第五十四話 三河守護




天文二十一年(1552)二月上旬 山城国上京室町邸 細川 藤孝




「三河守護か」

「はっ。今川家からの使者曰く、伊豆守護は北条と揉める恐れがあるゆえ、できれば三河を願いたいとの由にございまする。上様の御威光を持って三河を治めたいと申しておりまする」

兄上が上様に説明を続ける。今川の御使者は……権右少弁殿だったな。権右少弁殿の言い分は、穿ってみると幕府の力等、当てにしていないと言わんばかりだった。どうしても、というのであれば伊豆守護よりも三河守護ならもらおうとも聞こえた。兄上のご説明にはそのような今川方の考えは見えて来ない。某の考え過ぎならばよいのだが……。


「こちらの提案を挿げ替えてくるとは小癪なものよ」

「全く。上様の仰せの通りですな。いくら御一門とはいえ増長も甚だしい」

「左様。仮名目録といい、今川殿は何かと幕府を蔑ろにされておりますな」

上様のお言葉に大舘左衛門佐殿が手厳しく応じられた。その左衛門佐殿の言葉に一色式部大輔殿が被せるように応じる。二人の重臣がいつものように上様へ同調した意見を述べると、上様が溜飲を下げるように満足気なお顔で応じられた。このお二人は名家御出身の古参だが、世の流れをしかと見ておられるだろうか。もはや幕府に与えたい者へ守護職を与えるという力等無いということに。……いや、さすがにお二人も気づいてはおろう。ただ気づいていない振りをしているだけだ。認めたくないがゆえに。


「上様のお気持ちはこの弾正左衛門尉、重々承知しておりまする。そこで此度は三河守護という事であれば、千貫を納めるよう申し出て参りました」

"千貫!"

"なんと"

皆が目の色を変えたように応じる。某も聞く方の立場であれば驚いているだろう。上様も満更ではなさそうだ。


「政所は何かあるか」

上様が政所執事を務める伊勢伊勢守様に言葉を掛ける。如何にも形ばかりのお声掛けだ。最近上様と伊勢守様のご関係はよろしくない。重苦しい空気が漂う。

「よろしいのではありませぬかな。幕府の苦しい台所事情の足しになりまする」

伊勢守様の飾らない言葉に上様がご気分を害したようなお顔を浮かべられる。


「まぁよい。弾正左衛門尉、今川参議への三河守護任命を認める」

「はっ。有り難き幸せにござりまする。今川殿にはしばし時を置いてから申し伝えまする」

時を置く?兄上の言葉に上様も他の幕臣も怪訝な顔で応じられる。


「簡単に三河守護が与えられたと思わせてはなりませぬ。今少し待たせて有り難みを覚えさせましょう」

兄上の言葉に上様がにやりとされ、よかろうとばかりに頷かれた。

「それは悪手ですな。今川殿が時を掛けたところで有難みをお感じになるとは思いませぬ」

伊勢守様が淡々と横に入ってきた。某も伊勢守様と同じ思いではあるが、あそこまではっきりとは申せぬ。

「伊勢守殿、ここですんなりと与えては守護職が軽々しいものと扱われようぞ」

上様の顔色を窺った式部大輔殿が反論をされる。伊勢守様は動じていない。

「幕府からの提案を挿げ替えてくる時点で今川殿の幕府に対する考えは透けて見えまする。面倒と思われる前に速やかに任命なさるのがよろしいかと」

伊勢守様が無表情で、粛々と述べた後に頭を下げられた。上様は伊勢守様から目を背けて発言を無視されている。

「……弾正左衛門尉に万事を任せる。よきに計らえ」

「ははーっ!」

兄上が勝ち誇らんとばかりに大きく応じて頭を下げた。伊勢守様は……相変わらず無表情だな。やれやれ、後で伺って茶でもご一緒するか。伊勢守様は三好筑前守殿と調整して政所の職務を粛々とされている。それが上様の勘所に触るらしい。伊勢守様無くしては今や幕府は成り立たぬと思うが、それをどこまで皆が分かっているだろうか……。

