第五十九話 御輿
天文二十一年(1552)五月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 義元
茶を運んできた小性を下がらせて雪斎と二人になる。湯呑みに手を掛けると、程よい温かさの感覚が伝わってくる。新茶だろう。口当たりの良い円やかな甘味が広がったかと思うと、後から来る渋みが喉越し良く感じた。旨い。それに温くてちょうど良い。気が利くな。五月にしては暖かい今日はこのくらいの温さがちょうど良い。
雪斎も静かに茶を飲んでいる。しばらく二人で何も言わずに時を過ごした。お師匠の事だ。この後余が何を聞くか分かっているに違いない。静かに、瞑想するように座っているが、この黒衣の宰相殿の頭の中はさぞかし策謀渦巻いている事だろう。
「……さて、どのようにして燎原の火とするのか聞かせてもらうか」
脇息に凭れて茶を飲みながら雪斎に問いかける。湯呑みの手触りがいいな。これは志戸呂焼きか?
「御屋形様に来た坂井大膳からの文を使いまする。拙僧が三河と尾張に入っている最中に、大膳と会う機会を設けます。並行して平手中務丞ともやり取り致しまする」
「中務丞と?」
湯呑みから視線を移して雪斎の顔を見ると、黒衣の宰相が不敵な顔を浮かべながらゆっくり"はい"と申した。
「先に行われた赤塚の戦いでは、死傷者こそ数十と、両軍とも同じ程度だったようですが、生け捕りされた捕虜は織田勢よりも兵力に劣る山口勢の方が多かったようです。細かなやり取りは後日行う事としてその場は捕虜の交換をしておりまする。織田方の窓口は中務丞との事。この伝を使って一つ策を打ちまする」
大膳の文と中務丞との伝を使った策か。ふむ。離間の計であることは間違いないはずだが……。
「銭を使って何かするのかと思うが、仔細をここで聞いてしまっては面白くない。お師匠に万事任せるとしよう」
「お任せくだされ。ただ、相手が相手だけに上手く行くか分かりませぬ。三河と尾張に出向いた折りには第二、第三の策を仕込むように致しまする」
言葉とは裏腹に涼しい顔をして雪斎が応じる。茶を飲もうとすると既に空であった。茶か……。
「太閤殿下からの文にまた茶を所望したいとあったな。治部大輔の事だ。抜かりないと思うが折を見て伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
「治部大輔は随分と渥美の開発に力を入れているらしいの」
「そのようでございまするな。今度は川を作っているご様子でありまする。渥美半島の慢性的な水不足を解消するためとか」
水が無いから川を作るか。単純な事ではあるが、中々出来る事ではない。
「銭もかかるだろう」
「はい。ただ、治部大輔様は、水不足が解決できれば渥美半島の石高は二倍にも三倍にもなると仰せであったとか」
二倍にも三倍にも?渥美半島は既に三万石程あったはずだ。治部大輔に与えた時は高々一万石程度のだった。今でもよく開発したものだと関心をしていたが、それを二倍にも三倍にもするか。
「もしそれが本当に成るのであれば、尾張攻めは随分と楽になるな」
「左様でございますな。駿遠から大量の兵糧を運ぶ必要が無くなりまする。それに、何よりは治部大輔様が進める工事に大量の人夫が悪くない銭で雇われておりまする。人夫も、人夫が使う銭で潤う者たちも、今川の治世に満足しているとか。お陰で東三河は随分と落ち着いて参りました」
「まこと、治部大輔は銭を上手く使っているな。なれど息子にばかり任せてはおられぬ。せっかく東三河に手を煩わせずに済むようになったのだ。燻る西三河を鎮め、尾張での版図拡大に注力せねばならぬ」
雪斎がゆっくりと頷いている。
「雪斎。三河に向かう際には今橋にいる治部大輔の所に立ち寄ってくれるか。朝廷工作に東三河の慰撫と大儀であったとな。茶の件もその時で構わぬ」
「かしこまりました。お任せ下さいませ」
詰めたい話は終わったが、雪斎に立ち上がる気配が無い。さては何かあるな。文机に向かって座り直しながら続きを促した。
「何ぞあるか」
「はい。御屋形様のお許しを頂けるのであれば、此度の三河行きには竹千代を連れて行きたく存じまする。それから岡崎城までは治部大輔様にもご足労頂きたいと」
治部大輔と松平の倅を連れて行きたい?
