第五十二話 富国強兵




天文二十一年(1552)一月中旬 駿河国富士郡吉原村 今川 氏真




「これでよいか?」

「今少し腰に力を入れて頂ければよろしいかと」

「中々に難しいのだな」

腰を据えて力を入れる。これは腰に来るな。明日は筋肉痛になるかもしれない。


今日は新たに吉原に出来た酒の工場に来ている。前世でもやったことの無かった酒造りを体験している。今は酒母を木桶に入れて仕込みをする工程だ。かなり腰に来る。今は十代の身体だから良いが、四十、五十なら慎重に、いや、もはや避ける工程かも知れぬ。


芳醇な独特の香りが辺りに漂う。今少し歳を重ねておればすぐにでも一杯やりたいところだ。だがここはぐっと堪えておこう。




一仕事終えると、工場の者が甘酒を運んできた。これなら俺も飲める。寒さの中で温かい甘酒が身に染みる。

「しかし、酒造りを実際にされてみたいとは驚きましたぞ」

「そう言うな左衛門尉。為政者たるもの現地現物が大事だと思ったのだ」

「よいではござりませぬか左衛門尉殿。若殿のこうした拘りは今に始まったことにござらぬ。それに民草も若殿はよくご覧になってくださると喜んでおる」

筆頭家老である三浦左衛門尉からのお小言に、庵原安房守が助け舟を出してきた。ナイスフォローだぞ。左衛門尉が続けて何か話そうとしていると、上野介が来客を告げに来た。


「殿、富士大宮司殿がお見えにございます」

「うむ、通せ」

しばらくすると富士大宮司が見えた。

「大宮司、よく来てくれた。年初の挨拶では時間があまりとれずにすまなかった」

「いえ、お忙しい御身なれば構いませぬ」

「新たな酒工場だ。大宮司には一度見ておいて欲しいと思ってな」

「ありがとうございまする。見事な大きさで、この工場から酒が出荷されるのを楽しみにしておりまする」

大宮司が工場を見渡すように眺めてから大きく頷いた。本心からだろうと思う。この吉原が発展すれば大宮司の所領は恩恵を大いに受ける。甲斐に対する交易では今以上に儲けるはずだ。


「しかし……何とも巨大な木桶ですな」

この工場を作るにあたってあわせて作らせた巨大な木桶を見て大宮司が唸る。

「で、あろう。この木桶は酒が二十石入るものでな。今回特別に作らせたのだ。木桶の基になる杉は富士の近隣で採れたものだ。締めてある箍も領内で採れた竹を使っている。こうしてみると、駿河は水、米だけでなく、杉、竹と酒造りに欠かせぬものが随分とそろっているな」

「仰せの通りですな」

大宮司や家臣たちが頷く。大きな木桶を作って大量生産をしようとしたが、真っすぐな竹がないと箍が作れないらしい。木桶が大きい分、竹も背の高いものが必要だった。どうしたものかと思ったが、かねてより竹細工に力を入れていたおかげで良質な竹も領内で採ることができた。最近は馬車の交通が増えたせいか、犬矢来を取り入れる町屋が増えてきている。馬車の水はねで家が傷むのを防ぐためだろうが、竹の消費量が急速に伸びている。これからは竹の生産にも力を入れていこう。犬矢来、いいよな。あれをみると何となく祇園や先斗町あたりを思い出す。


「大宮司にはこの後にでも田子の浦の湊を案内しよう。今伊豆の土肥湊とともに力を入れて開発していてな。田子の浦は用宗と土肥の丁度中央にある。湊の整備が終わり、この酒のような特産品が育てばよく賑わうことになるだろう」

「それは楽しみにござりまする」

大宮司が楽し気に応じた。大宮司は家臣になったとはいえ全国に影響力を持つ浅間神社を持っている。それに富士の地は対武田という意味では重要な防衛線でもある。気を遣わねばならぬ。今川に仕えておけば利があると思わせなければな。




