第五十六話 穀倉地帯




天文二十一年(1552) 三月上旬 三河国渥美郡馬見塚村 今橋城近郊 鵜殿 長照




"えいさぁ"

"ほいさぁ"

威勢の良い声が辺りに響く。

声の元となっている大勢の人夫達を見て、若殿が笑みを浮かべておられる。


「伊豆介、安倍川の普請を思い出すな」

「はっ。そうですな。もっとも、あの時よりもここは随分と大規模でござりますが」

話しかけられた伊豆介殿が懐かしそうな顔を浮かべて応じた。安倍川……。今川堤と呼ばれている堤防のことか。確かに似ている。だが伊豆介殿が言うようにここは規模が違う。割りの良い銭で多くの人夫が動員され、大規模な普請が行われている。


「まさに川を新たに作るが如しでござりますな……。」

上野介殿が驚いたような表情を浮かべながら話すと、若殿が大きく頷かれた。上野介殿の気持ちはよく分かる。何もないこの田舎に、千人を超える人夫達が集められ、皆が白い息を吐きながら汗を流している。人夫達には各々大きな円匙と携行しやすい小さな円匙が配られ、今までに無い早さで普請が進められている。


「実際に上野介の言う通りだ。最後はあそこの部分を豊川につなげて取水する。新たにできた川は渥美半島へ向けて水を供給することになる」

若殿が笑みを浮かべながら、扇子を川となる予定の上流から下流をなぞられる。話を伺う者達がその扇子の先を眺める。


「若殿、ここまでの大規模な普請となると相当の銭が掛かっていると思いまするが、ここまでの普請が必要でありましょうや」

思ったことを口にする。聞かずとも若殿のお考えが分かれば良いが、今回は皆目分からぬ。分からないままでいる方がいかぬ。

「うむ。藤太郎も知ってはおると思うが、上野介の弟である左兵衛佐や水軍の権太夫達が渥美半島の開発をしてくれている。所々に溜池を作って地道に田畑を開いてくれているのだが、どうにも水不足が否めぬ。渥美半島は温暖でなだらかな土地が豊富だ。水不足さえ解決すれば十万石にも二十万石にもなる」

十万石にも二十万石にも?若殿の言葉に皆が驚いている。確かに、若殿が渥美半島を受領したころは石高は一万石も無かったが、今日では三万石は下らないと聞く。十分に発展していると思うが、まだ伸び代があるということか。

「そこで川を作って水の問題を解決しようと思ったわけだ。銭はかかるがやむを得ぬ。それに渥美半島が穀倉地帯となれば藤太郎の実家や上野介達のような三河に所領を持つ者は恩恵を受けるだろう。尾張攻めにおいて兵糧の供給地点になる」

若殿が力強く頷きながら話すと、庵原安房守殿が咳払いをされた。若殿が"分かっている"とばつが悪そうに苦笑いを浮かべた。

それにしても水が不足しているから川を作ろうとは、改めて若殿のお考えの大きさに驚く。


「堤の普請は分かりまするが、今橋城のまわりに砦をいくつかたてて見えるのはなぜでござりまするか」

朝比奈弥次郎が若殿に問いかける。猛将と呼ばれる備中守様の息子らしい。

「渥美半島の開発が進めば兵糧の置き場が必要になる。何かあったときのために保管しておく場所は分けておきたいのだ」

若殿は渥美郡の北端にあたる今橋城の西側にいくつか砦を築かれている。西からの攻勢に備えた出城のように見えるが、兵糧の置き場であったか。一ヶ所では危険、か。確かに小豆坂の戦いでは織田方が今川の兵糧を狙ったと聞く。忍びが火を付けにくるかも知れぬ。分けておく方がよいのだろう。



「……いい景色だな」

感慨深そうに若殿が言った。多くの人夫が働く姿を言っているのか、遠くの田畑をみてご覧になっているのか……。それよりもどこか遠くをご覧になっているような気がした。





天文二十一年(1552)三月中旬 伊豆国田方郡熱海村 真面之要塞 長野 業正




「遠く見えるのが北条方の砦でござる。常に置かれている兵は三百から五百といったところかの。河東の戦い以降、北条殿は伊豆方面にあまり軍勢を割いてはござらぬ」

「三百から五百か。落とすにはそれなりの兵力が必要になるな。攻める動きをすれば相手に気取られる恐れも高い」

儂が北条方の砦を眺めながら攻める手だてを話すと、井伊平次郎殿が声を上げて笑った。何か可笑しいことを申し立たであろうか。

「あいや、すまぬ」

「すまぬと言うことは無いが、何ぞ面白いことでも申したかの」

「若殿の供回りは若い衆が多い。若人では信濃守のように返しては来ぬ。それが面白くての」

なるほどそういうことか。殿の命で北条の動きを探ることになった。平次郎殿は輜重方という軍備や兵糧の管理を行う部隊として街道を整える命も受けている。その関係で伊豆や真面之要塞へは頻繁に出向くらしい。挨拶もそこそこに早速府中を出て伊豆方面を案内してもらった。道すがらお互いに馬が合うところがあってすっかり親しく話をしている。


「供回りも若ければ、殿も若い。お若いと、供回りが持ち上げて得意になることも多いが、殿には井の中の蛙という感じはござらぬな」

「左様。むしろあのお方がお考えになることは驚きの連続よ。ここに来るまでの道を見たでござろう?」

"うむ"と頷いて応える。沼津の親衛隊駐屯地からこの要塞までの道を申しておるのだろう。野を切り分けて作ったと見える歩きやすい道が続いていた。

「沼津からこの要塞に続く道を使えば親衛隊が一日で来ることができる。小田原から大軍が来ようと、そう簡単には落ちぬ」

「道を良くすると軍勢が通りやすいのは確かでござるが、この要塞が敵の手に落ちると、沼津まで簡単に侵攻を許すことになるの」

ふと、今川に仕えてから思っていたことを口にした。府中付近や菅ヶ谷村までの道と随分広く歩きやすく普請されている。軍の移動がしやすいということは、敵の手に落ちればその分敵も容易に移動ができるということになる。


