第六十一話 離間の計




天文二十一年(1552)六月上旬 三河国額田郡康生町 岡崎の町 今川 氏真




"買って行かまい"

少し先で露店の店主が通行人に声を掛けている。店が少ないからか、距離があっても声が聞こえる。府中ではこうは行かないだろうな。


「岡崎と言えば三河でも大きな町と聞きますが、あまり栄えているとは言えませぬな」

「左様でござるな。これでは富士や沼津にも遠く及びませぬな」

横を歩く吉良上野介と三浦内匠助が話をしている。確かにな。三島と比べるといい程度かも知れぬ。随分と閑散としている。


せっかく岡崎まで来たので町に繰り出すことにした。ただ、今川の統治下とはいっても駿河や伊豆ほど統治が浸透しているわけではない。言わば占領地に来ているようなものだ。仰々しいと言われるかも知れないが、念のため二百の手勢が俺を護衛している。


先程まで声を上げていた露店の店主が、慌てて姿勢を正して平身低頭している。今川の軍旗を棚引かせた軍勢が通るのは珍しくないと思うが、慣れていないのだろうか。通りすがりにちらりと覗く。これはあれだな。怯えているというよりは、面倒を避けようと目を背けている顔だ。


軍政下の町と言うのはこんな感じなのだろうか。松平への愛着なのか、今川に対する恐怖なのか分からないが、駿河や伊豆では感じない今川に対する緊張感がある。確かに尾張と三河は長い間戦いを続けている。岡崎は出兵の拠点でもあれば兵糧の置き場でもある。広い意味では前線と言ってもいい。戦が身近にある分苦しい生活なのかも知れぬ。むしろ戦が続く国はこれが普通なのかも知れないな。上洛した時にもっとこうした点を見ておけばよかった。


「若殿、間もなく大樹寺につきまする」

先導を務めている朝比奈弥次郎が俺の所まで下がってきて告げた。

「で、あるか。あい分かった」

もうすぐか。楽しみだな。大樹寺は前世でも訪れる機会が無かった。岡崎城は何度か訪れたのだがな。大樹寺まで足を伸ばす機会が無かった。


「しかし若殿。どうして大樹寺を訪れようと?」

上野介が問いかけてくる。上野介の横には弟にあたる吉良左衛門佐がいる。三河の人とその関係に詳しいから連れてきた。

「聞けば大樹寺は松平の祖先が松平の中から征夷大将軍が出ることを願って名付けたと聞く。面白いではないか。どのような所かと気になってな」

「此度は二百の精鋭をお連れとはいえ、大樹寺は数百からなる僧兵を持っておりまする。服属している松平の菩提寺とは申せ、何があるか分かりませぬ。お気をつけ下さいませ」

左衛門佐が忠告してくれる。大樹寺だけで数百も兵を持っている?どれだけ財源があるんだよ。やはり三河はまだ坊主の力が強いな。


「で、あるか。数百も武力を有するとは知らなかったぞ。だが予め文で訪問の承諾を取ってはある。荒鷲で西を統括している弥次郎も問題ないと申していた。とはいえ不穏な動きがあれば頼むぞ」

油断するつもりは無いが、まぁ大丈夫だろう。むしろ岡崎城の方が落ち着かん。松平の連中が刺さるような目で見てくるんだよ。仇敵を見るような目をしている者もいる。


竹千代が俺を敵視している感じは無いのだが、松平の家臣達は今川に従うを良しとしていない。先々代の清康の頃に独立して力を持った事が忘れられないのかも知れぬ。ま、これは思っていても言葉にしては行けない事だろう。確たる証拠が無ければ無闇に不穏を生むことになるからな。どうしたものか……。悩ましい課題だが、あまり俺がしゃしゃり出る訳にもいかないからな。




天文二十一年(1552) 六月中旬 尾張国愛知郡鳴海町 鳴海城 坂井 友綱




年嵩のある僧の案内で城内を進む。先程は冷や汗をかいたわ。雪斎殿から派遣された使者は、確かに午の刻に鳴海城と告げていたはずだが、こちらが聞き間違えただろうか。約束の時間に鳴海城へ到着すると、門番が不審そうな顔を浮かべながら奥に取り次いだ。すると若い僧が現れて"約束は未の刻では無かったか"と言い出した。お互いに戸惑っていると、年嵩の僧が現れて応対の不備を詫びだした。


