第六十五話 揺れる尾張と固まる駿河




天文二十二年(1553)二月上旬 尾張国春日井郡志賀村 志賀城 平手 政秀




「勘十郎様が殿に台所を勝手にせる中務丞を討つべしと文を書かれたらしい」

「父上がそのような事なさるわけがありませぬ!父上がどれだけ弾正忠家のために尽くして参られたか、いったい殿はどこまで分かっていらっしゃるのか」

殿から届けられた文の内容を伝えると、息子の五郎右衛門が怒りを露にした。


「殿は勘十郎様を諌めてくれた様だが、事はこれだけではない。大和守様や大膳亮殿までもが儂を疑っておるとある。今川と通じておるのでは無いかとな」

「今川と?馬鹿なっ。何を根拠に斯様なことを申されておると言うのか!」

五郎右衛門が息を吐く。怒りに震える五郎右衛門とは対照的に、儂の心は醒めていた。今、全てが繋がった。これは用意周到に撒かれた今川の策に違いない。全ては赤塚の戦の後、雪斎殿に会った時から、いや、会う前から策は放たれていたのだ。


大和守様や大膳亮殿からすれば、平手を潰して弾正忠家の弱体化につながるなら根拠等どうでもよいはず。これは勘十郎様も同じだ。……恐ろしいお人よ。いつぞやお会いした雪斎殿の顔を思い出す。あの方は儂とお会いした時には、既に今日までの譜が見えていたに違いない。


随分と安い金額を提示すると思ったものよ。それに付け届けにしては多い銭といい……。何かあろうなとは思うたが、全ては後の祭りだったな。


「殿は大和守様に対しても儂を庇ってくれたようじゃ。だが、最近は林佐渡守殿や柴田権六までもが当家を謗っておる。その方も存じておろう」

儂が五郎右衛門の顔を見ると、口惜しそうに唇を噛んでいる。

「周りが素知らぬ用に装いながら、腫れ物を扱うような素振りなのは感じてござる」


「……。致し方ない。事此処に至りては儂の死を持って訴えよう」

「な、何を仰せになりまするっ!なぜ父上が死なねばなりませぬのか!」

五郎右衛門が腰を上げて驚いている。

「このままでは外聞は抑えられぬ。儂もその方も苦しい立場に追い込まれるだけじゃ。もしかしたら殿も我等を疑っておらぬかもしれぬ。なれど此処まで噂されては守れないのかも知れぬの。それに儂はただ腹を切るわけではない。確と平手の無実を訴えるつもりじゃ」

「殿にそこまでする必要がござりましょうや?父上は殿が我等を、父上をお庇いになったと申されますが、殿は桃厳様の位牌に焼香を投げつけ、先日は某の愛馬を召し上げようともされておりまする。いっそのこと申し上げまするが、あの様な自分勝手なお方に仕えるのは我慢がなりませぬ」


「愚か者!その方には殿がどれだけ民の事を考えておられるのか分からぬか」

殿は奇抜な格好や破天荒な行いで誤解されがちだが、民を思い、銭の流れを掴もうと市井に繰り出されている。文机で政をしたつもりになられている勘十郎様とは違う。

「しかし!」

「腹を切る時に文を書く。儂の身の潔白とその方への家督継承の願い、それとこれまでの行いのお諌めをしよう。案ずるでない。殿は悪いようにはされまい」

「なぜ……父上が」

五郎右衛門が涙を流して膝を叩く。


「儂は六十を過ぎた。十分に生きたものよ。最後までお家に尽くすことが出来れば本望じゃ。よいか五郎右衛門。弾正忠家を率いることが出来るのは殿しかおらぬ。勘十郎様では無い。努々忘れるでないぞ」

「……承知いたしました」

「うむ。よいな、何があっても殿に最後まで尽くせ。これは儂の遺言と心得よ」

五郎右衛門が腕で涙を拭いながら頷いた。勘十郎様では武衛様や大和守様に手駒とされて弾正忠家は終わる。殿こそ桃厳様のように弾正忠家を大きくできる方のはずだ。何、六十も生きたのだ。五郎右衛門に言ったようにこの身など惜しくはない。