最近、上洛する前の頃よりも気が重く感じる。誰にも気づかれない程度で小さくため息をついた。




天文二十一年(1552)二月上旬 山城国上京室町邸 細川 藤孝




兄上に与えられている部屋に二人で入ると、兄上が疲れてはいるが嬉しそうなお顔でお座りになった。

「首尾よく進んだな。何はともあれ良かった」

「よかったのでございましょうか。武家伝奏の歓修寺権大納言様によれば、今川様の目的は三河の一向衆を抑えるためでは無いかと……」

権大納言様に探りを入れると、今川からの使者である権右少弁殿が朝廷にかなりの献金をしたようだ。朝廷側から洛中の復興や禁裏修理のために献金を募ったらしい。名目としては朝廷側から持ち掛けているため武家伝奏を通していない。権大納言様が内々に情報を得て来て下さった。もう一人の武家伝奏である広橋右大弁様はこの話をご存じなかった。


「構わぬ。今川の目的が何であれ、朝廷も今川も表立って事を進めておらぬのじゃ。であれば大事なのは、幕府に対する千貫の献金をどう扱うかじゃ」

そういうものだろうか。これは毒饅頭では無かろうか。草ヶ谷権右少弁の怒ったような表情も、間髪入れない千貫もすべてが決められた双六の上での出来事だったのでは?

「……しかし兄上、今川様が何かお考えの由は伊勢守様も聞き及んでおりましょう。後で問題とならねばよいのですが」

これも某の考え過ぎだろうか。確証はない。某の悩んだ顔を見た兄上が静かに息を吐きながら優しく語りかけてきた。


「その方は難しく考えすぎじゃ。今川殿を三河守護にする事に反対であれば、伊勢守殿も先程の上奏の場で異議を申し出て来るはずじゃ。なれど伊勢守殿は任命の仕方には異を唱えつつも、任命そのものには物申さなかった。それだけの事よ」

兄上が某の肩に手を置いて、“ポンポンッ”と宥めるように叩いた。


「三好筑前に対抗するためにも我等には力が必要じゃ。今川殿に恩を売っておくのも悪くない。今川が尾張を何とかして、美濃が土岐で収まれば、六角、土岐、今川の連合で上洛も叶うかも知れぬ。今川と北畠は仲が良いとも聞くゆえ、北畠も相乗りするかも知れぬ。さすれば三好もただでは済むまい」

兄上がどこか遠くを眺めながら戦略を話される。声色が明るいがその様な話が成るだろうか。成ったとしても三好が今川に取って変わるだけでなかろうか……。


「伊勢守殿のところへ行くのか?」

「……はっ」

兄上が息を吐きながら訪ねてくる。兄上は某が伊勢守様と茶の湯を共に嗜む仲であることを知っている。

「伊勢守殿は三好の力を後ろ楯に幕政を掌握しようとしている、という声があるのはその方も知っておろう」

そのような声は某も聞いた事がある。根も葉もない噂だろう。伊勢守様は真摯に幕府の事を考えておられる。伊勢守様の性格からか、物言いに愛想が無いゆえ三好と結託しているように思われがちだが、伊勢守様なりにお考えあっての事だと思っている。


「その様な声が有ることは存じておりまする。なれど某は事実無根であると思うておりまする」

「火の無い所に煙は立たぬと申す。本来ならば、かような声が上がっている主に会うこと自体憚られる。その方の事だ。妙に頑な時があるゆえ止めはせぬが、重々気を付けるのだぞ」

「ご忠告ありがとうございまする」

悶々としながら兄上の前を後にした。




天文二十一年(1552)二月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 太原 雪斎




「それでは御師匠様、これにて失礼致しまする」

「うむ。気を付けてな」

「はい。治部大輔様、それでは失礼致しまする」

「で、あるか。またな」

儂への挨拶を終えると、竹千代が続けて若殿に挨拶をして下がっていった。さて、儂も片付けをするかの。だがその前にお聞きせねばならぬの。


「今日は如何されましたかな」

「如何されたとは?」

「政に忙しく、手習いには久しくお越しにならなかった治部大輔様がお見えになられた。それにお帰りになるご様子も無い。この老体に何ぞご用かと」

儂が思ったことを率直に申すと、若殿が笑みを浮かべて応じた。

「御師匠には全てお見通しのようだな」

「そも若殿にはもはや手習い等必要ありませぬ。日々の政がこれ手習いにござりまする」

「そう冷たい事を申すな。中々来れぬが、俺にとって御師匠の手習いは落ち着いて物を考えるよい時間なのだ」

政が手習いになるのは本当だ。机上の学びも大事ではあるが、実際に己で政をし、良し悪しを考える事に勝るものは無い。その点で若殿は既に日々の政で多くを学んでおるだろう。御屋形様が頼りになる古参の重臣も多くを付けられた。今のところ若殿も滞りなく政務をされている。一向衆の懸念はあるが……。我が今川の次代は明るいと言って良いだろう。