「治部大輔と竹千代を?策に関係あるのか?」
雪斎の方を向いて訪ねると、雪斎が不敵な笑みを浮かべながら首を振っている。
「尾張への策には関係ありませぬ。西三河に影響力を持つ松平の主が誰であるかをはっきり見せるよい機会かと」
「今川と松平の関係……だな」
「はい。岡崎城の広間に松平の家臣や西三河の国人を集めまする。竹千代も同席させますが、上座に座るのは治部大輔様にございます」
"ハッハッハッ"
その時の様子を浮かべて思わず笑った。なるほどな。松平の家臣達がいる前で今川と松平の関係をはっきりさせると言うことか。さぞかし松平の忠犬どもが口惜しそうな顔を浮かべるのだろうな。
「よかろう。治部大輔には雪斎が直接話せ。余からは雪斎の求めに応じて西三河に行くようにとだけ文を出しておく」
「ありがとうございまする」
「竹千代を連れて行くのは西三河の支配を固めるのが目的の第一ではあるが、親心から来る情けもあろう。御師匠は随分と竹千代が愛い奴と思われる」
余が冷やかすと、黒衣の宰相と畏怖される雪斎が微かに笑みを浮かべて応じてくる。
「それは否定致しませぬ。竹千代は愚僧が今川の忠臣、賢臣となるよう手塩に掛けて育てまする」
「フッ。御師匠の手習いを事細かに受けることが出来るとは竹千代は果報者であるの。うむ。改めて竹千代の三河入りを許す」
余がはっきりと意を告げると、"ありがとうございまする"と雪斎がゆっくりと頭を下げた。身体が小さく、丸くなったと感じた。
天文二十一年(1552)五月中旬 三河国渥美郡今橋 今橋城 今川 氏真
家臣達と評定をしていると、雪斎の来訪が告げられた。あらかじめ評定の途中でも通すように伝えてある。しばらく待っていると黒衣の宰相殿が現れた。
「失礼致しまする」
雪斎が広間に入ってくると、その後を竹千代が着いてきた。前回に会ったときよりも、また少し大きくなったようだ。
「評定の最中に失礼致しまする。この度は御屋形様の命により西三河、尾張へと参ります。御屋形様からのお言葉をお伝えすることと、お願いがございまして立ち寄っておりまする」
軽く顔を動かして応じる。父上からの文にあった"雪斎の求め"というやつか。
「此度の一向門徒の沈静化、御屋形様はお喜びであります。また、豊川の普請も銭がまわって東三河が潤っておりまする。御屋形様は治部大輔様に大儀であるとお伝えするようにとの事」
「で、あるか。父上からの文にもそれとなく書いてあったが人伝に褒められると、また改めて嬉しくなるな」
雪斎が微かに笑みを浮かべながらゆっくり"はい"と応じた。ま、これは特に驚く事ではない。肝心なのは"求め"とやらの内容だ。
「この後、拙僧は岡崎に向かいまする。つきましては、治部大輔様にも岡崎までご一緒願いたく存じまする」
雪斎が願い出ると、竹千代が微かに驚いたような顔を浮かべた。恐らく今まで聞いていなかったのだろう。
「父上から雪斎の求めに応じるよう文を頂いている。断る訳には行かぬ」
どうせ俺は御輿にでもなるのだろう。気は進まないが、父上からの文がある手前、はっきりと"気乗りしない"などと申せぬ。"断る訳には行かぬ"とそれとなく意を伝えると、黒衣の宰相が不敵に笑みを浮かべながら"ありがとうございまする"と応じた。
ま、決まった事をあれこれいっても仕方ない。気持ちを切り替えるか。竹千代に会うのは久しぶりだったな。声を掛けておくか。
