第五十八話 謀略の始まり
天文二十一年(1552)四月下旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 今川 氏真
「久しいな。此度の上洛、大儀であった。礼を申すぞ」
「なんの。予てより悲願であった上洛がかない、麿の方こそお礼申し上げまする」
家臣が居並ぶ中で俺が声をかけると、草ヶ谷権右少弁がゆっくりと、丁寧に頭を下げてきた。気のせいかな、少し笑みが陰っていたように見えた。
「思ったものでは無かったか。洛中は」
俺が言葉を掛けると、頭を上げた権右少弁が自嘲するような笑みを浮かべて話し出した。
「いや、面目ありませぬ。代々上洛が悲願であった故に、まるで京を桃源郷のように思うておじゃりました。いざたどり着いてみると、それはもう、中々に朽ちていて悲しゅうおじゃりました」
権右少弁が辛そうな顔をして話す。まぁ気持ちはよく分かる。俺とて上洛した時は驚いた。道が整備され観光客で溢れ返っていた前世の京都とは全く異なり、有名な寺社仏閣でさえ所々傷んでいるところがある有り様だった。前世と違って、趣ある建物の横にコンクリートの建物があって気落ちするという事は無かったが、侘しく荒涼とした寂しさはあった。何とか維持しているような仏閣も、そこに至るまでの家々が酷かったりする。洛中は官吏等の家も多いはずだからそれなりの身分ある者の家が多いはずだが皆貧しい生活を余儀なくされているのだろう。
権右少弁の言葉に、庵原安房守等が首を傾げながら頷く。洛中を知らぬ者には想像が難しいかも知れない。
「上洛をしてみて、府中の見事なるを改めて感じておじゃりまする」
「そうか。蔵人と左近衛将曹は息災にしていたか」
「はい。お陰で久方ぶりに会え申しました。重ねてお礼申し上げまする」
感慨深そうに笑みを浮かべて、権右少弁が再び頭を下げてきた。洛中は残念なところもあっただろうが、子達に会えたのは良い機会であったはずだ。
「さて、文で大方は報告してもらっているが、改めて聞かせてもらおう」
俺が本来の用向きを述べると、権右少弁の顔から緩んだ部分が消えて真面目なものとなった。
「はい。まず朝廷でおじゃりますが、ご用命の通り本願寺への門跡、裁可相成りました。内府様のお話では遅くとも秋までには門跡に列する予定との事でおじゃりまする」
「うむ。大儀であったな。既に三河の坊主共には門主か、本山かは分からぬが、何らかの沙汰が出ているようだ。随分と静かになったと聞いている」
「それはよろしゅうおじゃりました。それから幕府でおじゃりますが、文にお書きした通り御屋形様が三河守護に任じられておじゃりまする。幾分か銭を使いましたが邪魔立ては防げました」
権右少弁が少しだけ申し訳無さそうな顔を浮かべた。千貫の事を気にしているのかも知れぬ。
「大した銭では無い。むしろ幕府の件もよく収めてくれた。その方が出掛けた時よりもこの話は大事になっているのでな。つまらぬ横槍で止まらずに済んで良かった」
これは本心からなのだが、権右少弁が不思議そうな顔をしている。京からこちらへ向かっている最中の事で、まだ赤塚の戦を知らないのだろう。
「尾張の状況が面白くない」
「ほぅ」
「今月の上旬に織田上総介と山口親子との間で戦があった。清洲の大和守まで出張って来たのだが山口親子がよく頑張ってくれてな」
「頑張った。……なれど状況がよろしゅうないと?」
「そうだ。上総介と大和守が連合したが、山口親子だけで凌いだからな。末森の織田も犬山の織田も、一族で争っている時ではないと一つに纏ろうとしている節がある」
俺が説明をすると、権右少弁が得心したような顔を浮かべた。話が早くて助かる。流石は公家の末裔だ。世の流れを掴むのに長けている。
「なるほど。今川の出城に対して織田の各勢力が一枚岩になりそうだということでおじゃりますな」