「さて、何でありますかな」

若殿の前に相対して座る。ここは手習いの場だ。本来は儂が下座になるが、師と弟子という事で相対でも良かろう。その方が話しやすい。もっとも、若殿も儂との間で仰々しくするのは好まれない。

「……織田大和守に兵を集めている動きがある」

ほぅ。さすがは若殿だな。そのように細かな情報までご存じであったか。しかもお早い。


「随分と尾張の動きにお詳しいですな。拙僧にもその報は入っておりまする」

「大方、鳴海の山口親子が我等に寝返ったことを成敗するための兵だろう。肝心の上総介に動きが無いが、あそこは銭で兵を集めている。すぐに動かせるゆえまだ知らせが無いのだと見ている」

「織田上総介、まさに若殿の様ですな」

銭で兵を動かす。雑兵を使えば銭が掛からぬ処をあえて銭を使う。銭の兵の有用な所は若殿が示している。兵を集めて展開するまで段違いに早い。それに一年中兵を動かせる。今もまた、織田の動きは大和守家からしか見えて来ない。


「そうかな。それで、山口親子は準備できているか」

「既に織田の動きはそれとなく伝えておりまする。まだ我等の諜報を調べるだけの誘いかも知れませぬゆえ」

山口左馬助にはそろそろ寝返った事が織田に発覚するだろうゆえ、兵馬の準備を怠るなと伝えてある。至極当たり前の事だ。左馬助の寝返りが万一に偽りであったとしても織田に何か漏れることは無い。

「で、あるか。事が起きれば三河衆は動かすのか?」

「井伊内匠助殿と天野安芸守殿を岡崎城に置いておりまする。なれど一向衆の動きもあるゆえ此度は静観しようと思うておりまする」

「……で、あるか。よければ駿河から兵を出そう。上総介が日を重ねる度に先代の銭の流れを掴んできている。ここで潰しておかねば危険だ」

成る程。今日の本題はこれか。


「拙僧の見立てでは上総介殿が動かす兵は七、八百でしょう。大和守殿が後詰めをしたとしても千五百程度では無かろうかと。山口左馬助は少なくとも千以上の兵を集めておりまする。万一勝てなくとも、大きく負けることは無かろうかと」

山口親子の寝返りとてまだ真意は分からぬ。三河が揺れている中で無理をする必要は無い。

「大和守まで来るなら尚更都合が良い。ここは兵を動員して一気に叩くべきではないか」

「山口親子の寝返りが偽りでしたら如何されます。後ろを刺されますぞ。織田と山口が潰し合うのならばこれまた良しではありませぬか。急ぐ必要はありませぬ」

此度は御屋形様が静観を決めている。今川の策はしばらく調略だ。それに山口親子の力が大きくなるのは避けたい。潰しあってくれるのなら好都合だ。


「此度に今川が動かねば次も動きにくくなるぞ」

随分と拘られていらっしゃる。だがこれ以上若殿が尾張に介入するのも良くない。

"治部大輔様"

姿勢を改めて正し、あえて仰々しくお呼びした。若殿の眉がかすかに動く。若殿が儂の顔を見ながら、真顔で応じられる。


「尾張攻めは三河と遠江を統べる御屋形様が差配されておりまする。あまり介入をし過ぎますと御屋形様の御不興を買いまするぞ」

今川にとって喜ばしいことであるが、若殿の世評はかなり高い。朝廷の覚えもめでたく、先の武田からの使者、これは穴山伊豆守殿の領国が国境という事もあったやも知れぬが、若殿の事を気にされていた。御屋形様は寛大に見守られていたが、過ぎたるは及ばざるが如しと言う。尾張攻めにまで若殿が介入するのは些か危険だ。さすがに御屋形様がご気分を害する恐れがある。

「これはお家にとって……」

「治部大輔様。拙僧はお家を心配して申し上げておるのでござりまする」

何か言いたげな若殿をあえて遮って申し上げる。

「……分かった。上手くいくことを願っている」

少しの間があった後、若殿が静かに話しながら席をお立ちになった。

「ありがとうございまする」

深々と頭を下げてお見送りをする。一際強く吹いた風が冷たかった。




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