「先程は誠に申し訳ありませぬ。よく言い聞かせて起きますのでご容赦頂けますと有り難く存じまする」

柔和な顔と優しげな声で僧が話しかけてくる。どこか心地好い話型だ。もしかしたら名のある僧なのかも知れぬ。

「なんの。お気になされますな。大した事ではござらぬ。あまり厳しくなされぬよう」

「ご寛大なお心配りに感じ入りまする。禅師ですが、少し取り込んでおりまして、こちらでお待ち願えますでしょうか」

案内された部屋は総畳の部屋であった。山口某が設えていたとは思えぬ。鳴海城が今川方になってそれほど時は経っていないと思うが、流石は今川と言ったところか。


それにしても雪斎殿は取り込んでいるか。これはいよいよ何処かで手違いがあったのかも知れぬな。もしくは前の予定が相当に押しているか……。

しばらくすると、茶と菓子が運ばれてきた。付き人の分まで用意しているとは丁寧だな。供は続きの控えの間で寛がせて一人待つ事にした。庭には今川の旗印である足利引両紋が入った旗が棚引いている。織田木瓜ではない旗の中で茶をもらうのも悪くない。


"殿"

控えの間にいる齊藤権兵衛が襖越しに話しかけてきた。

"どうした"

小声で静かに聞き返す。

"どうやら前の客人は平手中務丞殿かと"

"なんだと?なぜ分かる"

"先程荷車を警護する者の中に見知った顔がありました。間違いござらぬ。あれは中務丞殿の一行かと"

"分かった"

平手中務丞が雪斎殿と会っている……。先の戦いの処理か?いや、上総介がこちらの動きに気づいて先手を打ってきている可能性がある。

"探りますか"

権兵衛が問いかけてくる。中にまで付いてきている供は五人だ。雪斎殿が儂に手を掛けようとするなら五人でも四人でも変わらぬ。幸い警備も手薄だ。探らせるのが吉だな。上総介の先手を打てるかも知れぬ。

"今川に勘づかれそうになったら無理せず引くようにな"

"ははっ"

権兵衛が立ち上がる音が微かに聞こえた。頼りになるやつよ。




天文二十一年(1552) 六月中旬 尾張国愛知郡鳴海町 鳴海城 太原 雪斎




平手中務丞との交渉が終わって一人茶を飲みながら兵法書を読んでいると、門下の一人がやってきた。

「御師匠様、客人の付き人が控えに戻って報告しております」

「そうか。こちらの手筈通り進んだか」

「はい。中務丞殿の付き人の事を知っていたようです。それに我らに見られていないと思うてか、随分大胆に調べておりました」

「ほぅ、そうか。ご苦労だったな。少し仕度をしたら大膳殿の所へ向かう」

「承知致しました」

書物を片付けてから袈裟を身に付ける。大膳を招いた部屋までは少し距離がある。大分待たせたのだ。少しは急いている振りでもしておくか。




「お待たせして申し訳ござらぬ。ご無礼致した」

「これはこれは、気にしてはおりませぬ。見事な菓子と茶を頂戴して、むしろ充実した一時でござりましたぞ」

「かように申して頂けると有難い。改めて今川家臣の太原雪斎でありまする」

儂が名乗ると、大膳が居ずまいを正して名乗り始めた。

「織田大和守家臣、坂井大膳でござりまする。此度は今川家の軍師、雪斎殿に目通りかない、祝着でござりまする」

大膳が深々と頭を下げてくる。中々に良い物を着ている。守護の家臣にあたる守護代の、さらに家臣という家格だが、大和守家の家老職を務めていて、かなりの権勢を保持していると聞くだけはある。


「さて、内々にお話があるとか。初めて文を頂戴した時は驚きましたぞ。何分つい先頃まで争っていた間柄ですからな」

儂が用向きを尋ねると、大膳がじっと儂を眺めてくる。なかなかの目力よ。儂は何とも思わぬが、この気迫に押される者も多かろうな。

「今、尾張の地は守護様に力なく、守護代や奉行、果ては国人が力を持って争っておりまする。某は大和守様こそ尾張に安寧を齎すお方だと思うておりまするが、家臣筋にあたる織田上総介が大和守様に相談も無く、斎藤山城守殿と繋がって力を伸ばそうとしてございまする。であれば我等は今川様と誼を通じたいと思った次第にごさりまする」