権右少弁の言葉に頷いて応える。そうなのだ。上総介の一隊が朝から仕掛けて始まった赤塚の戦いは夕方まで続いた。始めこそ奇襲を受けたような格好で山口九郎次郎の隊が怯んだが、上総介、つまり信長が打ち掛かる頃には態勢を整えて互角に戦っていたらしい。大和守が表れると兵力差が開く所だったが、櫻中村城から九郎次郎の父親である左馬助が三百の兵を率いて救援に駆け付けたらしい。左馬助ははじめから笠寺にいる今川勢は当てにしてなかったのだろう。
左馬助の援軍を加えても織田勢の方が僅かに兵は多いが、援軍に奮起した山口勢が押し返しているところで日暮れを迎えた。信長は引き際と悟ったのかあっさりと陣を引き払って行ったらしい。
戦いの結果自体は悪くない。欲をいえば尾張に攻め込むべきだったと思うが、これは結果論に過ぎない。尾張に攻め込んでも山口勢が敗れれば後ろを刺される事になる。笠寺の今川勢が動かなかったのはやむを得ない。そもそも雪斎の指示が"待機"だったからな。
だが織田が纏まるのは頂けない。尾張は織田の各勢力が分裂していてこそ取りやすいのだが……。
「そういう事でな、三河に手を拱いている所ではない。坊主どもとの和議を一刻も早くせねばならない所だったのだ」
「左様でおじゃりましたか。微力ながらお力になることかなったようで何よりでおじゃりまする」
伊豆介が大きく頷いている。その傍らで安房守や関口刑部少輔がため息をついている。伊豆介は今川の全局を見て俺に同意してくれてるのだろう。安房や刑部は父上の顔を浮かべているに違い無い。また俺が三河と尾張の事を考えているとな。
そりゃそうだよ。これから信長はどんどん力を付けていく。潰せる内に潰した方がいいはずだ……。色々やっているつもりなのだが、今のところ概ね史実通りに進んでいると言っていいだろう。ただ、"早く"と急く気持ちの一方で、史実通りに進んでくれているという安心感もある。こればかりは本当に難しいな。前世で読んだ転生物では、主人公が思い切りよく進んで敵を倒していたが、実際に同じ立場になってみると難しいぞ。俺が上手く立ち回れていないだけか?この選択で良かったかと自問自答しながら進んでいるのが現状だ。
「若殿」
脇息に持たれて考え事に耽っていると、脇に控えている上野介から小声で呼ばれた。皆が俺の方を見ている。
「ふむ。……ま、さざれ石がいきなり大きな岩にならぬように、一枚岩も直ぐには出来ぬ。綻びはありそうだ」
最近届いたばかりの文を胸元から取り出し、ヒラヒラと手で揺らす。文の事はまだ伊豆介しか知らぬせいか、権右少弁だけでなく皆も気になっているようだ。
「坂井大膳からだ」
「坂井?大和守家の家老ではありませぬか」
俺が差出人の名を明かすと、安房守が訝しげに問いてくる。安房は中々人に明るいな。雪斎の身内なだけはある。
「そうだ。つい先頃に文が届いてな。なに、取り留めもない文よ。今川軍の動きや見事と書いてある」
「益々分かりませぬな。坂井大膳が何故にその様な書状を若殿へ?」
「分からぬ。これは俺の推測に過ぎないが、大膳は今川と伝が欲しいのかも知れぬ」
「伝?」
「うむ。大和守は日に日に力を付ける弾正忠家を快く思っていないだろう。今回の戦いでも弾正忠家は大和守家よりも多くの兵を動かしている。それに上総介の馬廻りが使える事にも気づいたはずだ。今川に縁を作り、その後ろ楯をもって上に立ちたいと思っても可笑しくはない」
俺の意見に、家臣達が驚いている。確か史実でも、劣勢に苦慮した大和守家は今川との繋がりがあったとされていたはずだ。昨日の敵は今日の友とはよく言ったものだな。
「勝手な話でおじゃりますの。だがこれで尾張は面白くなるのでは?」
権右少弁が笑いながら問いかけてくる。
「坂井大膳の文に寄れば、父上にも文を出したとある。父上がどのようにお応えになるか次第だが、この伝を使うなら引き続き調略が行われる事になる。今は攻め時と考える俺とは意が異なるな」
「若殿」
関口刑部が渋い顔をしながら咳払いをしてくる。戦になったとしても若殿は関係ありませぬぞとでも言いたげだ。
