第七十三話 嵐の始まり




天文二十三年(1554)一月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




皆大喜びか。それは良かった。義兄上たる右大臣近衛晴嗣からの文を読んでいて思わず笑みが出る。今年は毎年贈っている年始の祝いの品に、出来たばかりの砂糖を加えて献上した。朝廷でも近衛家でも大喜びだと書いてある。食べ過ぎは身体に毒だから気を付けるようにと返しておくとしよう。


砂糖とは言うが、今回出来たのは黒糖だ。残念ながら俺の知識では黒糖を作るまでが限界だ。前世で茶に関する旅行の際に和三盆の作り方を見たことがあるがうろ覚えだ。今後に向けた教育も兼ねて、相川村に置いて来た鵜殿藤太郎長照と井伊新次郎直親、松井八郎宗恒にうろ覚えの知識は伝えてきた。後は三人に期待しよう。この三人達にも文を書かなければならないな。農業政策によって俺の所領は豊かになっている。駿河と伊豆ではしばらく戦も無いだろう。当分は内政開発だと思っている。内政の重要性を皆が認識しているゆえ蔑む者はいないが、槍働きをしたい年頃だ。俺が頻繁に文を書いて期待していると伝えよう。そうすれば腐ることは無いはずだ。


うーむ。旨い。小休止に黒砂糖を使った羊羹をつまむ。黒糖の甘さが口に広がる。まろやかで優しい甘さだ。もう一つ違う種類の羊羹を頬張る。こちらは竹の皮の香りが微かにしてまた違った旨さがある。竹の皮を使って香りをつけるのは前世でよく食べた羊羹を参考にした。清水の追分という場所にある羊羹だ。元禄の時代から作られていたという伝統ある菓子だが、それよりも早い時代に作ってしまったな。何だか申し訳ない。口直しに煎茶を飲んでいると“失礼いたしまする”と声がした。狩野伊豆介だな。

「入れ。何用か」

入室を促すと、伊豆介が近くまで寄ってきた。神妙な面持ちをしている。何かあったと思わせる顔だ。顔が合うと、少し頷いて報告を促した。羊羹がまだ口に入っているけど急ぎの様子だし仕方無いよな。許せ。


「尾張の織田上総介殿、自ら兵を率いて村木砦を急襲、これを陥落せしめております」

思わず口から羊羹を吹き出しそうになった。

「村木砦だと?笠寺や鳴海の味方は何をしていた」

「はっ。織田勢は笠寺や鳴海といった御味方の前線には目もくれず、船にて知多半島に上陸し、水野下野守の緒川城にて僅かに休息の後、村木砦を急襲したとの事でござりまする」

船で上陸して奇襲攻撃とはやってくれるな。

「上総介は尾張に色々と敵を抱えていて援軍どころでは無いと思っていたがな」

「どうやら美濃の斎藤山城守殿に助力を願ったようでございまする。すぐに美濃勢が千程の兵力で尾張へ出兵して、清洲方面へ睨みを効かせておりました」

成る程な。斎藤道三に助力を願って背を固めて水野下野の救援に向かったか。笠寺や鳴海を無視する所が斬新だな。それに本拠地の守りをまむしの兵に任せるとは余程舅を信頼しているようだ。


「しかし美濃から援軍を呼んで船で知多半島までとは中々大掛かりだが、一連の動きには気付けなんだか」

ふと思った疑問を投げ掛けると、伊豆介が申し訳無さそうな顔を浮かべる。責を問うような形になるとは思ったが今後の事もある。釘を刺すためにあえて口にする。

「面目ございませぬ。美濃勢が那古野城の北側に着陣したと思いきや、すぐに上総介殿が城から出撃されました。熱田湊に向かうのでどこに行くかとは思ったものの、まさか村木砦だったとは」

「で、あるか。それで?その後はどうなっている」

「はっ、村木砦は抵抗をしたものの橋を上げ損ねて敵の侵入を許し、まもなく降伏した模様にございまする。笠寺、鳴海、桜中村の各御味方は静観しておりまする」

「橋を上げ損ねた?」

「日頃の荷を搬入する刻限を狙われたようでございまする。朝は開けておくことが多かったとか」

「愚かな。織田の援軍に水野下野は息を吹き返しただろう」

「はい。上総介殿の援軍に勢い付き、反今川の国人と盛んに連絡を取り合っておりまする」

「そうか。結果を見て言うに過ぎないが、砦が落ちるのを傍観どころか、形だけでも兵を出していないのは不味かったかもしれないな。今川頼りなしと国人共が織田に鞍替えしかねぬ」

俺が呟くと、伊豆介が静かに“はっ、すでにいくつか不審な動きが”と応えた。昔大河ド○マで毛利元就を見た時に、大内に付いたり尼子に付いたり忙しないと思ったものだが、今の三河も同じようなものだな。大きな勢力に囲まれて国人たちが右往左往している。織田よりも今川の方が力はあると思うのだが中々上手くいかないものだな。


「もどかしい気はするが、尾張三河方面で俺に出来る事は少ない。兵糧を保管するためという理由で今橋城の付近に砦をいくつか設けているが、それを拡充する位だな」

俺が呟くと、厳しい表情のまま伊豆介が頷いた。三河の混乱は酷くなると見ているのかもしれない。

「出来る事はしておく方が肝要にござりましょう」

「上手く行かないものだな。三河は今川のものになって幾久しいと思っていたが、そうでも無いようだ」

「三河武士は中々頑固者が多うございまするな。坊主も事をややこしくしておりまする」

「それもあるだろうが、織田上総介と斎藤道三の盟約も大きい。弾正忠家だけなら大したことは無いが、後ろに美濃が控えていると思えば今川と均衡していると言えなくもない。織田攻めに油断は禁物という事だな」

