第七十四話 善得寺の会盟




天文二十三年(1554)三月中旬 相模国相模国足柄下郡小田原町 小田原城 北條 氏康




庭から鳥の囀りが聞こえる。これは四十雀しじゅうからかの。まだ肌寒いと感じるが、鳥達にとっては待望の春なのかも知れぬ。しばらく忙しなくて鳥の声など気にしていなかったな。原因は三國の盟約と春の輿入れに向けた準備があるからであるが、片方はもうすぐ方が付く。明後日には駿河に向けて立つ予定だ。


「父上、こちらでございましたか」

家臣宛の文を書いていると、嫡男の新九郎氏政がやって来た。

「新九郎、如何致した」

「武田の姫を迎える準備で母上の小言が何かと五月蠅いのでこちらに参りました」

「小言とな」

「夫婦仲睦まじくやるにはどうすれば良いなど、色々とお話が多くて困りまする。そもそも姫が来るのは冬にござりまする」

辟易したような顔を浮かべて新九郎が愚痴をこぼす。

「まぁそう申すな。奥はそなたの事を思って申しているのだ」

儂が諭すと、新九郎が“はい。それは分かっておるのですが”と応じた。新九郎は真っすぐ良い男に育ったが、少し人が好過ぎるかも知れぬ。上手く、適当にあしらえば良いのだ。


「明後日には駿河に向けて出立でございまするな」

「うむ。儂の留守中は頼むぞ」

「お任せくだされ。父上こそ今川の地に向かわれるのです。お気を付けくだされ」

新九郎が儂の身を案じている。時には息子に心配されるのも悪くないの。

「確かにの。伊豆が今川の地になった今、会場の善得寺はかなり奥地と言える。気を付けるとしよう」

儂が話すと、新九郎が口を堅く結んで頷いた。真剣に心配をしてくれているようだ。ま、心配は嬉しいが大丈夫だろう。駿河入りには二千の手勢を用意する事に加えて、此度の盟約は二國間ではなく三國で結ぶものだ。互いに牽制しつつ、利を分け合う関係になる。当日は当主が集いて改めて内容の確認を行うだけだ。今川もここまで来て無駄にする事はせぬだろう。

「しかし父上を呼びつけるとは、相変わらず今川は高飛車でございまするな。我等を家臣とでも勘違いされているのでありませぬか」

「新九郎、言葉に気を付けぬか。父の前でなら良いが、どこに耳があるとも限らぬ」

新九郎が今川に対する不満を口にする。気持ちは分からぬでもない。今川は何かと当家に対して上から目線だ。確かに早雲公は今川家の家臣だったがそれも今や大昔の話だ。


「今川が我らを家臣のように扱ったとて気にしなければ良い事よ。かつては主と仰いで援軍を出させ北條の兵を温存した事さえあった。我が父がそうであったな。大事な事は利を得るか否かよ。その点、此度の盟約には利がある。駿河と甲斐方面を盟約によって固める事で、我らは関東に専念できるのじゃからな」

「差し当たっては古河公方でございますね」

新九郎が次の標的として古河公方を上げる。その通りだ。中々良い読みをしている。古河公方は一昨年に儂が今の公方に替えたが、先代の左兵衛督が不穏な動きを見せている。同盟と今川への輿入れを済ませたら早々に潰さねばならん。


「うむ。古河城攻めにはその方も出陣せよ。経験になるはずだ」

「はいっ」

新九郎がうれしそうに応じた。春が嫁ぐ治部大輔殿は新九郎と同い年であったな。新九郎と同い年でありながら幾度となく戦場を経験し、今や二カ国を収めている。昔会うた時に片鱗は見せていたがやはり傑物だったようだ。我が娘を側室にというのが口惜しいが、治部大輔殿の器量ならばこれからも側室は増えるかも知れぬ。ならば早い方が良い。春には夫の人となりを文で書くように伝えねばならぬな。

