第六十九話 伊勢




天文二十二年(1553)九月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「まぁ何と可愛らしい」

聡子が小振りの湯呑みを手に取って笑っている。

「夫婦用に同じものが二つある。少し濃い茶色が俺ので黄色の湯呑みは聡子のものだ」

「まぁ、私に下さるのですか。大切に使います」

聡子がニッコリと嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「俺が自ら作ったものだ。流石に焼きはその手の者に頼んだがな」

「殿が自ら!?真であらしゃいますか。殿から頂戴するのです。大切に、それはもう大切にと思うておりましたが、割ってしまったらと心配で、いよいよ使えないかも知れませぬ」

聡子が驚きながら一際嬉しそうにする。後ろに控える美代や静もにこやかだ。この後話さねばならぬ内容に気が重くなる。


渥美半島の開発が一段落して帰国してから、頻繁に聡子の所へ顔を出していた。顔を出すというよりはほとんど同棲だ。政務が無いときは聡子の所で茶を飲んだり菓子を食べたりしてゆっくりする。二人で書を読んだりもした。俺としても楽しかった。かなり仲睦まじくなったと思うが、先程父上からあった話をするとどうなるか……。


「今日参ったのは他でもない。込み入った話があるのだ」

俺が姿勢を正して神妙な面持ちで聡子に話し掛けると、侍女の二人が下がろうとする。

「美代と静にも聞いて欲しい。いずれ分かることだ」

立ち上がろうとしていた二人が腰を掛け直す。美代が何事かといった顔をしている。静は"まぁまぁ、改まって何でしょう"と陽気に、俺が話しやすい雰囲気を作ってくれている。


「相模の北條家が当家と盟約を結ぶ事を希望している。それで姫を俺に輿入れさせたいと内々に相談があった」

「「まぁ」」

侍女の二人が驚いている。聡子は驚きながらもゆっくりと頷いている。小さく"はい"と応えてきた。


「姫の母君は左京大夫殿に嫁がれた父上の妹、俺にとっては叔母にあたる。他の大名なら正妻として嫁がせるのだろうが俺には聡子がいるからな。左京大夫殿は側室でも構わぬからと押してきたらしい」

「殿の……、殿の名声は近隣諸侯だけではなく遠く朝廷でも聞こえております。隣国の左京大夫様が娘を嫁がせたいと思っても不思議ではあらしゃいませぬ」

聡子がか細い声で応える。

「戦国の世だ。いつかは側室もとらねばならなくなるかと思うてはいたが、予想よりも早くなった。許せ」

聡子には悪いが、ここで俺がごねた所で何も良いことはない。この話は進めるしか道がないと思っている。

「許すなどと。殿は聡子に十分優しくしてくれておりまする。これ以上何を望みましょうや」

聡子がしをらしく俺の顔を見て応えてくる。これは、あれだな。耐えている顔だな。


「無理をするな。輿入れしてくる姫の事も大事にせねばならぬだろうが、そなたへの想いが変わる訳ではない。聡子は俺にとっては掛がえのない大事な人だ」

「……ありがとうございまする」

聡子が頬に溢れた雫を袖で拭いながら応える。

「大事な人……。嬉しゅうございます」

聡子の顔に笑みが浮かぶ。侍女の二人もクスクスと笑っている。時が経つに連れてこそばゆい気がした。


「義父上と義兄上にもお話せねばならぬ。文でというわけにも行かぬだろう。近々上洛して参る」

「殿自らであらしゃいますか」

「俺の他に変わりはいまい。土産に何が欲しいか考えておくがいい」

「お気遣いは要りませぬ。それに殿が下さるなら何でも構いませぬ」

「そなたは欲が無いな。まだしばらく時がある。何ぞあれば言うといいぞ」

聡子に考えておけと伝えると、“西陣の反物をお願いいたしまする”と声がする。この声は静だな。侍女が座っている方を振り向くと美代が驚き、静が笑っている。

「私どもは殿が大事になさる御裏方様の侍女。龍王丸さま、侍女への気遣いもしておいた方がよろしいかと。左様に思われませぬか、美代殿」

静がクスクスと笑いながら美代に話しかける。美代が少し驚きながら“ええ”と応じる。聡子は驚いた顔を浮かべた後笑っている。これは静の気遣いだろうな。


「この後その方らにも聞こうと思っていたところだ。静、子ども扱いをするでない」

あえて、少しいじけた様に応える。

「あら、左様でございましたか。失礼いたしました」

静のとぼけた仕草に、皆が和んだ。




天文二十二年(1553)九月下旬 伊勢国度会郡大湊 伊丹 雅勝




青々とした晴天の下で水夫達の大きな掛け声が聞こえる。

"イチッ"

"ニィッ"

「威勢がいいな」

若殿が海の彼方をご覧になりながら呟かれる。

「水夫だけでも百に近い人数が乗っておりますからな」

「で、あるか。材料に人の数と、戦艦は金が掛かるな」

若殿からの問いの答えに窮していると、"だが、この威風堂々とした佇まい、持つことを止められぬ"とお笑いになられた。


若殿が今回座乗されているのは、今川の持つ船の中で最大級の大きさを誇る安宅船だ。名は日向と言う。若殿が定めた水軍の規定では戦艦級とされている。此度の若殿上洛に伴って再び編成された聯合艦隊の旗艦を務めている。


