第七十六話 側室




天文二十三年(1554) 六月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 聡子




「……。」

ふと目が覚めると、隣の布団に彦五郎様のお姿が無い。辺りを見回すと縁側にお姿が見えた。

「起こしてしまったか。少し目が覚めてしまって外を眺めていた。梅雨の間の晴れ間で星が美しいぞ」

殿が縁側に腰掛けて星を眺めている。雨戸に腰を預けて砕けた姿勢だが、それがまた絵になる。

「聡子?如何した」

見惚れていると、彦五郎様が心配されたようなお顔で私にお声を掛けてくださる。

「いえ、失礼致しました」

「うん?」

彦五郎様が今度は不思議そうなお顔をされている。

「いえ、見惚れていたのです。皆まで言わせないでくださりませ」

「で、あるか」

彦五郎様のお側に近づいて空を眺めると、星々が煌びやかに輝いていた。

「美しゅうございますね」

「そうであろう。今少しすると日が昇る。星は消えてしまうが次はひぐらしの声が聞こえてくる。この時期は蒸し暑いが、風流を感じるにはいい頃だ。嫌いではない」

「上方では彦五郎様の事を歌の名手と呼ぶ御方もあらしゃいましたが、今のお話を聞けば誠だと思われるでしょう」

「そのような噂誰がしているのだ。俺は名手などでは到底ないぞ」

苦笑いを浮かべながら彦五郎様が仰せになる。彦五郎様が私に時折見せてくれる本音のお顔だ。この御方の事を畏怖している寺社仏閣の者達が見たら驚くだろうな。もっとも、そうした者達にこのお顔をお見せになる事は無いだろう。


彦五郎様の胸元にもたれると、優しく包むように頭を撫でて下さった。静かな時が流れる。

「もうすぐ北條の姫君がお見えになりますね」

思っている事が零れるように言葉となって発せられる。

「そうだな。気になるか」

「気にならないと申せば嘘になります。あなた様とはまだ、その、重ねておりませぬゆえ」

「同衾の事か」

恥ずかしくなって彦五郎様の胸元で顔を隠すと、静かに笑いながら“案ずるな。北條の姫はまだ九つだぞ”と耳元で囁かれた。それは存じている。北條の姫君が幼いと聞いて安心はしたのは確かだが、私の不安はそれだけではない。

「姫君が幼い事は存じております。それに以前彦五郎様が仰せになった事は覚えております。なれど奥が一人増えると言うのが不安で……」

「で、あるか。此度の事は聡子に大分気苦労を掛けたようだ。すまぬ」

彦五郎様は私を十分に大事にして下さっている。私が成長するまで今しばらく重ねる事も控えると仰せだった。これだけ大事にされているのに今以上を望むのは無礼なのかもしれない。だが今一度お聞きしておきたかった。顔に出てしまっただろうか。彦五郎様が優しげな顔を浮かべて話し掛けて下さる。

「これは義兄上にも申し上げた事だが、俺は順番を間違えるつもりは無いゆえ安心して欲しい。それに……これは俺と聡子の間の内密な事だが……」

殿が秘密だと仰りながら続きを私の耳元で話される。

"俺も必死に自重しているのだ。そうだな、後二、三年かな。本当は今すぐにでも聡子と……どうした?顔が赤いぞ"


身体が熱い。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。

「ひ、彦五郎様が悪うおじゃります」

「聡子が申せと言ったのではないか。俺のせいか?」

彦五郎様が笑っていらっしゃる。


ふと心のどこかで引っかかっていたものが取れて軽くなる。これ以上恥ずかしい顔を見られまいと布団にくるまり、彦五郎様に背を向ける。

"そういう所も愛らしいぞ"

縁側から彦五郎様のお声が聞こえる。

胸の高まりが収まらない。


“明日は遠出するのはどうだ。田子ノ浦辺りまで行ってみよう。馬車なら行って帰ってくる事が出来るはずだ。青々とした富士が綺麗だろう”

“うれしゅうありますが、政務はよろしいのであらしゃいますか”

“一日位よい。俺がいなくともまわる。聡子との時間の方が大事よ”


顔が熱くなっているのが分かる。彦五郎様に背を向けたまま“うれしゅうございます”と応えるのが精一杯だった。


今日はもう一度寝直す事は出来そうに無い。




天文二十三年(1554)七月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 義元




長い輿入れ行列の中頃に差し掛かると、馬車の普及に伴って領内では珍しくなった輿が見えた。日の光を浴びて、三つ鱗の家紋が煌びやかに光っている。北條領から丁寧に、慎重に運ばれた輿が館の前に到着すると、治部大輔の軍楽隊が勇壮な音楽を奏で始めた。曲名はたしか“今川円舞曲”だったな。はじめ治部大輔はもう少し静かな曲を用意していた。坂東から来る者達をあまり驚かせぬ様に気を遣おうとしたらしい。その気遣いは無用だと伝えるとこの曲が用意された。譜面は専門の者が作っているようだが、音の調べは息子が作ったらしい。予行で初めて聴いた時には余も驚いたが、中々この場に合っているではないか。北條家の者達が面食らった顔を浮かべているのが愉快だ。


しばらくすると、北條の者達が思い出したかのように動き出す。輿の御簾が上げられると、まだあどけなさを残した少女が降りて来た。

「北條左京大夫が娘、春にございます」

「うむ。余が今川参議義元である。遠路はるばるよう参った」

余が名乗ると、春姫が緊張した面持ちで頭を下げた。

「治部大輔氏真にござる。これからよろしく頼む」

治部大輔が笑みを浮かべながら姫に向かって名乗る。ほぅ。あのような顔もするのだな。


「道中不都合は無かったか」

治部大輔が春姫を労っている。

「はい。道がよく整備されていて輿が揺れず疲れませんでした。輿を持ってくれた者たちも、今川様の領内は歩きやすいと申しておりました。それに斯様に多くの皆々に迎えて頂いて、春は驚いておりまする」

