第六十四話 冷厳
天文二十一年(1552)十一月下旬 甲斐国山梨郡府中 山田 真義
軍楽隊の雄壮な曲に乗って、一糸乱れぬ行進が続く。何度も訓練した行進だ。もはや曲が無くても乱れる事は無い程だ。目を瞑っていても音が頭の中に木霊する程訓練をしてきた。
商家の三男に生まれてからどこか満たされない毎日を送ってきた。幸い、商いをするのに駿河は良いところだった。家はそれなりに裕福で、食うには困らない生活だったが、後を継ぐわけでもない。男に恵まれない商家の養子に入るか、兄上の元で奉公して一生を終えるしか無い、張りの無い人生が待っているだけだった。
親衛隊の募兵を見たのはそんな中だ。俺が入隊を告げた時、父も兄も反対はしなかった。迷わず飛び込んで必死に励んだ。兵舎からすぐ近くに実家はあったが戻るわけには行かない。親衛隊にしか居場所は無いと、遮二無二励んだ。気が付くと、二期生の中で最も優れているとして、若殿から直々に刀を授かった。商家の三男が今川家の次期当主から刀を頂戴したのだ。これには父上も喜んでくれた。
親衛隊は死と隣合わせだ。尾張攻めでは戦死者も出ている。だが、死が近くにあるが故に生が充実している気がする。
軍楽隊が奏でる曲が変わった。今流れているのは若殿が好まれている"今川の栄光"だ。軽快な曲の調べが隊員にも人気だ。音が徐々に大きくなるにつれて、演奏している軍楽隊が見えてくる。その先には若殿がお見えになるはずだ。
軍楽隊の列を越えると、馬に乗った若殿が見えた。お隣は武田の大膳大夫様だろう。
"武田大膳大夫様にぃぃ頭ぁぁ右!"
声を張り上げながら、若殿より頂戴した刀を顔の前に捧げて振り下ろし、顔を馬上の若殿と大膳大夫様に向ける。
若殿が答礼で返して下さった。
皆の足の音に乱れはない。無事に行進を終えることが出来そうだ。
天文二十一年(1552)十一月下旬 甲斐国山梨郡府中 武田 晴信
「いやはや、何と申したらよいか言葉が見つからぬ。誠に見事な馬揃えでござる」
儂が今川軍の乱れぬ行進を褒めると、治部大輔殿が笑みを浮かべて応じる。底の知れぬこの男を前にして、浮かべるこの笑みは本心か、それとも作っているものか、無意識に探っている自分がいる。
「ありがとうございまする。大膳大夫殿にそう仰せ頂くと訓練した意味があるというもの。者共に後で伝えておきまする」
「あの奏者達も見事でござりますな。駿河で馬揃えをやる時はいつもこのように音があるので?」
「音があった方が映えて見えるでござりましょう?条件が許す限り、最近はこのようにやっておりまする」
軍備だけでなく音の調べにまで余念が無いとは、流石は今川の御曹司と言うべきか。勇壮な調べに整った行進と我が民までも目が奪われているようだが、これで兵が強くなるわけではない。何を大事にするかの違いだな。いや、当家も銭の使い道に困る程の余裕があれば同じような事をするかもしれぬ。
治部大輔殿とやり取りをしていると、今川勢の行進が終わった。これで終わりかと思っていると、種子島を持った部隊が百名程出て来て種子島をいじり出した。聞けば種子島は撃つまでに時が掛かると言う。その準備だろうか。
今川勢の動きを不審な動きと思ったのか、家臣の一部が鯉口に手を掛ける。
「祝砲でござる。お祝いのための鏑矢ような物であれば心配不要でござる」
治部大輔殿の言葉を受けて、皆に控えよと命じる。
少しの間をおいてから、直垂を着た治部大輔殿の家臣、あれは確か吉良上野介殿だったな。上野介殿が目の前に出でて大きな声を張り上げる。種子島の準備が終わったようだ。
"武田家並びに今川家両家の繁栄を祝して、撃ち方始め!"