フッ、今から楽しみよ。




天文二十三年(1554)三月中旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




「おめでとうございまする」

「「おめでとうございまする」」

左馬助が儂に向かって姿勢を改めながら言祝ぐと、嫡男の太郎、刑部少輔信廉、飯富兵部少輔、駒井高白齊、馬場民部少輔等が続けて祝いの言葉を述べた。

「うむ。ありがとう」

一息おいた後、皆の顔を見ながら礼を告げる。

「御屋形様、かつては互いに争う中であった三國が盟約を結ぶ事になるとは不思議な感じが致しまするが、まずはおめでとうございまする」

左馬助が奥に物が引っ掛かったような物言いをする。相変わらず左馬助は駿河に思う所があるようだ。

「不思議な気持ちなのは某も同じでござるが、この盟約は長尾と戦うにはもってこいの盟約にござる」

「刑部少輔の言うとおりじゃ。長尾との戦いに専念するためにもこの盟約を大事にせねばならん。ま、此度の盟約を有り難がっているように見せるのも面白くない。今川殿には恩着せがましくしておこう」

儂の言葉に皆が頷く。皆、この盟約が大切だと分かっているのだ。


昨年、北信濃の国人、村上少将の支援に長尾が兵を出した。風前の灯であった北信濃の国人達が長尾の支援の元で粘っている。長尾は片手間で倒せる相手ではない。


「上洛して意気軒昂な長尾に対して上手に出るためには背を気にしてなどおられませぬ」

兵部少輔が身を乗り出すようにして話す。その通りだ。長尾弾正少弼景虎は小癪にも上洛をし、畏こくも帝から敵を打ち払うよう御言葉を賜ったらしい。その敵に武田が入っているとは思いたくないが、帝に拝謁した事で弾正少弼の威は増している。北信濃の国人達には、淡い期待を持たせぬよう武田の全兵力をもって早めに叩く必要がある。


「年の瀬には梅姫様の輿入れが控えておりまする。恙無く終われば後は長尾との戦いに専念できまする。一先ず今年は民の慰撫と婚儀を滞りなく行う事が肝要にございまする」

今回の外交を取り仕切ってきた駒井高白斎が血気盛んな兵部少輔を諭す。

「高白斎の申す通りじゃ。盟約の根拠となる梅の婚儀が控えておる。梅に寂しい思いをさせぬよう婚儀は盛大にやってやりたい。皆頼むぞ」

「「はっ」」

婚儀の列はやはり一万は必要だな。今川から太郎に来た室よりも劣る行列には出来ぬ。少し無理はするが梅のためじゃ。何とかしてくれよう。




天文二十三年(1554)三月中旬 駿河国庵原郡由比村近郊 今川館 今川 義元




「快適そのものだな」

清見寺を後にすると、馬車が東海道を東に向かう。馬どころか輿よりも揺れが少ない。道が整備されているからだろう。

「その通りですな。三島までこの調子で整えられているようでございまする」

斜め向かえに同乗する雪斎が余に向かって応える。禅師と話をしながら向かう事が出来るのも良い。馬でも話は出来るが気を付けねば舌を噛む。馬車ではその様な心配は不要だ。


「治部大輔の開発で田子ノ浦や富士が栄えているらしいな」

「そのようですな。田子ノ浦はこの後立ち寄ってご覧頂く予定でござりまする。駿河の特産品を買いに来る商人達によって甲斐や相模との商いが盛んになっているとの事。ま、田子ノ浦が賑わえば、府中はさらに賑わいまする」

「特産品か。最近では新たな特産品として砂糖を作っているらしいな。朝廷にも献上しているとか。山科内蔵頭からの文に朝廷では大層喜んでいるとあったぞ」

「そのようですな。お陰で若殿の砂糖は随分と高値で取引されていると聞き及んでおりまする」

「誠に不思議なやつよ。軍略といい領国を治める力といい申し分無い。余は子に恵まれたようじゃ」

車窓を眺めながら呟くと、"フフフ、そうですなぁ"と雪斎が笑う声が聞こえた。雪斎も治部大輔の事を可笑しく思いながらも認めているのだろう。尾張を下したら隠居して全てを治部大輔に任せるのも良いかも知れぬ。