「扶桑型は特に大きゅうございますからな」

「うむ。少し小型な薩摩型も流麗で、あれはあれで良いところがある。だが壮大さという点では扶桑型にはかなわないな」

「はっ」

「尤も、巨艦であれば良いと言うわけでは無い。使い方次第だな」

若殿が仰せの通り戦艦は造るのにも動かすのにも金が掛かる。何事も加減が大事だ。


儂が率いる水軍では、若殿のご指示により軍艦を造る時は詳細な設計図を作る事になっている。無駄や誤差を生まないようにするためだ。建造数の多い小早や関船、最近は駆逐艦や巡洋艦と呼ぶことが多いそれらで効果を出している。一隻造る時が短くなり、かつ正確な物が出来ている。最近では水軍の要求する釘の寸法等の決まりが“水軍規定”と呼ばれて、家の建築等、巷の基準に使われているようだ。


「今回の出港は用宗が手狭だったので江尻湊を借りもうしたが、扶桑と日向が並んで停泊しておりました。壮観でござりましたぞ」

「で、あるな。俺も出掛けに見て左様に思った。江尻水軍を率いる岡部忠兵衛が口惜しがっているのではないか」

「……はっ。用宗の第一艦隊だけなら及びませぬが、下田の第二艦隊と伊良湖の第三艦隊を合わせれば忠兵衛殿の江尻水軍の規模をとうに超えておりまする。忠兵衛殿も思うところがあろうかと」

儂の言葉に若殿が苦笑している。儂の所には若殿から資金の融通が潤沢にされる。儂たち自身でも塩を作ったりして銭を稼いでいる。資金は潤沢だ。


「いい天気だな」

若殿が海を眺めながら呟かれた。重い話を変えようと気を使ってくださったのかも知れぬ。視線の先には気持ち良さそうに舞う海鳥が見えた。

「そうですな。今日は程よい風に波と、絶好の航海日和でござる」

景色を眺めながらしばらく若殿と談笑していると駆け足が聞こえてきた。


「先の榛名より信号っ。北畠家の水軍と先頭の朝霧が合流とのこと。これより大湊へ入りまする」

「あい分かった。伝令ご苦労」

儂が労うと伝令役が走って戻って行く。手旗信号による連絡だ。真に便利よの。小まめに報告される伝令によって艦隊の動きが手に取るように把握できる。


「若殿、まもなく大湊ですぞ」

「うむ。戦艦の旅は快適だったぞ」

若殿が水軍式の敬礼をしながら労って下さる。儂も敬礼をしながら応えた。

「それはよろしゅうござりました。帰りもこの日向でお待ちしておりまする」

儂が応えると若殿が"うむ"と仰せになって艦橋の方へと向かわれた。


"うのかぁぁじぃぃぃいっぱいっ"

艦長の大きな声が聞こえると、艦内が徐々に慌ただしくなる。ゆっくりと大きな船体が転回をはじめる。


岸辺に近づくと、海岸には林のように整列する北畠の軍勢が見えた。北畠の当主が自ら出迎えされると聞いているが、手勢も随分と連れているのだな。前回の若殿に触発でもされたのかも知れぬ。フッと笑みが溢れた。




天文二十二年(1553)九月下旬 伊勢国度会郡大湊 今川 氏真




「治部大輔、久しいの」

「これは参議殿。わざわざの出迎え痛み入りまする」

「堅苦しい挨拶等不要じゃ。余とそちの仲ではないか」

「左様には参りませぬ。参議殿は今や北畠の当主。それに官職も某の上なれば、礼を逸する訳には行きませぬ」

「ハッハッハ。相変わらずしかとした者よ」

「石見守、久しいな」

「はっ。またお会いする事がかない、石見守満栄、祝着至極に存じまする」

「此度も手間を掛けるがよろしく頼む」

「何なりと」

鳥屋尾石見守が笑みを浮かべて応じる。前回の旅で遣わした刀が効いているのかな。かなり俺への印象が良さそうに見える。


参議こと北畠具教が"ついて参られよ"と先を行く。鍛えているだけはあって足元がしっかりしている。

具教は先日、父の晴具から家督を譲られた。それに、初めてあった時の具教は正五位下侍従だったが、今は従四位上参議で公卿に名を連ねている。流石は名門のボンボンだ。順当にエリート街道を進んでいる。確か某ゲームの記憶だと権中納言にまで昇るはずだ。官位は覚えていないが、権中納言となると少なくとも従三位あたりまでは昇るはずだ。


「壮観ですな」

整然と並んで出迎えてくれた北畠の軍勢を横に具教と歩く。

「その方の艦隊と手勢程では無い。石見守から今川の水軍は見物だと聞いておったが、確かにその通りだ。その方の水軍は随分と鍛えられておる。上陸してきた手勢もな。皆動きに乱れが無い」

「ありがとうございまする」

「北畠は志摩の海賊どもに手を焼く時がある。いつの日か治部大輔の力を借りる時が来るかも知れぬ」

「伊勢は当家の大事な交易相手なれば、何時でも仰せ下さりませ」

志摩の海賊か。確か九鬼嘉隆が志摩の出だったな。手伝い戦になるが、上手くいけば家臣に出来るかも知れない。


伊勢は北畠一色かと思っていたが、この頃はそうでも無い。北には長野氏、南には海賊衆という敵を抱えて戦っている最中だ。ただ、どちらも北畠が優勢な状況ではある。北畠には貿易で儲けさせてもらっている。多少の援助は先行投資と割り切ってしてもいい。このまま伊勢を統一してくれると助かる。いずれ長島の坊主を叩くときに力を借りる事になるだろうからな。




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