織田上総介信長が尾張で十五から二十万石持っているとすれば、美濃の道三が五十万石近くを有している。となれば今川と大して変わらない事になる。だが、確か道三は息子の義龍に追放されるはずだ。弾正忠家と美濃が手切れになれば今川の優位は確立する。残念ながら正確な月日は覚えてないな。ま、しばらく俺は内政だな。今のうちに出来る事をやっておこう。残った羊羹の最後の一切れを頬張って茶を流し込んだ。




天文二十三年(1554)二月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「お呼びでございまするか」

父上に呼び出されて部屋に向かうと、父上の他に御祖母様と雪斎、三浦左衛門尉、朝比奈備中守が控えていた。いつもの顔に宿老が二人か。

「うむ。来たか。そこに座るが良い」

父上に促されて腰を掛けると、皆が険しい顔をしているのが見て取れた。大方、いや、三河の話で間違いないだろう。

「加茂郡足助の鈴木兵庫助信重が叛旗を翻してきた。上野城の酒井将監忠尚にも自立の動きがある。存じているか」

俺は同じ報告を荒鷲から受けている。父上の顔を見て頷く。

「では設楽郡の奥平監物と菅沼大膳亮が再び不審な動きをしていることも存じておるか」

「存じておりまする。随分と兵糧を買い込んでいるとか」

「うむ。性懲りもない奴らよ。先の動きで情けを掛けたのが間違いであったわ」

父上が眉間に皺を寄せて呟く。

「御屋形様、これ以上不穏な動きが広がらぬよう、兵を率いて鎮圧すべきでございまする」

「左様でございまするな。幸い武田殿と北條殿との盟約により、後ろを気にする必要がありませぬ。ここは多くの兵を動員してでも三河を鎮めて固めるべきかと」

左衛門尉が意見をすると、備中守がそれに乗じて具申をする。いくら盟約を結ぶとはいえ、ある程度は守の兵を残す必要があると思うが、大軍での鎮圧には俺も賛成だ。


「拙僧は遠江の兵を中心に鎮めるべきかと愚考致しまする。あまり駿河の兵を動員しては落ち着きがなく見られまする」

「余も雪斎の意見に同意だ。駿河伊豆からの動員は控える。ここは遠江から六千程動かして松井兵部少輔に預ける。兵部少輔には東から順に叛徒共を潰させる」

なるほど、駿河の兵まで動かすと入らぬ謗りを受けると。そういう見方もあるのね。六千か。目を見張るほどの大軍ではないが、兵部少輔が既に預かっている兵と合わせると鎮圧部隊は八千近くなるな。順に潰していくなら時間はかかるが兵力としては十分だろう。問題は尾張と西三河がそれまで持つかだが重要な拠点である岡崎も苅屋もまだ味方が抑えている。心許なくはなっているが笠寺の前線まで補給路は繋がっているから大丈夫のはずだ。

「しかしこうも立て続けに反乱が続くとは落ち着きませぬ」

御祖母様が不安気に仰せになる。気持ちは分かる。三河は大方手中に収め、尾張侵攻までしているのに時が戻ったかのように揺れているのだからな。他にも続くのではないかと疑心暗鬼になる。

「ご案じなされますな母上。義元、此度は三河に厳しく参りまする。この乱を鎮めた時には三河は確実に我が今川のものとなっておりましょう」

「頼みますよ参議殿」

父上が“はい”と御祖母様に応えた後、“吉良が靡いておらぬだけ助かっておる”と俺の顔を眺めながら話しかけてきた。確かにその通りだ。吉良は三河の旗印になってきた存在だ。その吉良までが叛徒になるとややこしいところだが、上野介が左兵衛佐をよく抑えているようだ。靡くどころか唆してくる勢力の動きを逐一報告してくれている。家臣にしておいて本当に良かったよ。上野介にしてみれば、俺を裏切る選択肢等無いらしい。嬉しいねぇ。


「雪斎、兵部少輔には奥平監物と菅沼大膳亮は許せぬ。捉え次第処断せよと申し伝えよ」

父上が厳しい表情で雪斎に指示をする。戦国大名の顔だ。

「御意にございまする」

「上野城の酒井将監と足助の鈴木兵庫助は我が軍門に降る意志あらば今回は許す事を認める。二度も裏切った者は徹底的に処断するが、一度目の者は許して進ぜよう。今川の武威と懐の深さに感じ入って心改めるかもしれぬ」

「この左衛門尉、御屋形様の慈悲深いお心に感じ入りまする。なれど、やはり三河者は一癖ありまする。ここは思い切って将監と兵庫助も取り潰すべきかと」

「某も左衛門尉殿の意見に同意致しまする。尾張攻めにおいて後ろを刺されては落ち着きませぬ。信のおける者へ挿げ替えるが肝要かと」

「治部大輔はどうじゃ」

二人の宿老が意見を述べると、父上が少し笑みを浮かべながら俺に問うて来た。

「東三河に厳しくされるのなら西は多少寛容さも必要かと。余り厳しくあたって西三河が丸ごと織田に付かれても、隙を付かれて坊主に再び挙兵されても厄介にございまする」

大軍でもって三河を蹂躙して完全に平定する案も捨てがたいが、父上や雪斎の意見も一理ある。今の時点でどちらが正しいのか判断は難しい。であればここで父上の意に沿わぬ事を申して不興を買う必要も無い。上手く合わせて勉強させてもらうとしよう。

「うむ。治部大輔の言や尤もじゃ」

我が意を得たりとばかりに父上が大きく頷いた。今年は三國同盟の準備に何かと忙しいのに、信長のせいで何かと落ち着かないな。それに胃がキリキリするわ。茶でも立てて落ち着くとするか……。




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