殿、爺は冥途で桃厳様とともに見ておりますぞ。しっかりと弾正忠家を率いて行かれませ。




天文二十二年(1553)二月上旬 尾張国愛知郡鳴海荘末森村 末森城 柴田 勝家




「失礼いたしまする」

林佐渡守殿に呼ばれて部屋に向かうと、既に林美作守殿と佐久間大学助、佐久間久右衛門が先に見えていた。佐渡守殿が上座に、儂と美作守殿が次席にあたる位置に座り、大学助と久右衛門が順に座る。


「皆揃ったな。既に知っておろうが平手中務丞が逆臣の疑いで自害した」

「某も聞き及んでおりまする」

儂が知っている旨を伝えると、皆も頷いて応じた。中務丞殿が自害してまだ間もないが、その報は瞬く間に伝えられた。上総介様や殿の重臣で既に知らぬ者はおらぬだろう。


「うむ。弾正忠家全体で見れば、中務丞は先代によく仕え、弾正忠家を大きくする支えとなってくれた。その死は痛い損失だが、逆臣とあらば自害もやむを得まい」

佐渡守殿が心から口惜しそうに呟いている。今回中務丞殿が自害するに至った要因には佐渡守殿と儂とで幾らか手を掛けている。だが、その事は大学助も久右衛門も知らない。美作守殿は佐渡守殿から聞いているかも知れぬが……。儂と佐渡守殿だけの秘だ。その中でこのようなお顔をなさるとは中々の役者だな。儂にはできぬ芸当よ。


「中務丞殿は切腹にあたって身の潔白を訴え、五郎右衛門への家督継承を願い、さらには上総介様をお諌めなさったとか。気持ちは分かるが、随分と大仰な切腹よの」

感心していると、佐渡守様が少しばかり嘲笑を含んだ顔を浮かべられる。弾正忠家の次席家老が無くなったのだ。政敵がいなくなったゆえ心浮かぶのは分かるが、先程の芸当が軽く見えてくる。


「某も大学助と同じ内容を聞いておりまする。上総介様は真実が如何なものであろうと、中務丞は最早いない。平手は五郎右衛門が継ぐだけだと仰せになられたとか」

久右衛門が申した内容は儂も聞き及んでいる。儂が聞いた話では、上総介様は中務丞殿の最後の文をご覧になって滅多にお見せにならない涙を流されたとか。

「何れにしても中務丞殿の不在によって弾正忠家が揺れるのは避けたい。今こそ勘十郎様の下、家臣がまとまる必要がありまする」

「うむ。権六の申す通りであるな。弾正忠家の台所を担う中務丞が不在になったのじゃ。ここは熱田を如何に押さえるかが肝要であるの」

佐渡守様の申される通りだ。弾正忠家の力の源である熱田に深く関わっていた中務丞殿が亡くなった。上総介様と殿のどちらが弾正忠家を継ぐかは、商家を如何に押さえるかにかかっているとも言っていい。


「殿に熱田の商家に対して判物を出して頂きましょう。何、内容など何でも良いのです。殿の名で出すことが大事でござりまする」

「美作守の言うことは分かるが、余りにもただ出すわけでは商家の反発もあろう。そこはどう考えるのじゃ」

「兄上、そこは武衛様を使いましょう。連歌でも機嫌伺いでも構いませぬ。殿と武衛様と親しくお会いいただく機会を増やしましょう。その内、武衛様は殿を重んじていると言えば商家もそのように見るでしょう。武衛様も弾正忠家を上総介様が継ぐのか、殿が継ぐのか見物している最中のはず。見物している最中に誘いを断ることありますまい」


武衛様と親しくか……。確かにこれは殿の方が得意かも知れぬ。上総介様は歌も蹴鞠も得意ではない。むしろほとんどされないはずだ。


大和守様が不穏な動きを続けている。大和守様を何とかするまでは上総介様との共闘もあるかもしれぬ。だが、その後に弾正忠家を率いるのは上総介様ではなく勘十郎様でなければならぬ。




天文二十二年(1553)二月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




“一つ、採決の後であれども、新たな証拠を持って控訴する場合はこれを認める。但し、一審と同じ主張を繰り返すのみはこれを処断する”

“一つ、訴訟を起こす時は必ず自らの寄親を取次人とする事。但し、寄親が罪を犯せし場合や、国に大事ある場合は寄親を通さず適当な方法で行うべし”

