第六十二話 決裂




天文二十一年(1552) 八月中旬 尾張国海部郡七宝村付近 森 隆久




「清洲から進発した坂井甚八殿、織田三位殿の手勢が上総介様方の松葉城を、坂井大膳殿が深田城を制圧してございまする」

「ほぅ。もう済んだか。思っていたよりも早かったな」

「どちらも五十の兵もいない城の攻略に、三百は動かしてごさりまする。明け方の急襲でもあれば、城側はほとんど何もせず降伏しておりまする」

儂の問いに、甚助が淀みなく応える。

「それは随分と仰々しい。いや、慎重と言うべきか」

飛蔵が冷やかしたように呟いて、足元の盤面にある松葉城と深田城に清洲方の駒を置く。


「加えて、松葉城主の織田伊賀守殿、深田城主の織田孫十郎殿は生け捕られてごさりまする」

「そうか。簡単に生け捕られるとは何と言うか、弾正忠様も大変よの」

儂が上総介様の心中を察すると、甚助も飛蔵も小さく頷いて応じた。清洲方に兵を集めている兆候は少し前からあった。これだけ近くに城を構えながらその兆候を掴まず準備をしておらぬとは能天気だな。大和守様と上総介様とでは主従の関係にあるから戦にはならぬと、高を括っていたのだろうか。


「その後の清洲方の動きは?」

「庄内川を境にして、北側で柵を作る動きがありまする。これを機に庄内川の北側を大和守家の支配で固めようという意かと存じまする」

「分かった。ご苦労だったな」

労いの言葉を掛けると、甚助が下がろうとした。"待て"と声を掛ける。


「駆けて喉が乾いただろう。茶をやろう。しばし待て」

胸元から包まれた溜塗の湯呑みを取り出して、竹筒から茶を入れる。たっぷりと茶を入れて甚助に差し出す。

「……これは、随分と立派な器でごさりまするな」

甚助が丁寧に受け取って飲み始める。

「そうだろう?先日な、若殿から頂戴した荷に入っていたのだ。文にも出先で使えとあった。せっかくだから使わせてもらっているのだ」

「……!」

甚助が茶を溢しそうにしている。飛蔵には以前に話したことがあるから驚いていない。面白いものでも見たような顔をしている。


「大和守様と上総介殿のおかげで忙しい日々だが、刻々と動く情報を届ける我らを殿は認めて下さっている。嬉しいではないか。忍びに褒美を下さるとはな」

甚助が頷いて、大事そうに茶を飲んでいる。その茶も殿に頂いたものだが、これは止めておこう。今度は本当に溢しそうだ。



「組頭」

呼ばれた方を振り向くと、那古野方面に遣わせていた吉之助が控えていた。

「吉之助、戻ったか」

まだあどけなさの残る顔が、真剣な表情を浮かべている。吉之助は今まで手元で鍛えていたが、今回は初めて一人で任務を与えた。まずは無事に戻って来たようだ。

「はっ。織田上総介様ですが、続々と兵を集めておりまする。この分では今宵、或いは明日未明にも兵を挙げるかと」


「流石は弾正忠様だな。随分とお早い対応よ。大膳殿達がそこまで読んでいるかがこの勝負の分かれ目だな」

「左様でごさりまするな。大膳殿達も上総介様の馬廻りの動きが速いことはご承知されておると思いまするが、まさか今日、明日に来るとは思いますまい」

「そうだな。となると庄内川で両軍が対峙する事になるかの」

儂が話すと皆が頷いた。対峙した後にどうなるかだな。とりあえず今の状況を若殿に伝えておくとするか。矢立から筆を取り出して書き始める。


發 森 弥次郎 隆久

宛 治部大輔 様

大和守家と弾正忠家の諍いの件


織田大和守家坂井大膳殿 深田城攻略

織田三位並びに坂井甚八殿 松葉城攻略

織田伊賀守 織田孫十郎殿捕獲

上総介様 払暁迄に挙兵の動き有

庄内川上萱津付近で対峙と思ふ


恐惶謹言


こんな所かの。若殿へお送りする戦文は、親衛隊で定められている決まりに従って書くことにしている。文を書いた者、宛先、要旨、内容の順だ。内容も極力少ない言葉で伝わる事が望ましいとされる。つらつらと書くよりも、情報は早く、そして第二報、第三報を送ってこいという事らしい。