「さて、今日は竹千代がいるな。久しぶりの里帰りになるな」
「はい。御屋形様と御師匠様の御配慮により国許へ帰ることが叶いました」
ハキハキとしっかりとした受け答えだ。
「うむ。岡崎にはその方が来るのを心待ちにしているものも多かろう。期待に背く事無いよう日頃の成果を出すことだな」
「はい。治部大輔様のご忠告、肝に銘じまする」
竹千代が澄んだ瞳を浮かべて応じた。賢さは感じるが、歴史に名を残した狸親父もまだ純真な子供のようだ。
「岡崎訪問の件、承知した。急ぎならば今日にでも立つがどうする」
「明日の出立で構いませぬ」
雪斎と目が合う。何か言いたげだ。これは内密の話があるな。岡崎行きに関してだろう。この後二人で茶でもやりながら聞くとするか。
天文二十一年(1552)五月下旬 甲斐国山梨郡 長禅寺 武田 晴信
長く、気持ちのこもった読経が終わると、岐秀元伯老師が儂のもとへと向かって参られた。
「戦で大変な最中に、子の皆々に見送られて瑞雲院殿も嬉しく思われておいででしょう」
「当然の事をしたまででございまする。導師、此度は誠にありがとうございまする」
儂が老師に向かって頭を下げると、後ろに控える左馬助、刑部少輔の弟二人が続いて頭を下げた。皆が老師に教えを受けた間柄だ。師に対して誠意をもって頭を下げる。
「なんの。拙僧の方こそ瑞雲院殿には世話になり申した。その瑞雲院殿をお送りする機会を与えて頂いております。こちらこそ礼を申し上げねばなりませぬ」
老師が儂等に礼を申されると、"御身内でゆっくりと過ごされませ"と仰いながら付き人と共に去って行かれた。広い本堂に骨壷の中の母と、儂達兄弟だけが残される。
「信濃方面に動きはないか」
「はっ。大将としておいてきた飯富兵部少輔からは村上少将に動きはないと」
北信濃の豪族、村上左近衛少将義清と戦っている最中に母上が逝去したと連絡を受けた。経験豊富な兵部少輔を大将として置いて急ぎ甲府へと戻ってきた。葬儀が終わり次第、信濃平定に戻るつもりだ。大将として置いてきた兵部少輔は儂に気を使ってか、左馬助に戦況の詳しい報告をしている。その影響で左馬助の顔を見ると、つい信濃が気になってしまう。
「小県郡の真田が頑張っておる様子でごさりまする。次々と村上家臣団を切り崩しているとか」
真田弾正か。やはり使えるな。信濃平定の折りにはもう少し側で使ってもよいかもしれぬ。
「村上少将は我らを攻める絶好の機会なれど、家臣団の動揺を抑えるために時を使ってしまっておりまする」
「そうか」
「……御屋形様、兄上。信濃の事も大事ではありますが、今は母上を弔いましょうぞ」
儂と左馬助が戦況を確認して話し合っていると、苦笑いを浮かべながら刑部少輔が話しかけてきた。
「そうだな」
「すまぬ。刑部」
母上の戒名が書かれた位牌に向かって皆で合掌する。
「姉上に続いて、母上も逝ってしまわれましたな」
刑部少輔が立ち上る焼香の煙を眺めながら呟いた。左馬助が静かに頷く。母上は姉上の事を可愛がっていたからな。
「儂達にはもはや母もいなければ……父もおらぬ。兄弟で助け合ってこの乱世を生き抜かねばならぬ。二人とも頼りにしておるぞ」
儂が弟たちに告げると、二人の弟が力強く頷いた。
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