第五十五話 夢のあとに
天文二十一年(1552)二月中旬 和泉国泉北郡堺 草ヶ谷 之長
「流石は堺であるの。ここまでとは思わなかったぞよ」
堺の賑わいに父上が目を輝かせている。人が人を掻き分けて歩いている。堺では府中と同じく大量の銭と人が動いて活気がある。府中も発展著しいとはいっても堺には及ばない。
「今少し進みますと納屋さんがおじゃりまする」
父上が麿の言葉に軽く応じると、先に進まれた。
父上は府中から上洛して急ぎ朝廷と幕府を巡られた後、麿の案内で洛中をまわった。音に聞く数々の寺院や市、禁裏等を巡る度に目立ったのは京の荒廃だった。父上は日に日に肩を落とされ、荒れた都を嘆かれていた。内府様とて府中が懐かしいと仰せになる位だ。府中がそれだけ栄えているということであろう。
せめて上方の賑やかな処を少しでもご覧頂きたいと思って案内しているのが堺だ。随分と気が晴れた様子なれば、お連れして良かったと思う。
「蔵人、堺の入口は堀で囲っておじゃったが、いざというときは籠って戦うということでおじゃるか」
「左様でおじゃりまする。ここ堺は会合衆と呼ばれる豪商らで作られた集まりが治めておりまして、大名の支配を受けておりませぬ」
「これだけ賑わっておるのならば、どこぞの大名が欲しいと思いそうなものじゃが」
「堺に入る荷を必要としている多くの大名を敵にまわすことになりまする。それに武家だけではおじゃりませぬ。多くの寺社仏閣が堺を使っておりまする。落とすのは容易ではおじゃりませぬ」
「三好も畠山も手を出しておらぬということか。なれど落とした時の利を考えると誰かが挑みそうなものじゃがの。それに堀は立派でおじゃるが戦になって囲まれた時に兵糧の心配は無いのでおじゃるか。見たところ周りには田畑も乏しいが」
父上が兵糧の心配をしている。父上は今でも今川の家臣ではなく食客の様なものだが、すっかり武将のような考えをされている。父上の変化が少し面白かった。
「納屋さんを覗いた後は堺の湊にまで脚を伸ばしましょう。湊に行くと分かりまするぞ。蔵がいくつも立ち並び、山のように米や味噌、塩が入っておりまする。どれも商いに使う代物でおじゃりますが、戦となればそれらを使って戦いましょう」
「あれだけあれば一年でも二年でも戦えまする」
麿の言葉に左近衛将曹が続く。左近衛将曹は赤鳥堂と享禄屋の荷運びの護衛として堺には頻繁に来ている。それだけに堺の事情には詳しい。一年や二年というのも確かなのだろう。
しかし家族三人で堺の町を歩くことになるとは……。少し前までは想像もつかなかった事であるな。人の生とは不思議で面白いものだ。
「そういえば父上、若殿から文は届きましたか」
「そうじゃったな。飛脚で届いたばかりじゃ。三河守護と千貫の件、ご承知頂いた」
「左様でおじゃりますか。よろしゅうおじゃりましたな。しかし、父上が千貫と仰せになった時の弾正左衛門尉殿の顔といったら面白うおじゃりましたな」
「ホホホ、麿も笑いを堪えるのに大変でおじゃったぞよ」
父上がくすくすと笑われている。左近衛将曹も静かに笑っている。ま、幕府の窮状は嘆かわしい程と聞く。千貫は願ってもない収入となろう。若殿のお許しがでなければ千貫はこちらで何とかしようと思っていたが不要になったか。麿にも来た若殿からの文では、幕府の横槍をよく防いだとお褒め頂いた。まだ分からぬところはあるが、此度の案件は朝廷も幕府も滞りなく進むだろう。
浮いた千貫、無かったものと思って派手に使うか。伊勢伊勢守、広橋右大弁。……このあたりに使っていくとしようか。右大弁は分からぬが、伊勢守は話が通じる方と聞く。適当に燻っている所領問題でも仲介して政所への付け届けでもしよう。一度会えば茶でも理由に足しげく通って知己を得ていくか。
天文二十一年(1552)二月中旬 和泉国泉北郡堺 納屋 今井 宗久