フッ。ふと若殿のお顔を思い浮かべて、無礼とは思いながらも笑みが出た。まこと、変わったお方よ。だが、面白い。




天文二十一年(1552) 八月中旬 尾張国海部郡萱津村上萱津 前田 利家




“パシャパシャ”と、あちらこちらから水を切る音が聞こえてくる。

まだ薄暗い中、殿が馬廻りを率いて出陣をされた。庄内川に到着するや、すかさず対岸の敵に目掛けて突撃命令が出された。敵は柵でも作ろうとしている所のようだ。丸太を運んだり立てたりしている。どこも中途半端な仕上がりだ。川の水は多いが渡れぬ程ではない。馬廻りの皆とは川で伴に遊んだものも多い。誰一人怯むことなくすぐに川に飛び込んだ。この季節の川は気持ちがいいくらいじゃ!


「犬っ!俺に遅れを取るでないぞ!」

後ろから殿のお声が聞こえたかと思うと、馬に乗られた殿が水飛沫を盛大に上げながら颯爽と先を行かれた。

「おぅ!」

気合を入れて前に進む。膝上にまで水に沈むが問題ない。周りを見ると、右手の奥に守山城からの御味方が見えた。織田孫三郎様の手勢だ。戦慣れしているだけはある。孫三郎様の手勢も皆が怯まず粛々と渡河している。今回はせっかく殿に初陣をお認め頂いたのだ。遅れる訳にはいかん。


「犬千代!こちらの方が浅いぞ」

「内蔵助!お主もここにおったか。あと少しだな」

親交の厚い佐々内蔵助と共に川を駆ける。

「その方は此度が初陣じゃ。逸る気は分かるが無理をするでないぞ」

「なんの!無理などしてはござらぬ!」

「左様か。その方はこの戦の後に元服となろう。その祝になるような戦果があるとよいの」

「この槍で敵を仕留めて見せるつもりだ」

「その意気じゃ!」

内蔵助と話しているうちに川を渡り終える。少し先には清洲方の兵が見えた。呆けた顔をしている者ばかりだ。我等がこれ程早く川を渡って押し寄せるとは思っていなかったのだろう。我らが渡っている間に弓でも射かけてくればよかったものを。士気の差は歴然としている。負ける気がしない!


初陣だが恐れは無かった。むしろ味方に遅れを取る事の方が恐ろしい。元服前だから致し方ないが、馬に乗ることが出来れば少しは違うのだが。いや、無い事を悔やんでも致し方なしだ!内蔵助も徒なのだ。駆ければ良い事じゃ。自分に言い聞かせて、精一杯駆けて敵に向かう。敵の一人が薄鈍く刀を抜くのが見えた。


「織田上総介様が小姓、前田犬千代にござるっ!いざ、参らん!」

散々に鍛錬で振り回してきた槍をぎゅっと握りしめて、これでもかという程に大きく叫んだ。




天文二十一年(1552) 八月中旬 尾張国海部郡東條村 坂井 友綱




「殿!このままでは持ちませぬっ!しばし後ろに引いて、態勢を持ち直しましょうぞ」

川沿いの前線を偵察してきた齋藤権兵衛が膝をついて具申してくる。そうか、持たぬか。弾正忠の動きがここまで早いとは見誤ったな。

「分かった。薬師寺の辺りにまで本陣を下げる。手勢はこちらの方が多いはずじゃ。そこから盛り返すぞ」

“はっ”

儂の下知を受けて使い番が走る。権兵衛が本陣を下げる準備を始める。


「左京亮は本陣が下がる間、前線を支えよ」

「かしこまってござる」

皆が後ろに下がっては那古野方に背を付かれるだけだ。下がる一間を稼がせるために田上左京亮を前線に向かわせた。左京亮は我が家中でも豪の者と知られている。少しの暇を稼いでくれるだろう。


散らばった兵を集めながら後退を進めていると、向こうから馬に乗った使い番がやってくるのが見えた。確か甚八殿か三位殿の家臣だったはずだ。顔に記憶がある。

“申し上げまする!”