春姫が顔に少し朱を帯びながら応える。海道の寺社には北條からの輿入れ行列を迎えるよう布告を出しておいた。今また館前では家臣たちが総出で出迎えている。名代として来ている松田左衛門佐も悪い気はしないだろう。左京大夫に今川は姫を手厚く迎えたと報告するはずだ。




館の中に移ると、色直しをした後に婚儀が挙行された。北條の者たちもこの婚儀のために昨夜は清見寺で休んでいる。疲れは取れたのか気持ちがいい飲みっぷりだ。特に左京大夫の名代として来ている左衛門佐は次々と酒杯を空けている。今回の婚儀に向けた調整を北條方で担った遠山甲斐守は静かに酒を進めている。後で余から声をかけてやろう。まずは北條の姫君へ声掛けだ。


「春殿、慣れるまで少し時間は掛かろうが、この館を我が家だと思って寛ぐがよい」

「はい。ありがとうございます」

春姫はまだ八つか九つだったな。顔には姉上の面影があるが、この姫の落ち着き様は姉上とは異なるな。姉上は母上によく似て芯があり、闊達な方だった。余が家督を継いで北條と敵対すると、一人では寂しかろうと駿河への帰国を促したが、北條の人間になったのだから帰らぬと譲らなかった。先日、久々に来た姉からの文には娘をよろしく頼むとあった。姉からの文には少し悠然としたところがあるとあったがどうだろうか。


身内が座っている方を眺めると、母上が優し気な顔を浮かべて春姫を眺めていた。母上にとっては治部大輔も春姫も孫にあたる。微笑ましく思っておられるのだろう。その母上の横には治部大輔の正室が座っていた。公家の娘で、それに難しい年頃だ。側室を迎える事に少し心配をしたが、見たところ落ち着いているようだ。治部大輔の事だから問題は無いと思うが、正室と側室の手綱を上手く握るよう申しておかねばならぬな。


後は武田から北條に輿入れが成されれば盟約は盤石なものになる。三河が少し煩い事になっているが後顧の憂いは絶った。三河を固め、尾張を切り取ってくれる。




天文二十三年(1554)七月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 由比 静




「それでは春姫さま、いや、奥方様。憲秀はこれにて小田原に戻りまする」

北條家家臣で、左京大夫様の名代として婚儀に見えている松田左衛門佐憲秀様が奥方様に頭を下げると、遠山甲斐守様をはじめとした、輿入れに伴って見えた北條様の家臣団が一斉に頭を下げた。奥方様が左衛門佐様のお顔をご覧になりながら寂しそうにされている。左衛門佐様は北條家の家老で家中ではかなりの名門とお聞きしている。奥方様とも縁が深いのかもしれない。


「今川の義父上は春に良くしてくださいました。治部大輔様も良いお人に見受けられました。父上に、春は元気にしていると伝えてくだされ」

まだ声変わりもしていない幼いお声で、奥方様がしっかりとお応えになる。奥方様が左衛門佐様のお顔をご覧になった後、私の顔を覗かれる。笑みを浮かべて頷いた。


春姫様の輿入れにあたり、私は聡子様付きから春姫様付きの侍女に役替えがあった。若殿から直々に、聡子様とも縁があり、今川家中にも顔が利く私に侍女を頼みたいと仰せだった。若殿に頭を下げられてはお断りできない。それに次々と大事なお役目を与えて下さる若殿には感謝をしている。人使いが荒いところがあると苦笑はしてしまうけれど……。


「静殿、奥方様をよろしく願いまする」

「しかとお受けいたしました」

左衛門佐様が私に頭をお下げになると、北條から付いて来た侍女たちも続けて頭を下げてくる。若殿によって、北條の方々には予めお話が通っていたらしい。私が亡き定恵院様の侍女で、今は聡子様のお付きだという事も。それを聞いてか北條の侍女たちは私に気を遣ってくれているようだ。あまりうれしくは無い事だけれど、歳も私が年長になりそうだ。皆を纏めるにはやり易いかもしれない。



松田左衛門佐様がお帰りになると、荷解きが始まった。家具や着物、化粧道具等、ご持参された荷物を片付けていく。北條家から来た侍女たちが、部屋が思っていたよりも広いと喜んでいる。若殿が北條家の者に確認をして大きい部屋をご用意されたのだろう。あの方はそういう事に抜け目がない。


「奥方様、治部大輔様より奥方様にお渡しするよう仰せつかっているものがございます」

粗方の荷解きが終わったのを受けて奥方様にお声を掛けると、奥方様が不思議そうな顔を浮かべて私の顔をご覧になった。愛くるしいお顔だ。

「こちらのお箱にございます」

上等な風呂敷に包まれた大箱をお渡しすると、“何かしら”と呟きながら包みを開けられている。

“まぁ”

箱に美しく描かれた今川と北條の家紋に驚かれている。だが、話はこれだけではない。

「これは」

「治部大輔様御自ら選ばれた櫛と簪、化粧筆にございます」

奥方様が櫛を撫でるように持ちながら“うれしい”と呟かれる。

“よろしゅうございましたね”

“綺麗な櫛ですね”

侍女たちが色めきだっている。


今しばらくしたら彼女たちも驚くことになるだろう。

若殿からは、奥方様のように箱や簪までは無いが、侍女たちにも櫛を渡すよう託されているのだから。




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