第五十話 対峙




天文二十一年(1552)一月上旬 甲斐国山梨郡府中 躑躅ヶ崎館 武田 晴信




「失礼いたしまする」

"うむ。入れ"

儂の許しを得て太郎が部屋に入ってきた。ガチャガチャと具足の音が部屋に響く。同席している左馬助や刑部少輔、飯富兵部少輔、馬場民部少輔、駒井高白斎らが高揚した表情で応じる。儂としても嬉しい。だが当主として嬉々とした表情を見せるわけにはいかぬ。


「太郎義信、本日、お許しを得て具足初めの儀、万事恙無く執り行いました」

「大儀であった。今年は今川殿から姫ももらうのだ。その方には期待している」

「ははっ」

太郎が平伏すると皆が言祝いだ。

「今年は今川殿との盟約を改めて強きものにし、信濃平定に全力を注ぐ」

「「おぅ」」

儂の宣言に皆が応じる。信濃北部衆が随分と粘ってくれたが、そろそろ潰してくれる。北条も今年は上野攻めに忙しいだろう。今のうちに全軍を信濃に向けて落としてくれよう。

景気付けに酒を運ばせた。太郎も少しばかり口にしている。新年に加えて太郎の祝い事だ。たまにはよいだろう。


「今川殿と言えば三河で手こずっておるとか」

顔を少し赤くした左馬助が呟いた。三河か。草から報告があったな。

「草の報告によれば、三河本證寺の住職である空誓上人が、治部大輔殿を仏敵と罵って近隣に檄を飛ばしているらしい。空誓上人は蓮如上人の孫にあたる。近隣の寺が呼応しているとか」

「治部大輔様は公家や武家の心は分かっても、僧侶の気持ちはご理解できなかったようですな。それに武田は仏の教えを大事にする家なれば、治部大輔様の行いは我等も蔑ろにする行いでござりまする」

左馬助が語りながらニヤリと楽し気に酒を煽る。

「これ左馬助。その方の言い分も分かるが、あまり言うてくれるな。太郎は義理の兄弟になるのじゃからな、仏敵殿と」

儂の冗談に、場にいる皆が笑った。太郎だけはきょとんとしている。こ奴は子細を知らぬし真面目だからな。これよりは色々と教えてやらねばならぬ。草からの情報も教えてやるようにせねばな。


「今川殿は随分と三河で兵を集めているようじゃ。草からの知らせによれば三千は下らぬとか。他に国境を守る兵もおれば中々に苦しいだろうて。一揆を防ごうとしているのだろうが」

「寺を焼く等という行いに報いが来たのでございましょう」

「そうかも知れぬの」

兵部少輔の相槌にすかさず左馬助が応じる。兵部少輔は曹洞宗だが天澤寺という寺を保護するなど信仰に厚い。思うところがあるのかも知れぬ。


「今川様が三河に忙しいとなると、信濃攻めの援軍は望めませぬ。我等だけで進める必要がありまする」

「今川様の援軍はありませぬが、北条様が邪魔立てすることもありますまい。上野攻めの最中でござりますからな。さらに言えば越後の長尾も上野に縛られましょうぞ。関東管領様が盛んに援軍を願っておる様子でござりますれば」

民部少輔の言葉に高白斎が応じる。儂も同じ意見じゃ。

「左様であるな。またとない信濃攻めの機会よ。皆の衆、頼むぞ」

杯を高々と上げると、皆が意気揚々と応じた。


さて、せっかく今川と縁が増えるのだ。使えるものは使わねば持ち腐れよ。太郎に示唆しておくか。

「太郎、その方の義兄弟殿は変わり者だが、軍略に内政にと目を見張るものも多い。助け合う良き関係となればよいの。まずは文でも書くが良いぞ」

「はっ」

太郎が手にしていた杯を膳に置いてから応じた。太郎のこうした真っ直ぐな面はよいところではあるが、あまりにも真っ直ぐ過ぎるの。治部大輔を息子に持つ今川参議が羨ましく思うわ。


正直に申さば、寺を焼く等という行いを平然とする治部大輔が恐ろしい。ただ者ならずと何度も思うたが、いよいよ異質じゃ。しがらみに囚われず己が正しいと思うたことは果断に実行する。これが簡単なようで難しい。治部大輔……。どう付き合えば良いか……。改めてお手並みを拝見して考えるとしよう。