天文二十一年(1552)一月下旬 山城国上京近衛邸 草ヶ谷 之長




「内府様におかれましてはご健勝のこと、権右少弁、謹んでお慶び申し上げます」

「うむ。遠路よく参ったの。無事の到着なによりじゃ」

父上が府中から殿の密命を受けて上洛した。昨日に清閑寺御所へと到着し、久方ぶりの再会を喜んだのも束の間、一夜を過ごしてすぐに内府様のところにご挨拶に来ている。伊豆介殿からの文で知ってはいたが、三河が随分と揺れているらしい。一向宗が今にも蜂起をしそうで、それを朝廷の力で治める密命を父が課されたようだ。


「して、用向きを聞くとしようか」

「然らばお願いしたき儀は治部大輔様から文にて預かっておじゃります」

父上の目線が麿に来たので、あらかじめ預かっていた書状を内府様へとお渡しする。内府様は受け取られるとすぐに書状に目を通される。

「なるほどの。三河の一向宗が揺れていることは聞いておったが、朝廷を使ってこれを収めたいというわけか」

「朝廷を使うなどと……。お力をお借りしたいだけにおじゃりまする」

「麿と治部大輔の仲じゃ。飾らずともよい。治部大輔からの文には、勅願寺となった大樹寺から近くの本證寺にて不穏な動きあるため、朝廷のお力をお借りしたく候とある。大方、今川の要請では無く、朝廷が主として望んだような和議を欲しているのでおじゃろう」

「御明察、恐れ入りまする」

内府様の言葉に、父上が頭を下げる。麿も倣って頭を下げた。……さすがは内府様だ。すべてお見通しというところか。


「話の用向きは分かった。大樹寺を出すとは上手く考えたの。これならば費えさえ用意してもらえば進めるのは難しくない。じゃが珍しいの。このような頼みを治部大輔がするとは」

「治部大輔様は一向宗との和議に反対しておられますが、参議様や禅師は和議を望んでおられまする。どうしても和議とするなら朝廷のお力をお借りするべきだというのが治部大輔様のお考えでおじゃりまする。……内府様にこそ申し上げますが、このことは内密に願いまする」

「ほほほ、なるほどの。左様でおじゃったか。あい分かった。三河は一向宗が盛んな地とも聞く。今川参議としては越中のようになるのを懸念しておるのじゃろう。治部大輔の意向は分かったが、二つ気掛かりがおじゃる」

「是非にお聞かせいただきたく存じまする」

「うむ。一つは本願寺じゃ。勅願時たる大樹寺の付近で不穏な動き許さず。と、朝廷から綸旨を出すことはできよう。だが、この命に本願寺が従うかどうかじゃ。何ぞ考えはあるか」

確かにその通りだ。この話を本願寺が受ける利は少ない。若殿の事ゆえ何ぞお考えがあろうかと思うが……。


「本願寺の今の門主は九条様の猶子になられておりまする。そこで、摂家門跡の礼にならい、本願寺を門跡に加えていただくことは叶いませんでしょうや」

父上の言葉を受けて、内府様が扇子を口元に運ばれたかと思うと“ホッホッホ”と大きくお笑いになられた。

「治部大輔の発案か?」

「はっ」

「面白いの。真によく考えるものじゃと感心するぞ。門跡か……。成らぬことも無い。本願寺を擽る話よの。じゃがかなりの費えが必要になるぞよ」

「この費えとして、今川には五千貫の用意がおじゃります」

父上の言葉を受けて内府様から笑みが消えた。真剣なお顔をされている。

「……委細承知した。麿にできる限りの事はしよう。理由もなく多額の献金をしたのでは怪しまれるでおじゃる。此度は洛中の復興のために朝廷が献金を求めた体裁としよう。あとは今一つの気掛かりをどうするかじゃ」

