第六十七話 懸念




天文二十二年(1553)五月上旬 三河国渥美郡泉村 吉良 義安




"おぉっ!水じゃっ"

"来た!水が来ているぞ!"

人夫達の声が遠くから聞こえて来る。


「わ、若殿!水が、水が無事に流れてきておりまするっ」

走ってやってきた鵜殿藤太郎殿が、息を切らしながら若殿に報告している。同じく三河に所領を持つ者として気持ちはよく分かる。以前に若殿が仰せになったように、渥美半島が米の生産拠点となればどれだけ頼もしいか。

「ハハハッ、そう急がなくてもよい。ここまでも皆の声が聞こえている。よくやってくれたな」

若殿が皆の顔を見て労う。普請を差配した弟の左兵衛佐や伊丹権太夫殿が嬉しそうにしている。


「ここにまで水が流れて来ましたの。おぉ、これは立派な川になりますな」

庵原安房守殿が感嘆の声を上げている。先程まで空だった溝に、ジャバジャバと音をたてながら勢いよく水が押し寄せている。一部では早くも取水口を開けて、事前に耕した水田になる部分へと水を引き始めている。

「田植えに何とか間に合ってよかったな。少し刈り入れの時期を遅くする必要はあるかもしれないが、この程度ならば何とかなるだろう」

嬉々として水を引く人夫達を眺めながら、若殿が仰せになる。


確かに、三河の多くの地域では既に田植えが始まっている。温暖な渥美半島でなら、既に田植えを終えていてもおかしくない時期だ。今年は水源の問題で田植えが少し遅くなってしまった。だが、この程度の遅れであれば問題ないはずだ。少しばかり刈り入れの時期を遅くすれば間に合うだろう。


「正直に申し上げて、渥美の土地では溜池の水で作る田畑が限界だと思うておりました。溜池を作られて石高を増やされただけでもすごいものだと感銘を受けておりましたが、まさか川まで作られてしまうとは。上野介、恐れ入りましてござりまする」

素直に、思ったことを口にする。水の流れを眺めておられた若殿が振り返って儂の顔をご覧になった。

「上洛した折りに堺へと足を伸ばしたであろう。その時に見た仁徳帝や応仁帝の陵墓を覚えておるか。千年を超える遥か古に、あのような巨大なものを建造しているのだ。であれば我が今川にもできると思うてな」

あの巨大な古墳のことか。儂はただその大きさに驚くばかりであったが、若殿は古墳をみて内政をお考えだったとは。


「其れ兵を鈍らし鋭を挫き、力を屈し貨をつくさば、則ち諸侯、その弊に乗じて起こらん。智者ありといえども、その後を善くすること能わず」

不意に若殿が故事を諳じられた。

「古典ですか。何ぞ聞いたことがあるような」

藤太郎殿が首を傾げながら呟いている。藤太郎殿は出元が分からぬようだ。

「孫子の一文でございますな」

助け舟を出そうとしていると、儂よりも早く、安房守殿がお応えになられた。

「渥美半島を豊かにする事で、同じ兵数でも負けないという意でござりまするか」

安房守殿に負けじと若殿に向かって話すと、若殿が笑みを浮かべて頷かれた。

「その通りだ。一月の兵糧を用意した千の兵と、一年の兵糧を用意した千の兵では戦い方が変わる。いや、変える事が出来ると言うべきか」

確かに若殿が仰せの通りだ。城攻めには二月、三月の兵糧を用意する事が多いが、これが一年分となればどうなるだろう。それに若殿の兵は刈り入れを気にしない。兵糧と軍備さえあれば幾らでも戦える。


「孫子には、道とは民をして、上と意は同じくせしむるなりという言葉もある」

若殿が再び孫子の一文を諳んじられた。今度は儂が応えて見せよう。

「治世が宜しからずでは、民が新たな君主を求めるという意でござりまするか」

「その通りだ。上野介はよく孫子を読んでいるな」

若殿にお褒め頂いて"はっ"と返す。皆が見ている中で褒められるのは素直に嬉しい。だが、にやついていたと思われるのも癪だ。務めて冷静を装った。


「治世が悪しければ、敵に攻められた時に民が蜂起して寝返る事もある。楚の項羽は人心が掌握できずに滅びる事になった。戦に勝つ事も大事だが、それだけではいかぬ」

「食と兵と信でござりますな」

「安房守も詳しいな。その通りだ。今川の治世なら豊かになる。そう民が信じれば、多少の苦楽は我らと共にしてくれるだろう。俺は渥美半島に稲を植える事で三河の民に今川への信を植えたいのだ」

若殿が田畑となる土地を眺めながら力強く仰せになる。皆で同じ方向を眺めて頷いた。


「項羽と言えば、彼を破った劉邦、漢の初代天子は農民の出でしたな」

安房守殿が相槌を打たれる。

「その通りだ。誰しもはじめから高い地位にいるとは限らぬ。皇室が連綿と続く日の本で民から帝が出るとは思えぬが、大名が出る事はあり得る。だから有能な者がいれば進んで登用せねばならぬし、出自が卑しいと差別する事は許さぬ。皆とて今の座に安穏としていてはならぬぞ。無論、俺とてな。俺に為政者としての資格が無いと思えばいつでも他家に行くがいい」