天文二十一年(1552)一月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




部屋に入ると御祖母様と雪斎がいた。父上はまだおらぬようだ。腰を掛けてしばらくすると足音が聞こえて父上がお見えになった。頭を下げて父上を迎える。

「待たせたな。ゆるりとするがよい」

許しを得て頭を上げると、少し疲れた表情の父上がいた。


会うのは正月に聡子や二人の妹も入って新年の祝いをして以来になる。今年は聡子が加わって雰囲気が変わったな。本人は意図していないが、何といっても上方の気品が溢れていた。仕草や言葉使いに自然と育ちの良さが出るのだ。父上も聡子から"御屋形様、おくもじをどうぞ"等と言われてデレデレしてたわ。しかし父上も流石だな。洛中生活が長かっただけはある。おくもじが酒を指すなんて俺は知らなかった。公家とのやり取りには女房言葉もある程度覚えておかねばならん。追々聡子に教えてもらうとしよう。


年初を家族で祝ってからは、父上も俺も来客で多忙を極めた。下向している公家からの挨拶や家臣、それから勢力下の神官や僧侶が挨拶の列を作る。御簾越しに寛いだ姿勢でちゃっかりと会う相手もいれば、正装で相対し、長々と会話付きの来客もある。前世も会社役員だったから新年は来客が多かった。だがここまでではなかった。それに前世の挨拶は新年の仕事初めでする肩慣らしみたいなものだ。それがこちらの世界では新年から腹の探りあいがはじまる。隙あらば言質を取ろうとする者も多い。父上が疲れた様子なのも頷ける。かくいう俺も疲れている。


「年を経る事に正月が忙しなくなるな」

「参議殿。お疲れは分かりますが、人が多いと言うことは我が今川がそれだけ耳目を集めていると言うことですよ」

「母上、分かっておりまする」

父上が愚痴を言いたくなるのも分かる。領国を父上と俺とで分けているから面会の数は手分けして減っている。だが下向する公家等、それなりに時間のかかる挨拶が増えているのだ。貴人は俺にも父上にも会いたがる。大〇ドラマでよく描かれる信長のように、一同会して"ご苦労"で終わらせたいが、あれは天下人にしかできないだろう。今川のような中堅は丁寧な対応をしておいた方がよい。


「雪斎、三河はどうじゃ」

「はっ。空誓上人の檄文にいくつか寺が呼応しておりまする」

「岡崎の兵で抑えが効きそうか」

「どうでありましょうな。今少しおれば安心だとは思いますが」

「あい分かった。五千まで兵を集めるようにさせよ。今は三河をこれ以上揺らす訳にはいかぬ。治部大輔、費えを頼めるか」

「承知致しました」

「早く平穏になればよいですね」

御祖母さまが不安気に仰る。

「五千も兵を置けば坊主どもも好き勝手は出来まい。だがこれでも燻るようであれば多少の利を与えてでも納めねばなるまい」

雪斎が鷹揚に頷く。坊主へ利?多少の守護不入を認めると言うのだろうか。

「父上。坊主への利と言うのはどういう意にござりましょうや」

「そのままの意じゃ。坊主どもを締め付けて三河が大乱になるよりは、多少の不入を認めてでも乱を防ぐ方が得策じゃ」

「恐れながら申し上げまするが、某は反対にござります。遠江、駿河の兵を動かしてでも譲るべきではありませぬ。坊主への譲歩は一時の平穏を得ても、必ずやまた事になりまする」

俺が言葉を発すると、父上が雪斎の顔を見る。父上に顔を向けられた雪斎が俺に話しかけてきた。

「治部大輔様の仰せになることは正しゅうございます。なれど御屋形様の仰せになることも正しい。駿河におはすと分からぬやも知れませぬが、三河は一向門徒が多うござりまする。数万の民が一揆を起こすやも知れぬのですぞ。ここは慎重に言事を運ばねばなりませぬ。乱が起きてからでは後の祭りにござりまする」

雪斎の表情はいつも通り冷静ではあるが、言葉に語気を強く感じた。


「坊主は必ず増長する。ここは正念場ぞ。刃を交えてでも徹底的にやるべきだ」

俺が強く意見を述べると、部屋に静寂が訪れた。御祖母様が少し困ったようなお顔で父上と雪斎を見ている。


「氏真」

父上が諭すような声音で俺に話しかけた。

「余にはその方の言い分もよく分かる。だがな、三河の坊主どもが武家も民も唆した場合に、どれだけの者が応じるか見当がつかぬ。それに駿河と遠江の兵まで入れては他の大名に付け入る隙を与えかねぬ」

「織田は内で揉め、北条は上野に忙しければ、我等を脅かす存在はありませぬ。ここは反抗的な坊主を根切りにする絶好の機会ですぞ」

「ハハハ。その方の強い姿勢は頼もしい限りだ。だが北条とて攻めて来ない保証は無い。織田とて今川に隙あらば一枚岩となって攻めて来るかもしれぬ。今川が弱くなれば武田とて分からぬぞ。今川を俎上の魚にするわけにはいかぬのだ」