内府様が麿の顔を見てくる。朝廷の他にここで気がかりと言えば……。

「父上、内府様が気掛かりと仰せになるのは公方様のことかと」

麿が伝えると、内府様が鷹揚に応じられた。合っていたようだ。


「今川からの使者がわざわざ上洛をしているのは何事かと勘繰る動きが出てくるでおじゃろう。遠からず大樹からの使者が来よう。よくよく気を付けられよ」

「ご忠告、肝に銘じまする」

幕府からの使者か。あまり気乗りはしないな。憂鬱な気持ちになりながら頭を下げた。




天文二十一年(1552)二月上旬 駿河国安倍郡服織村 今川 氏真




「若殿、詳細な検地はこれからになりますが、まずは至近の収穫を元にした簡単な集約が終わりましてござりまする」

「うむ、概要を聞くとしよう。如何であった」

「はっ。駿河の収穫を石高に換算いたしますると、二十と四万六千石程になりまする。これには抽分銭は含みませぬ」

ほぅ。駿河一国で二十四万にもなったか。確か前世での駿河はこの頃だと十五万石程度のはずだ。随分と増えたではないか。

「思ったよりも多いな」

「若殿の所領だけでなく、御屋形様も長年開発をされた成果かと存じまする」

そうか。直轄地ではほとんど正条植が普及しているし、田畑の形も効率が良くなるように形成しなおしているしな。丘陵地の開発も進んで駿河でも中々に石高が出るようになったか。


「ただ、断言は詳細な検地を待たねばなりませぬが、駿河の耕作という意味ではそろそろ限界が来ているかと存じまする」

「空き地が無くなってきたか」

「仰せの通りでござりまする」

内匠助が手元の台帳を見ながら悩まし気な顔で応えた。文官らしくなってきたな。適性はあると見える。

「これ以上は大規模な灌漑の整備が必要になりまする」

「で、あるか。追々考えていくか」

安倍川の治水を整えたような大規模な工事が各所で必要ということか。


「人の数は如何であった」

もう一つ大事なものを調べたはずだが結果は出ているのだろうか。尋ねると内匠助が久能金五郎の方を向いた。横にいる金五郎が代わりに応える。

「親衛隊にも手をかりて急ぎ確認をしたところ、領内にはおよそ二十と六万程の人がおりまする」

「それは軍も入れてか」

"はっ"

金五郎が台帳を見ないで淀みなく応えた。多いな。前世で戦国時代の人口は千二百万人程と推定した書籍を読んだことがある。統計によって民のみや武家を含む場合等があって異なるためおおよそになるが、前世の十分の一の人がいた事になる。極めて単純に計算するならば、前世の駿河の地域にあたる人口は俺の記憶の限りでは百五十万人程だ。それに十分の一を掛けた十五万人に、開発による流入があるから二十万人程度と見込んでいた。それに比べると随分と人が多い。だが石高が人口よりも少ないという事か。渥美半島の開発をさらに加速させなければならん。


まぁ人口が多いのは良いことだ。今や府中だけで十万近く人がいるからな。農業以外に職も多くなって人が流れて来ている成果かも知れぬ。


「検地を詳細に行う折りには戸籍もしっかりと作るようにな。持っている土地、住んでいる土地、名、生まれの年、性別、家族を決められた帳票に等しく記載するように」

「承知つかまつりました」

「今父上が仮名目録の追加を検討されている。目録の追加と検地が終わった時、駿河は日の本に例を見ない律令が行き届いた国となっておろう。さらに民が集まり、富も集まるはずだ。国を富まして強くする、富国強兵がなるわけだ」

「富国強兵……」

内匠助と金五郎が小さく呟いた。

「左様。富国強兵だ。近いうちに雪斎に揮毫を頼むとしよう」

コレクションが増えるな。これから名言を雪斎に揮毫してもらうようにしようかな。雪斎は達筆だから絵になるんだよな。茶席の軸も欲しいな。折を見ておねだりしてみよう。


「本拠地たる駿河の検地も大事だが、伊豆における検地も進めなければならぬ」

「はっ。伊豆は輜重方が街道の整備を行っております。井伊平次郎殿と協力して検地を進めて参りまする」

「頼むぞ。沼津と下田の親衛隊を使う必要があれば申せ。それと石高や人の数がおおよそでも分かったら一度報告をしてくれ」

「御意にございまする」


伊豆はどの程度あるかな。八万石はあると思うが、そのくらいで石高は頭打ちだろうな。後は干物や鉱物等の伊豆ならではの開発を行っていこう。信玄が好んだという煮鮑も良いな。日本酒の肴にあれは最高だ。

今から作ればお嶺の輿入れに間に合うな。晴信を驚かせてやろう。




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