パチパチと大きな音を立てて火の粉が舞った。釜を置いてあるので火の元は見えないが、しっかりと火が付いてくれているようだ。釜からシュンシュンと松風の音がよく聞こえてくる。香も効き出した。まずは上々だろう。
「ようこそお越し下さいました」
指を揃えて茶道口で頭を下げると、権右少弁様らが扇子を手前に置いて丁寧に頭を下げられた。
「こちらこそお招き頂き礼を申し上げますぞ」
権右少弁様が頭を下げると、お付きの蔵人様と左近衛将曹様も頭を下げられた。商家に対して随分と丁寧だな。茶の湯の席だからだろうか。
荷運びをして点前座に座る。居住まいを正して点前をはじめる。客人が貴人だとそれなりに緊張するものだな。それに赤鳥堂を差配する五位蔵人様がお見えかと思うと、気もそぞろになる。
「権右少弁様に置かれましては、此度がはじめての上洛であるとか。如何でございましたか」
蔵人様から以前お聞きしていた事を話の切っ掛けにと話すと、権右少弁様のお顔が少し陰を帯びた。
「率直に申さば、幼心に夢見てきた上洛であったが、洛中の窮状を見て心を痛めておじゃる」
想像していた都と違っていたということか。ま、当然であろうな。
「……今や京の都も戦場でございますからな。火の手が上がりますのも珍しくありませぬ」
儂が話すと、蔵人様が静かに頷かれた。
「都の広さには驚いたのじゃが、所々の荒廃が目立っての。つい府中と比べてしまったのじゃ。あ、いや、つまらぬ話をした。じゃが堺の賑わいには流石なものだと感心しておじゃる」
府中か。日頃からあの街をご覧になっていたのならばやむを得まい。儂とて治部大輔様の婚儀で駿府を訪れた時は驚いたものだ。府中といえば支店が商いを順調に伸ばしていたな。
「府中の賑わいたるや相当なものですからな。手前も先に訪れた折りには驚きました」
「賑わっておるのは分かっておじゃったのだが、何分他を見たことが無かったので今回府中の賑わいというのを改めて感じておじゃる」
なるほどな。府中は年を経る事に栄えている。最近では周りの地域の開発にも本格的に力が入ったと聞く。周りと言えば……。
「風の便りにお聞きしたのですが、富士の麓に随分と大きな工場を作られていらっしゃるとか」
茶碗を布巾で吹きながら呟くと、客座から小さく笑い声が聞こえてきた。これは権右少弁様だろう。
「お耳が早い事でおじゃるの」
「尾張からも米を随分と買われているようで」
続けて呟くと、"ホッホッホッ"と笑い声が聞こえた。目を向けると、権右少弁様が着物の袖で口元を隠してお笑いになられていた。
「相変わらず色々と抜け目がないな」
五位蔵人様も小さく笑われている。
「尾張で米が高値にて売れるゆえ皆が開発に勤しんでいるとか。銭を手に入れた尾張の御武家様は軍備に力を入れ、やがては激しい争いになるでしょうな」
「その方のような武器商人が儲かるの」
その通りだ。納屋は武器を全般に扱っているが、もとは皮屋だ。戦で鎧が必要になれば、鎧に必要な皮革が売れる。尾張は銭が大きく動く予感がする。
「それはそうと、治部大輔様から納屋さんの依頼について文があったぞよ。樟脳を定期的にある程度卸せそうだと仰せであった」
「それはそれは。左様でございますか。嬉しい知らせでございます」
樟脳は早くも人気の出つつある商品だ。定期的に今川様から手に入れる事ができるのなら、商家や畿内の大名に売れるだろう。五位蔵人様にお願いしていた所だが、蔵人様と権右少弁様のお二人が治部大輔様にお話頂いたのだろうか。であれば今後も懇意にしていく必要があるな。
……視線を感じる。
こちらが客人の人となりを見ようとしているように、向こうも儂の人物を見ようとしているのだろう。手元が震えぬように一呼吸置いてから点前に戻った。
天文二十一年(1552)二月中旬 甲斐国山梨郡 躑躅ヶ崎館 武田 晴信
"フフフ"
文を読んでいてつい笑みが零れる。
「高白斎は何と」
儂が笑っているのを見て左馬助が気になったようだ。文の内容を問いかけて来た。同席している刑部少輔や飯富兵部少輔、馬場民部少輔も儂の方を見ている。