「若殿のお側に」

膝をついて若殿への忠誠を改めて示すと、皆も同じように続いた。これは本心だ。はじめこそ仇敵今川という気が無かったわけではない。ましてや家格は我が吉良の方が上だ。だが、そのようなことはもはやどうでもいい。若殿には王の奇才がある。

「うむ。皆改めて礼を申すぞ。さて、新田開発のための水は確保した。土地はある。となれば後は民でも土地は広げられる。銭は出す。皆を競わせて早く開墾させよ」

「銭が出ると?某も加わりたくなりますな」

権太夫殿の冗談に、場にいる皆がどっと笑った。




天文二十二年(1553)七月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 松平 竹千代




御屋形様の使いに呼ばれて広間に向かう。大粒の雨が勢いよく降っていた。

「竹千代、お呼びにより罷り越してございまする!」

雨の音に負けないように、いつも以上に大きく声を張り上げて到着を告げた。

"うむ。入れ"

御屋形様から声が掛けられる。何時もよりも抑揚が無い。常ならば、某の大きな声に笑みを浮かべて下さる。嫌な予感がした。


広間に入ると、両脇に雪斎禅師や三浦左衛門尉殿、朝比奈備中守殿、松井兵部少輔殿、鵜殿長門守殿等といった今川の重臣が揃っていた。皆の顔が固く見える。いよいよ嫌な予感がする。暑くなりはじめた季節だというのに、背中に冷や汗が流れる。

御屋形様の目線が近くに座れと訴えている。こういう時はもったいぶらない方がよい。何時もより上段に近い場所へ着座した。


「竹千代、その方は大給の松平を存じておるか」

着座してしばらくすると、御屋形様が静かに話し始めた。

大給?近習の石川与七郎から加茂郡大給にある分家と聞いている。何かあったのだろうか。

「はい。加茂郡大給にある松平の分家の一つと聞き及んでおりまする」

「その大給松平だがな、どうも我が今川を離反して織田上総介に付いたようじゃ」

「なんと!」

驚いて御屋形様をみると、ゆっくりと鷹揚に応じられた。場にいる今川の重臣が私の方をじっと見てくる。重苦しい雰囲気だ。そうか、これが原因か。


「それと合わせて由々しきは、その方の伯父である水野下野も上総介と通じている節がある」

「伯父上が?某にはなにも……」

伯父上までもが織田方に?重臣殿達が厳しい視線を向けてくるのも致し方ない。

「そうか、竹千代は何も知らぬか」

御屋形様が研ぎ澄まされた刀のような視線で私を見てくる。

お顔は言葉のようにお優しくは無い。

「はっ」

深々と頭を下げる。何も聞かされていないのは事実だ。何も知らないのだから何も話さない方がいいだろう。知らぬとは言え、皆の厳しい視線を受けて汗が瀧のように背中を流れる。


「此度はこれだけではない。別の動きかも知れぬが、設楽郡亀山城の奥平監物が不審な動きを見せている。また、その動きに呼応するように菅沼大膳にも怪しい動きがある。大膳は設楽郡で影響力がある菅沼氏の宗家にあたる。このまま放置はできぬ」

設楽郡の両家が今川に反発?設楽郡の隣は今川の本領である遠江がすぐではないか。今川本国のすぐ横で蜂起等するだろうか。織田との戦いは今川が押していると思っていたが、ここにきて反攻にでもあっているのだろうか。

「その方も良く知る上総介が小細工をしてきているのだろう。我が今川の力攻めに正面からあたっては負ける。謀で応じてきたということよ。だが、織田の誘いに乗る者がいるとは愚かよの。痴れ者を炙り出すいい機会よ」

御屋形様が高笑いをされている。だがその目は笑われていない。三河で離反が相次いでご懸念を感じられているのだろう。ここは松平宗家に二心無い事を示さねばならぬ。

「某に一隊をお預けください。大給の叛徒を鎮めて見せまする」

「ほぅ。竹千代が初陣して鎮めると申すか」

御屋形様が扇子で仰ぎながらお話になる。心なしかお声に優しさが戻られた気がする。

「はっ。この竹千代、御屋形様のために身を挺して参りまする。西三河が鎮まれば東三河も収まると思いまする」

「左様であるの。そなたは小さいのに聡いな。だが、そなたの話には一つ懸念がある」

「懸念……でござりますか」

「そうじゃ。その方が裏切る可能性じゃ」

御屋形様の笑みが嘘のように消え、冷徹なお顔がそこにあった。御屋形様は私の事も疑われているのだろうか。


「某を疑われるのなら松平の兵で無く、今川様の兵で構いませぬ。軍の末席に加えて頂くだけでも構いませぬ。松平宗家は誓って今川様に二心ありませぬ!」

声を張り上げて二心無い事を訴える。

「相分かった。その方を信じるとしよう。その方は聡い子じゃ。我が今川と織田、どちらに付いた方がお家が栄えるか分かっていよう。下がって良いぞ」

御屋形様の許しを得て前を下がる。


廊下を少し歩くと、庭先に雨に打たれながら膝をついて控えている与七郎と平岩七之助が見えた。まずは二人に相談をしてみるか。さて、しばらくは肩身の狭い暮らしになるな。勢いよく滴る雨を見ながら鬱屈とした気分になった。




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