遠くに由比の湊が見えた。由比の景色をゆっくり眺めるのは久しいな。以前眺めたのは何時だったか。小田原に向かう兄上を見送る時だったか、河東の戦いに向かう時だったか……。定かに覚えていないが、今映る姿ほど船が停まっていなかったのは間違い無い。ここでも国が豊かになってきていることを感じた。


「街道が整えられているのならば、さぞかし三島も栄えているのだろう」

「左様でございますな」

「善得寺に向かう途中、左京大夫は三島の景色を眺めるだろう。自らが治めていた頃よりも賑やかだと驚くに違いない」

「このわずかな間の変わり様に驚く事でしょうな」

「だが、今川と北條の関係を示すには丁度良い。文の書き振りを見ると、どうも左京大夫は我等と対等だと思っているようじゃが烏滸がましい事甚だしい。運よく版図を広げたからと言って我等と並ぼうとはの。我が今川の力を見せつけるに丁度良いわ」

何時ぞやの和議の場で見た左京大夫の顔が口惜しんでいるのを想像して溜飲を下げる。


尾張と三河に不穏な動きがある中、ここは北條に今川の力を見せつけておかねばならぬ。左京大夫には今川の力は揺るぎ無しと感じさせ、坂東にその目を向けさせる必要がある。伊豆は北條にとって思い入れの強い土地だからな。弱みを見せると牙を向けて来かねぬ。




天文二十三年(1554)三月下旬  駿河国富士郡今泉村 善得寺 今川 義元




「お待たせ致した。失礼致す」

武田大膳大夫と部屋で待っていると、北條左京大夫が姿を現した。雪斎が左京大夫に席を案内する。流石に歳を取ったように見えた。前回会ったのは十年近く前だと思えば当たり前か。向こうも余を見て同じことを思っているかもしれぬ。

「久しぶりじゃのう。左京大夫殿」

「これは参議殿。お互いに歳を取りましたな」

「誠に誠に」

左京大夫が僅かに笑みを浮かべて話しかけてくる。笑みを浮かべると随分優男に見えるな。あまり濃くは無い口髭が何とか威厳を出している。


「御二方とも、わざわざ我が領国まで足労を頂いて申し訳無い」

「躑躅ヶ崎からこの地までは大した距離ではござりませぬ。お気遣いは無用にござる」

「大した距離では無いのは小田原からもじゃ。それに此度通った道は我が領だったこともあれば、道には慣れておる。気遣いは無用じゃ」

形ばかりとは言え、我が領に出向いてもらったのを労うと、大膳大夫と左京大夫が笑いながら応えてきた。二人とも声は明るいが目は笑っていない。富士の麓を抑える我が今川を羨んでいるのかも知れぬな。甲斐の山国、坂東の小田原から近くて遠いのがこの富士の地よ。駿甲、相駿、それぞれの国境には今や要塞がある。二度と我が領で無くなることは無い。


「左様でござるか。しかし今日の日に集えてようござった。ご覧なされ。今日は富士がよう映えておるでござる」

余が手で富士の方を指し示すと、大膳大夫と左京大夫が“おぉ、確かに”と唸った。三人とも富士が目に入るような位置に座している。同席を許されているのは雪斎と寺の僧が何名かだけだ。

「誠に神々しいお姿じゃ」

左京大夫が余の言葉を受け、富士に向かって手を合わせる。こういう仕草をするところ左京大夫は年長なだけあるな。静かに座って富士を眺めるだけの大膳大夫にはまだ若さを感じる。大膳大夫は経験不足と言うか、あまり場慣れしてないのだろう。甲斐の山国にいてはやむを得ぬ。さて、早々に本題に入るとしようか。