「うむ。今川殿が霜月の輿入れを承知下さったようだ」
「左様でございまするか。おめでとうございまする」
「「おめでとうございまする」」
左馬助が言祝ぐと、他の者達も儂の方を向いて祝ってくれた。
「うむ。それと、今川からの輿入れだがな、一万の行列で来るようだ」
"なんと"
"それほど"
皆が驚いている。儂が笑っていた理由が何か分かったようだ。
「三河で苦労していると思うたが、流石は今川殿であるの」
左馬助に向かって呟くと、左馬助がゆらゆらと首を振って話し出す。
「苦労しているからこそ見栄を張ったのやも知れませぬぞ。武田に侮られまいと」
左馬助の言葉に皆が笑う。それもそうかもしれぬ。一万か。駿河はほとんど全軍になるかの。後はどこから出すか……。伊豆か遠江か。ちょうど良い機会だ。草を使って調べさせよう。
「侍女も長持も二十寄越すようじゃ。随分と大事にされている姫君だな」
「武田家の嫡男に嫁がれる姫君なのですから、大事にされていてよろしいではありませぬか」
儂が姫君の話をすると、刑部少輔が笑みを浮かべて応えた。刑部少輔は武田の使者として駿府を訪れてから今川を親しく感じているようだ。刑部少輔は儂よりも治部大輔殿の方が歳が近い。何か感じるものでもあったかの。
「それだけの付き人を寄越すということは、中には乱波の類いが潜んでいるかもしれませぬ」
左馬助が低い声で呟いた。
「これ左馬助、滅多な事を申すでない。……だが、その方の心配はもっともだな。儂も参議殿の立場であれば草を送ろうとするだろう」
少しおどけて儂が話すと、皆が静かに笑った。婚姻は他家の奥に堂々と人を送ることができる機会だ。みすみすこの機を逃す等あり得ぬ。今川参議が甘い人物で無ければ間者が入っていると考えるべきだな。
「文によれば、この人数は治部大輔殿の希望であるらしい」
「ほぅ。治部大輔様の」
「刑部少輔、その通りじゃ。輿入れの行列だが、参議殿は五千程度で考えていたが、治部大輔殿が一万と讓らなんだとか」
「治部大輔殿はなぜ一万を?」
兵部少輔が不思議な顔をして問うて来た。五千も出せば十分な所を、兵糧を浪費してまで一万も兵を出すのが理解出来ぬのかも知れぬ。
「大事な妹を盛大に送ってやりたい。だそうだ」
儂が笑いながら伝えると、"はぁ"と兵部少輔が応じ、左馬助が怪訝そうな顔を浮かべた。
「御屋形様。相手は治部大輔殿ですぞ。何を考えているか分かりませぬ。注意が必要でござります」
「うむ。その方の懸念も分かるが、断る理由もない。それに輿入れの軍勢ぞ。軍備を飾ってくるであろう。今川殿の軍備を存分に伺うよい機会ではないか」
儂が余裕を見せると、左馬助がニヤリと笑った。
「街道沿いには寺も多くある。左馬助、何処ぞ都合の良い所を探しておいて、来る時には今川の軍勢をくまなく記録せよ」
"ははっ"
左馬助が力強い返事をしてくる。これなら相当に細かく記録してくれるだろう。都合があえば儂も見るとするかの。
さてと、次は銭作りだな。せっかく大軍で来てくれるというのだ。ここは存分に使わせてもらうとしよう。
「民部少輔」
"はっ"
儂が呼ぶと隅で控えていた民部少輔がこちらに向かって頭を下げてきた。
「その方は春先の信濃攻めに向け、内々に兵糧を買い付けよ。多少無理をしても構わぬ。買い付けが終わる頃には婚儀も正式に決まっていよう。じわりじわりと市へ情報を流せ。今川は大軍らしい。兵糧が足りなくなるかも知れぬとな」
「御意にございまする」
その後は折りを見て治部大輔に連絡だ。大軍が来てくれるお陰で米の値が上がって困っているとな。気前の良い今川の事だ。兵糧を出して来るかも知れぬ。買い占めた米を高く売り付けても良いな。どう転んでも武田は儲かるだろう。
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