"""ズダダァァーーン"""
百丁の種子島が一斉に火を吹く。
消魂しい音が辺りに木霊する。
武田の将の一部で動じる者がいる中、今川の諸将は全く動じることなく慣れたように射撃を見つめていた。
儂が譲った大鹿毛に跨った男も、隣で眉一つ動かす事無く射撃を見つめて小さく頷いている。
一つの工程が終わった事を、淡々と確認するような仕草であった。
天文二十一年(1552)十一月下旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 馬場 信房
「息をのむ馬揃えであったの」
御屋形様がしみじみと呟くように仰せになった。いつも威風堂々とされている御屋形様がこのように仰せになるとは珍しい。今川家との三日三晩に渡る祝言が無事に終わり、治部大輔様も帰国の途に着いた。今は御屋形様の計らいで、今川家との婚儀に関係した者が呼ばれて、ささやかながら酒杯を上げている。
儂の他には左馬助様に刑部少輔様、飯富兵部少輔殿、高白斎殿に山本勘助だ。
「いや、今川の輿入れ行列を見て力の差を感じての。改めて今川は豊かだと感じた。武田には出来ぬ見事な行列であった」
御屋形様の呟きにどう応えたものかと逡巡していると、御屋形様が続けて話された。どこか自嘲されているようなお顔をされている。
「輿入れの行列とは古来より優雅なもの。今川様も武田家に気をお使いになって華々しくされたのでしょう。喜ぶ事はあっても気を病む事はありませぬ」
刑部少輔様が御屋形様を気遣われたお話をされる。
「左様でござりまする。今回の今川様の心配り、某は我が武田との盟約を特に大事に思われている証かと思いまする」
「気を遣ったのは確かでござろうが、治部大輔様の狙いはそれだけではござりますまい」
高白齋殿が続けてお話になると、左馬助様が意味深な話をなさった。治部大輔様の狙い?皆が訝しんで左馬助様のお顔を見ている。
「今川の軍事力をここぞとばかりに見せつけに来たものと思いまする。甲駿の盟約は成れど、立場は駿河が上とでも言いたいのでござろう」
「左馬助、滅多な事を申すでない。盟約に水を差してはならぬ」
御屋形様が左馬助様を嗜める。嗜めてはいらっしゃるが、どこか他人事のようにも聞こえる。それとも密かに左馬助様に続きを促したいのか……。
「御屋形様、某は水を差しているのではござらぬ。力を見せつける目的が無ければ、輿入れの行列を一万も用意する必要ござりませぬ。種子島とてそうじゃ。千丁も用意して引き連れる等、今川の力を見せんがために違いありませぬ。努々、油断なりませぬぞ」
「ふむ……。そういう事もあろうかの」
左馬助様の強い申し出に、御屋形様が勘助の顔を見る。御屋形様は最近勘助を特に信頼されている。その勘助が大きく頷いたあと、"左馬助のお言葉の面もあろうかとございまする"と応えた。
「治部大輔殿や今川殿にその気持ちがあったとして、我が武田と今川の力の差は明らかじゃ。今川との盟約を持って後ろを固め、信濃の支配を確立せねばならぬ」
御屋形様の言葉に皆が頷く。
「信濃と言えば、守護の小笠原大膳大夫が越後の長尾家に落ち延びたとの由。小県の村上少将も長尾家とやり取りしている模様であれば、今後は越後の動きに注視せねばなりませぬ」
兵部少輔殿の言葉に皆が神妙な顔をして頷く。御屋形様もゆっくりと頷かれた。
「長尾家の当主、弾正少弼様は内乱続きだった越後を統一し、北条家に圧されて落ち延びた関東管領様を迎えて、今や日の出の勢いなれば、これを相手にするのは骨が折れるやも知れませぬ」
「何を申すか。我が御屋形様こそ甲斐また信濃まで掌中に治めようとされておられる。長尾なんぞ恐れるに足らぬ」
勘助が越後の動向を述べると、兵部少輔殿が声を上げて否定された。古参の兵部少輔殿と新参の勘助はこのように合わぬところが時々ある。
「勘助の懸念は尤もであるし、兵部少輔の意気や頼もしく思う」
御屋形様が双方を立てるように応じられた後、儂の顔をご覧になられた。微妙な間でご覧にならずともよいものを……。
「越後の長尾が気掛かりと思える程、信濃攻めも大詰めと思えば……」
”ハッハッハ”
儂の言葉に御屋形様がお笑いになられたかと思うと、他の皆も笑い出した。
「民部少輔の言う通りよ。少し前までは諏訪をどうするか、中信濃をどうするかと思うておったが、今や越後の介入を気にする程になったということだ。越後には海があるぞ。越後が我が武田に牙を向くなら、我らは喜び勇んで喰らうだけだ。そうであろう?」
「「おぅ」」
御屋形様が盃を掲げて声を上げる。他の皆が盃を掲げて応じた後、ぐいっと一気に飲み干す。
「御屋形様、海なら駿河にもござりまするぞ」
酒杯を一気に飲み干した後、左馬助様が気持ちよさそうに声を上げる。
「これ、先ほど盟約に水を指すなと申したばかりだろう」
御屋形様が笑いながら左馬助様をお止めになる。笑みを浮かべておられる。満更でも無いのか、酒の席と思うてか……。
「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵。これは戦国の世の常でござりますれば、情けは無用でござりまする」
「兄上、今やこの館にも今川家の姫君がおりますれば、不用意な発言はお控え下さいませ」
「儂は事実を申したまでよ。だが刑部少輔の言ももっともじゃ。御屋形様、失礼いたしました」
刑部少輔様の苦言を受けて、左馬助様が御屋形様の方に体を向けて素直に謝られている。駿河の海か。越後の海よりも暖かく豊かであろうな。だが今川様の力は確と見せられたばかりだ。それに駿河を取るには富士郡をどう越えるかという問題もある。余程の大軍を動かすか、中から切り崩さねば中々落とせぬだろう。
いかぬ。盟約を結び直したばかりというに、儂も邪な事を考えてしもうた。心の内を悟られまいと杯を呷った。
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