは大膳亮殿を冥土にお送りするよう命を受けておりまする」
……儂は用済みという事か。気づけば二人だけでなく、他に何人もの男が我等を囲んでいた。流石は雪斎殿よ。無駄が無いわ。これだけ囲まれていては逃げる事も叶わぬ。権兵衛には悪い事をしたな。来世ではもっと報いてやろう。
音もなく向かってくる乱波達を前に心は落ち着いていた。
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