「本日この場へと御二方に来てもらったのは他でもない。雪斎を通じて粗方聞き及んでいただいていると思うが、甲相駿の三國で盟約を結びたいと思うたからでござる」

二人の顔を見ながら話すと、二人がゆっくりと頷いて応じた。


「我が今川と武田家の間では既に一昨年、我が娘嶺が嫡男太郎殿に嫁いでおる。新たな縁が必要なのは今川と北条家、武田家と北條家の間でござる」

「北條殿には我が娘梅を差し出しましょう」

「うむ。それでは今川殿には我が娘春を差し出そう。できれば正室にと思うが、御嫡男殿には既に近衛の奥方がおれば、無理は申しますまい」

「治部大輔には左京大夫殿の姫も大事にするよう申し伝えよう」

「御頼み申す」

三人で互いの顔を見合う。妙な緊張感よな。


「ではまず北條家より我が今川へ姫君を、その後は武田家より北條家へ姫君を遣わす。先の交渉の通り、夏と冬に行うとしよう。この婚儀がなった時に三國は固い盟約で結ばれる。三國は互いに不可侵、敵との戦いには互いに助け合うという事でご異議は無いかな」

「うむ。異議はござらぬ」

「某もございませぬ」

三当主がお互いに応じると、盟約の内容を示した文書を雪斎が持ってくる。余は予め確認してあるし、今申した内容だ。早々に筆を取って花押を書き入れた。余の次には左京大夫が、その次には大膳大夫が花押を書き入れる。余よりは時間が掛かったが、二人とも何も口にすることなく花押を書き入れた。


一連の同盟交渉を終えると、寺の僧が菓子と茶を運んできた。毒見役を介していないので二人は逡巡するかと思ったが、左京大夫が臆することなく菓子を食して“旨いっ”と声を上げた。顔に似合わず豪胆なところがある。余も食したが旨い羊羹だった。随分と甘さを感じる。治部大輔が作らせたものだろうか。

「正式な盟約は婚儀を以てでござるが、これで三家は縁戚になったも同然じゃ。いやなに、参議殿は三河でご苦労のご様子。いつでも我が兵お貸ししましょうぞ」

左京大夫が羊羹を召しながら甘い笑みを浮かべて話しかけてくる。

「これはこれは丁寧に痛み入り申す。なれどその儀は不要じゃ。我が兵のみで、それも遠江の兵だけで既に東三河は鎮めつつある。左京大夫殿こそ房総の水軍に手を拱いている様子。いつでも我が水軍をお貸ししまするぞ」

余が言葉を返すと、左京大夫が“はっはっは”と意味深に笑って話を終わらせた。草からの報告によれば、左京大夫は房総半島に勢力を持つ里見とかいう国人の水軍に手を焼いている。


「大膳大夫殿、武田は大事な盟友。聞けば長尾とかいう山向こうの守護代に苦労されているとか。必要ならば今川はいつでも兵をお出ししますぞ」

援軍ならば甲斐の山猿の方が欲しがっているはずだ。北信濃をめぐって越後と激しく対立をしている。援軍を出して武田の家臣団に今川の存在を植え付けておくのも悪くない。

「これは参議殿、お気遣いいただき嬉しゅうござる。なれど今のところは間に合っており申す。また必要な時には改めてお願い致す」

「はっはっは。左様か」


三人が顔を見合わせて無言になる。盟約を結んだはずだが、場には緊迫した空気が流れている。まるで戦場のようだ。いや、ある意味でここは戦場なのかもしれない。

「先に申した通り、三家は縁戚となるのじゃ。時にはまた集うとしよう。今日はよい話によい菓子、よい景色じゃった。しからばお先に御免」

「某も失礼致しまする」

左京大夫が席を立とうとすると、大膳大夫が後に続いて立ち上がる。わざわざ出向いて貰ったのだ。伽藍の入口位までは見送るか。

「入口まで見送ろう」

見送る事を伝えると、大膳大夫が頭を下げて、左京大夫が"これは忝ない"と仰々しく応じて先に歩き始めた。




戦場で刃を交えた男が余に背を向けている。互いに刀を持っていないとはいえ不思議な感覚よ。月日の流れを感じた。




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