「分かっている。尾張に手は出さぬ。俺は渥美半島の内政に専念する。しばらくは渥美と府中を行ったり来たりだ。聡子に会いたくなったら帰るくらいか」
俺の冗談に場が和んだ。治部大輔は妻にメロメロだと誰かが府中のこれまた誰かに伝えるかも知れぬ。そしてそれが聡子の耳に入るかも知れないな。夫婦仲が良いのはいいことだ。それに事実だしな。うん。
聡子は、きっと顔を真っ赤にするだろう。
これがまた可愛いんだ。
天文二十一年(1552)五月上旬 駿河国安倍郡府中今川館 今川 義元
差出人の名を告げて文を渡そうと差し出すと、雪斎が僅かに怪訝な様相を浮かべながら、文を丁寧に受け取って読み始めた。
ふと、随分と手に皺が出来ていると感じた。
この無二の師との出会いから……そうだな、もう三十年にもなるか。お互い歳を重ねたものだ。
「坂井大膳……。織田大和守家の重臣ですな。文の内容は……何の変哲も無い。季節の挨拶に、今川勢への賛辞ですか」
「参議殿、雪斎殿、どういう意図でしょうや?妾には坂井とやらの目的が分かりませぬ」
母上が眉を顰めている。同席している三浦左衛門尉や朝比奈備中守、松井兵部少輔も怪訝な顔を浮かべながら頷いている。余の中で思う所はあるが、まずは師匠殿の意見を聞いてみるか。
「雪斎はどう見る」
余が問いかけると、雪斎がニヤリとしながら口を開いた。新たな策でも思い付いたか。
「今川との縁を求めておりますな。十中八九は当家の後ろ楯でございましょう。今川の後ろ楯を持って尾張における大和守家の立場を揺るぎ無いものとしたいのかと愚考致しまする」
「なんと!?なれど当家と大和守家とはつい先頃争ったばかりではありませぬか」
母上が驚かれている。
「まぁまぁ母上、戦国の世のならいでございまする」
「なれど……刃を交えてからあまりに時が短く……」
「左様。単なる腹の探りかも知れませぬぞ」
左衛門尉が相槌を打つ。まぁそれもあるかも知れないな。
「どうなされまするか」
兵部少輔が問いかけてくる。兵部少輔は府中にいることが多い雪斎に変わって、三河を束ねる事が多い。
「山口親子の寝返り以降、目立って続く者が出ない。上総介とやらはうつけと呼ばれていたが、中々に国をまとめているようだ。だが、大和守家に今川の匂いがすれば尾張は揺れるだろう。その切っ掛けとしてこの文は悪くない」
余が思ったことを告げると、兵部少輔が少しの間の後でゆっくりと"はっ"と応えた。引っかかっているものがあるな。備中守も兵部少輔の顔を見ては苦い顔をしている。尾張で戦っている者達の事を考えたのかも知れぬ。
「鞍替えする者が少ないのは、弾正忠家筆頭家老の存在がありますな」
「弾正忠家の家老?」
母上が問いかける。流石に弾正忠家の家老の事までご存知無いだろう。目で雪斎に説明を促す。
「平手中務丞と申しましてな。先代の頃から弾正忠家を支える屋台骨でございまする。大きな存在ですが、末森の織田家に仕える重臣と日に溝が深まっているとか。大和守家も使えば燎原の火となるやも知れませぬ」
燎原の火か。面白い事を言う。先程の不敵な笑みはこれに関する策でも思い付いたのかも知れぬ。二人になったときに聞くとしよう。
「治部大輔等の働きかけで三河の坊主が静かになったが、国人どもに燻っているものがいる。その様な中に無理をして尾張で戦をする必要も無い。ここは調略に力を入れる」
余の言葉に雪斎が頷くと、左衛門尉と備中守、兵部少輔が頭を下げた。
「雪斎。大和守家も含めた調略のためにしばらく三河と尾張に行ってくれるか。なに、大和守家はつい先頃まで戦っていた相手だ。中には戦を主張する家臣達もいるだろう。宥め役はその方しかおらぬ」
「委細、承知仕りました」
雪斎が応じると、備中守と兵部少輔が安堵したような表情をした。やはり主戦派の事を心配をしていたのだろう。尾張方面は雪斎に任せるとして、余は武田との婚儀を纏めねばならぬ。
甲斐の山猿に文でも書くとするか。
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