大膳の言葉通り、上総介信長は大和守の家臣にあたるはずだが、はっきりと対立を宣言している。弾正忠家は先代信秀の頃から何かと独断専行だったからな。大和守やその周りがこれを目障りだと思うても仕方あるまい。それに何より、此度の話は今川に取って悪くない話だ。


「誼を通じるのに断る理由はありませぬな。ただ、我等と通じて尾張を纏める以上、尾張全土が大和守殿のものにはできませぬ。今川が既に抑えた所は無論の事、他にも幾らか所領を得ねば収まりがつきませぬな」

「それはもちろん考えておりまする。山口左馬助殿を中心とした愛知郡の所領は今川様に、当家は上総介の残りの所領を、上四郡は我等と今川様とで折半、と考えておりまする」

下衆な話よ。下四郡はまだしも上四郡まで取った気でおるようだ。上四郡には織田伊勢守がおるが何とするつもりやら。


「それで話が成るのであれば、御屋形様にお話してみよう」

「おぉ!左様でごさりまするか。ありがとうございまする」

大膳が嬉々とした表情で礼を言いながら頭を下げてくる。

「有意義な面会であり申した。ただ、先ほどの話は、成るも成らぬとしても今日の件は内密の方がよろしかろう」

儂が今日の話を密談とするように話すと、大膳が"はい"と大きく頷いたあと、嬉々としていた表情を直して真顔で問いかけてくる。

「弾正忠家よりも、大和守家と通じて良かったと思わせてみせまする」

大膳がまじまじと儂の顔を見ている。中務丞とのやり取りを申しているのだろう。……腹の底に仕舞っておけば良い物を。ここで聞いてくるとは小者よの。ま、この程度の人物なのであれば、我が策は成ったも同然だな。


「中務丞殿とは先の戦いの処理をしていただけでござれば、特別な事はあり申さぬ」

見られたのなら仕方無い、諦めて話すといった体で大膳に話すと、卑しく笑みを浮かべて先を促してくる。

「左様でごさりまするか。先の戦いなれば、我が大和守家も参陣していた故、何をするか主家に報告あっても良さそうでござるが」

「ほぅ。すると、此度は中務丞殿に随分と銭を取られたが、あれは弾正忠家のためだけであったかな」

「銭を?」

大膳の笑みが消え、訝し気に問いかけてくる。

「うむ。……いかぬ。つまらぬ事を申した。忘れてくだされ」

儂が頭を垂れると、大膳が慌てたように"忘れまする、忘れますぞ"と応じた。


中務丞には、吹っ掛けられたというような状況を作るために、あえて捕虜交換の相場よりも随分と安い金額を提示した。中務丞は真面目な男なのだろう。相場の金額を提示した上で、あまりにも安いと断ってきた。それに対して面倒なやり取りはやめようと、今度は儂が法外な金額を提示して承知させた。


しかもそれを即金で支払った。中務丞はこちらの手際に驚いていたな。支払いに銭箱を渡したが、慌てていたのか、逐一銭勘定をしては今川に無礼と思うたのか、確認が甘かった。箱の上澄みだけを確認して、後は残りの重さが十分にあると申して受け取ったのだ。


「雪斎殿に吹っ掛けるとは中務丞も無礼ですな」

「なに、それだけ御家を考えてのことだろう。気にしてはおらぬ」

「寛大なお心、さすがは雪斎殿にござりまする」

大膳の安いおべっかを適当に受け流す。

「しかし……」

「しかし?」

少しの間をおいて思わせ振りに話すと、大膳がすぐに反応をしてくる。

「いや、何。あれ程銭を取るということは大和守家へも付け届けが行くかも知れませぬな。であれば弾正忠家を成敗する事も出来ますまい。ハハハ、上総介殿はよい家臣が、大和守殿に取っては面倒な人がおられますな」

「こちらから言うてもおらぬのに弾正忠家が納めに来るとは思えませぬが、用心はしておきましょう」


「では、御屋形様にお話した結果は、後日伝えるように致す。これを機によい間柄になれると良いですな」

「よろしくお願い致しまする。委細承知つかまつりました」


さて、中務丞はどう対応するかの。フフフ、銭箱の下には永楽銭ではなく金を入れてある。合意した金額が法外で既に大金な上、それを上回る銭が箱から出てくるはずだ。中務丞は大和守家からも弾正忠家からも痛くない腹を探られる事になる。


小さな不審が疑心になり、疑心が反目に変わっていく。まず初手としては上々だな。

賽は投げられたのだ。




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