……。一向宗との火蓋は図らずも俺が切ってしまった。戦いの幕が上がった以上は戦い続けるしかないと思うが、父上と雪斎の考えは違うようだ。ここで和議は愚策にしか思えぬが、それは俺が三河一向一揆を知っているからそのように思うだけなのだろうか。三河の事で突っ張って父上との間に溝を作るわけにもいかぬ。落としどころを探るとしよう……。そうだな。良い手があるではないか。


「某はあくまで戦うべきだと思いまするが、三河の事にものを申す立場にありませぬゆえ、父上の下知に従いまする。ただ……」

「そうか、分かってくれるか。ただ何じゃ。申してみよ」

「和議には朝廷を使うべきかと存じまする。今川から積極的に坊主へ和議を持ちかけては悪しき前例を作りまする。ここは朝廷に働きかけて、朝廷の勧告でやむなく和議を結んだ形に致しましょう」

「治部大輔様、それでは和議の前例を作ることに変わりはありませぬぞ。それに畏くも朝廷による和議を破るわけには行きませぬ。守護不入が長引きますぞ」

「そこは和議の取り方次第だ。和議の内容は双方兵を引くことにしておけば良い。我らは朝廷の命に従って兵を引くだけだが、坊主たちは守護不入が認められたと都合よく解釈するだろう。後は我らにとって良き頃合いに、年貢を納める命でも出せば坊主どもはまた騒ぎ出すはずだ。兵も集めるだろう。それを和議の破棄だとして潰せばいい」

俺が意見を述べると、問題児を見ているような目で雪斎が俺を見てくる。何だ。このやり方は悪手か?

「面白いではないか。毎度色々と思いつくものよ。感心するぞ」

「参議殿、感心している場合ではありませぬ。妾は朝廷をも駒とする治部大輔殿に心配を覚えますよ」

「母上、良いではありませぬか。治部大輔の策は悪くありませぬ。治部大輔、春までに結果を出せ」

「御意にございまする」

春までか。あまり時が無いな。急いでやらねばならぬ。




天文二十一年(1552)一月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




評定の間に入ると、重臣や近習が皆控えていた。

「皆面を上げよ。権右少弁も来てくれたか」

「お呼びにより罷り越しましておじゃりまする」

脇息にもたれて寛いだ姿勢を取った。これまでの来客対応や先ほどの密談と、肩肘が張るものが多かった。さすがに疲れたわ。


「御屋形様とのお話はいかがでございましたか」

庵原安房守が話しかけてきた。やれやれ、息をつく暇も無しか。まぁ坊主も待ってはくれぬかもしれぬ。事は急がねばならん。今少し頑張るとするか。

「父上と雪斎は一向宗との和議をお望みだ。三河をこれ以上揺らしたくは無いらしい」

「和議、でござりまするか」

武闘派の岡部丹波守が呟いた。戦うべきと思っているが、当主たる父上が和議を考えているのを受けて黙ったというところか。表情からそんな感情が読み取れた。

「しかし若殿、一向宗と和議を結ぶとはどうやって結ぶのでございまするか。何もなくては一向宗も和議など結びますまい」

「備中守の言うとおりだ。そこで朝廷に働きかけて、今川と一向宗の双方が兵を引くよう勧告を頂くことにする」

「なるほど」

伊豆介が静かに頷いた。察しが良いな。筋道が見えているようだ。

こやつには和議の後のことも見えているのだろう。俺がどう考えているかもな。頼もしい奴だ。


「朝廷の力をお借りして元の状態に戻すのだ。そこでだ。権右少弁。その方は上洛し、蔵人とともに朝廷と交渉をしてほしい」

「麿が洛中に?よろしいのでおじゃりますか」

権右少弁が嬉しそうな顔をした。念願の京だ。気持ちは分かる。領内の内政を進めるにあたって権右少弁が欠けるのは苦しいが、今までの苦労に報いてやらねばならぬ。それにこれはただの和議ではない。俺の意を汲んで交渉させるためにも権右少弁の派遣はやむを得ぬ。

「うむ。急ぎ上洛し、蔵人と協力して朝廷と交渉にあたってくれ」

「承知致しました」

遅くても春には帰ってくるだろう。少し長めのリフレッシュ休暇を与えてやったと思おう。いや、重要な任務を与えているから休暇とはならないか。


「伊豆介、念のため武田や北条に不審な動きが無いか調べてくれ。信濃守は北条に明るいだろう。手伝ってやってくれ」

「御意にございまする」

「かしこまってございまする」

その後は今後の予定を皆と詰めて下がらせた。さて、溜まった文を読んで、返信を書いて……休む間も無いな。



一通り片付けてから聡子がいる部屋へと向かった。

「入るぞ」

「お帰りなさいませ」

聡子が自然と笑みを浮かべている。今日一日の疲れが取れた気がした。




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