「儂も思うたことがある。殿が申されるには絶対に落とされてはならない場所は絶対に落とされない準備をするのだと。ずるずると落とされて敵を領内に入れるのは引き釣り込んでいるのではなく国を焦土にしているだけだと」

「左様でござるか。絶対に落とされてはならない場所……。東ではそれが真面之要塞になるわけでござるな」

儂が北条の砦を眺めながら話すと、隣の平次郎殿から"うむ"と力強く応じる声が聞こえた。

「東ではこの地と富士大宮司殿が治める富士郡の北側でござるな」

「富士郡の北?その先は武田家の所領でござるが」

「今でこそ武田家とは盟約で結ばれておるが、わずかに先代の頃には北条殿と手を携えて武田家とは争っていたのだ。殿はこの乱世において油断をしてはならぬと仰せであった」

なるほどの。二度目の婚儀で盟約を固くしていても油断はするなということか。関東管領様は時と御気分で差配されることも少なく無かった。それに比べて殿の差配は冷静だな。比べるのは失礼だが、目に写る様々な違いに笑いが零れる。

「もっとも、殿からは盟約を結ぶ関係になる以上は必要以上に警戒されてはならない。油断せずと言うことを胸にしまっておけばよいと仰せであった」

"はっはっはっ"

つい、堰を切ったように笑い声が出た。


「全く、殿は頼もしいの」

「誠にの」

あのお若さで、どうして中々に強かなお考えをお持ちだ。儂の選択は間違っていなかったと思う。迷いの果てに国を出たが、今川では他の者たちも平次郎殿のように温かく儂を迎えてくれた。今は毎日が楽しい。




天文二十一年(1552)三月中旬 山城国上京 二條邸 二條 晴良




「公方さんが駿河の参議さんを三河守護に任ずるようであらしゃいますぞ」

広橋右大弁が浮き足立つように声を上げている。一條右府も歓修寺権大納言も動じていない。それもそうだ。駿河参議を三河守護にする話等、随分と昔の話に聞こえる。


「まぁまぁ右大弁、そう慌てますな」

「右府の申す通りであるぞ」

「こ、これは失礼致しました。なれど殿下、右府様。幕府が今川殿に守護職を新たに与えるということは、本願寺への門跡もお認めになるのであらしゃいますか」

右大弁が言葉も飾らずに問いかけてくる。誰にも気付かれぬように小さく息を吐いた。


「門跡の件、延々と決を先伸ばしにしてきたがそろそろ決めねばなるまい。年明け程の量では無いが、今川がまた貢ぎ物を拵えてきたようじゃ。この時期に貢ぎ物とはどう捉えるべきか悩ましいが、今川が業を煮やしていると考えるものが多い」

全く今川め。忌々しい限りよ。決を保留しておったらまた朝廷に貢ぎ物が届いた。お陰で何かと朝廷を気遣う今川からの要請を、これ以上先伸ばしには出来ぬという雰囲気がある。幕府も三河守護を与えるらしい。貢ぎ物で骨抜きにされたか。


「表向きは別の話とはいえ、今川の貢ぎ物と本願寺の門跡はつながっている話でおじゃりますからな」

右府が諦めたように話した。その通りだ。近衛から三河が物騒になり勅願寺となった大樹寺が危険になっていると申してきた。ここは本願寺に門跡を与えて治めたいと。時を同じくして、今川から多くの銭が献金された。大方朝廷の力を使って三河の一向衆を静めようとしているのだろう。朝廷が銭で動いたと見られてはならぬ。今川も一向衆に手をコマネイていると思われたく無いのか本願寺の話は伏せて、献金の理由は洛中の復興と禁裏修理としている。大政官では皆が今川の目的を知るところではあるが。


「今川殿の思惑通りに運ばれまするのか。近衛さんの狙い通りになりまするな」

右大弁が顔に扇子をあてて流し目をくれながら麿に話しかけてくる。柔らかく聞こえるがどこか非難

するような声色だ。


「やむを得ぬ。主上は今川に対してよきに計らうよう仰せでおじゃる。それに九条さんによれば、門跡の件、本願寺も満更ではないらしい」

右大弁が口惜しそうな顔を微かに浮かべる。隠しきれて無いぞよ。右大弁が今川を快く思っていないのは駿河参議の嫡男である治部大輔に寄るところが大きいな。治部大輔は武家でありながら何かと幕府は通さず朝廷に話をしてくる。もっともらしい理由はあるが、武家伝奏としては面白くないだろう。


「九條さんも本願寺に断らせるようにお運びになられてはよろしいものを」

右大弁がため息を付きながらぼやくように呟いた。……それは無理であろうな。九條家は今は亡き先代の後慈眼院が、本願寺の当代門主を猶子にしてから関係が深い。そのため此度も朝廷からの使者として九條さんが行くことになった。本願寺から謝礼も出るはずだ。生活が苦しいと噂される九条さんには容易で有り難い任だろう。


もっとも、本願寺への使者には、はじめ近衛が手を上げていた。これ以上近衛の独断を許してはならぬと思うて、麿が九條さんを推挙した。九條さんからは大層礼を言われたわ。


今回の件では近衛が主上の覚えをさらに愛でたくするだろう。だが、こちらも得るものはあった。九条さんは今後二條の味方になってくれるはずだ。摂家では断絶している鷹司を除いて近衛対二條、九條、一條の形ができつつある。近衛の好きにはさせぬ。




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