“一つ、仮名目録二条において、すでに定められた田畑、山林原野の境界を究明するに、訴えた者あるいは被告の道理無い不当な謀訴であると判決されし場合、その者の所領を三分の一没収すると定めし所、問題となった土地の倍を払うことに緩和する”

“一つ、盗難に合い、その盗品が守護不入地に入るとも、盗品は保有者に返還する事。この場合、守護不入地の特権は認めない”

“一つ……”

多くの家臣が居並び、平伏す中で、雪斎が仮名目録に追加される条項を読み上げている。皆が頭を下げる中、追加条文を読む雪斎と嫡男の俺だけが頭を上げたまま座している。

厳粛な雰囲気だな。今日は予め正装での登城が指示されている。父上や俺は衣冠束帯姿だ。家臣のほとんどは直垂か大紋を着ている。カメラでこの瞬間を捉えたら重要文化財になるだろう。絵でも良いな。いつか絵師にこの場を書かせよう。


"旧規より、守護不入と云ふことは、将軍家天下一同御下知を以て、諸国守護職を仰せつけられる時の事也て、守護使不入ありとて、御下知と可背されども、只今はをしなべて、自分の力量を以て、国の法度を申付、静謐する事なれば、守護の手、入間敷事、かつてあるべからず、兎角之儀あるにをいてや、固く申し付ける也"


あ、これ知っているぞ。今川義元が守護大名では無く戦国大名だったといわれる所以だ。これまでも父上は幕府による守護不入を否定してきたが、仮名目録へ条項として追加してまで幕府権力を否定し、今川の力を誇示する条文だ。この場にいる家臣たちを眺めると、皆が静かに受け止めている。今や今川領内での父上の権勢は絶大だ。力ある者が力ある宣言をするというのはこういう雰囲気を生むのか。


「以上の二十一ヶ条を仮名目録に追加する。皆においては改めて仮名目録の内容に精通し、これをよく守るべし」

「「ははっ!」」

雪斎が最後の条項を読み終えると、父上が皆に向かって威厳をもって話した。父上の言を受けて場の皆が大きく声を出して応じる。


「うむ。苦しゅうない。皆面を上げよ」

父上の許しを受けて、家臣たちが面を上げると、皆引き締まった顔をしていた。この場の厳粛な空気がそうさせるのかも知れない。


「皆に言っておく事がある」

おもむろに父上が声を出す。

何かと思いながら父上に顔を向けると、俺と目があった後、少し微笑みながら頷かれた。うわっ、これは何か来るぞ。


「此度追加した仮名目録は何れも大事なものであるが、中でも特に大事な条文がある」

父上がゆっくりと家臣達を睥睨するように見回す。最後に俺の顔を……来た!


「治部大輔」

「はっ」

父上の方を向いて頭を下げる。

「その方には分かるか」

父上がニヤリとしながら問うて来る。こういうのってあらかじめ言っておいて欲しいよな。何も聞いていないぞ?普通は予定調和じゃ無いのか。ここで正解すれば威信は上がるが間違えると下がると思うぞ。


「只今はをしなべて自分の力量を以て…というのが最も大事な条文かと思いまする」

「うむ。その通りであるが、理由は分かるか」

「所領の安堵は幕府の守護たる今川が行って参りましたが、この後は然にあらず。御屋形様の力の下に安堵をするという意かと存じまする。即ち、諸侯領民は幕府の守護に対してではなく、今川に対して忠すべきという意かと存じまする」

言い切った後で父上の顔を見る。少しの間の後、僅かに笑みを浮かべておうように頷いた。


「その通りだ。よいか、我が今川の領国においては幕府による特権は認めない。余の力を以て仮名目録を制定し布告するものである。我が領において、余が介入できぬ事など何も無いと心得よ」

「「「ははっ」」」

再び臣下たちが一同に平伏している。


ここに、事実上だけでなく、法的にも独裁国家が誕生した。

やはり義元は、父上は暗愚ではない。

これだけ先進的な施策を実行している大名が他にあるだろうか。

だが、これ程の偉業とて、戦で敗れれば露と消える事になる。


儚さを感じつつも、歴史が動いた瞬間に同席している事に胸が熱くなった。




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