「なんじゃ!」

「はっ!上萱津方面の御味方が総崩れし、坂井甚八様御討ち死してございまする!」

「なんだと!?」

甚八殿が討ち死に?馬鹿なっ!それほど押されているということか?

「三位殿はどうしたっ!」

「態勢を整えようとされておりましたが、御味方は総崩れにて、清洲城へと撤退されるとの由。某はその旨お伝えするよう下知を受けましてごさりまする」

「三位殿も敗れたか。……そうか、ご苦労だったな」

声を掛けて労うと、使い番の男が"御免"と申して清洲方面に発っていった。


このままでは不味いな。上萱津が落ちたとなると、清州城と我等は分断される恐れがある。

「ええい!薬師寺では事足らぬ。一旦甚目寺まで引くぞ!このままでは清州までの退路が絶たれる恐れがある」

大将が死んでは戦は終わりよ。儂は生き延びねばならぬ。馬の鼻を西では無く北に向ける。


「と、殿!」

乗馬した権兵衛が必死に付いてくる。徒の者は少し遅れているようだが致し方無いな。北上するだけだ。後で付いてこれるだろう。


甚目寺にまでたどり着くと、静寂が訪れた。まだ敵方はこちらまでたどり着いていないようだ。ここから清洲城まではすぐじゃ。慌てる事は無い。一息を付いて味方を待つことにしよう。

「殿、味方が付いたようですぞ」

権兵衛が指を指す方に味方の旗印が見えた。随分と兵が少ないの。

「残りの者たちは?」

たどり着いた兵達に訪ねる。

「敵の追撃が早く、薬師寺の付近で野戦となりました。我等は何とかこちらに来れましたが、此処に来るのに必死で他は分からず……」

薬師寺にまで敵が来た?左京亮はどうしたのだ。それに三百はいた手勢がこれでは百にも満たぬではないか。


「こちらに向かったのはその方達で全てか?」

兵たちが申し訳なさそうに“はい”と応える。

「殿、この分では我等だけで反攻するのは難しゅうござりまする。それに上萱津も撤兵しているとあらば、一度清州に戻られるが得策かと」

権兵衛が上萱津の方を眺めながら話す。上総介の手勢が追って来かねぬと言いたいのだろう。分かっている。分かっているのだが、あまりの変化にすぐに判断がつかない。


「やむを得ぬ。一度清州城まで引くとしよう。これ以上落伍者は出せぬ。皆行くぞ」

儂が命じると、傷を負っていない近習が力強く答えた後、後から追いついて来た者たちが疲れたように応じた。

「松葉城と伊賀守殿、深田城と孫十郎殿は如何いたしまするか」

「ここで手を煩わしておっては追手に追い付かれるやも知れぬ。放っておけ。行くぞ」

改めて皆に命じてから馬の腹を蹴った。徒の者が走って付いてこれる程度で進む。これならば半刻もすれば清州城につけるだろう。


それにしてもここまで敗れるとはな。問題は今後どうするかだ。甚八殿が討ち死か。三位殿の手勢も被害を被っているだろうな。口惜しいが上総介を武力で抑えるのは難しいようだ。

であれば中から崩すしかない。弾正忠家を中から……。家政を司る翁を葬れば変わるかもしれぬ。それに今川だ。上総介が美濃の齋藤と懇意にしている以上、我等にも後ろ盾が必要だ。長島の坊主は当てにならぬ。後ろ盾とするには今川は少し大きいが、雪斎殿の感触は悪くない。なに、いざとなれば今川も中から崩してくれる。守護様に大和守様。フフフ、手の上で転がすのは儂の得意技よ。




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