第四十五話 間諜




天文二十年(1551)七月下旬 甲斐国山梨郡 東光寺 遠山 綱景




「民部少輔殿、わざわざの見送り忝い。こちらで結構でござる」

「左様でござるか。左衛門佐殿、道中お気をつけてお帰りくだされ。それではこちらで御免」

馬場民部少輔殿の見送りを受けて、甲府滞在中の宿としていた東光寺を後にした。この刻限ならば日が暮れる前に河口湖まで行けるだろう。今宵は湖でも眺めながら一杯やるとしよう。今川殿、武田殿と肩肘の張る交渉が続いた。帰国すればまた忙しない日々となろう。今宵くらいゆっくりしたいものだ。


「殿、今川様への旅路でまさか武田の御当主にもお会いできるとは思いませんでしたな」

道すがら、家臣の藤井四郎が話しかけてきた。こやつは旅路に黙々と歩くのが出来ぬようだ。ま、ここまでくればいらぬ耳も無いだろう。四郎もその辺りはわきまえている。

「そうだな。今川様も武田様も悪い感触では無かった。三國の誼はありえる」

今川家を訪れた折りに武田家からの使者として駿府へ来ていた刑部少輔殿に甲斐へと誘われた。急ぎ本国の承知を得て共に甲斐入りをした。甲斐へ入国するや、武田家当主の大膳大夫様に目通りがかなった。本国からは武田家がどのような思惑か分からぬゆえ、言質を取られるような事はするなと命があった。大膳大夫様は儂の立場をお分かりになっていたのだろう。

"武田家としては北条殿と誼を通じたいと思うておる"

切り出し方を逡巡していると、向こうからご意向を示してくれた。


「今川様が北条と誼を結ぼうとしているなら、信濃攻めに忙しい武田家が北条と争う必要もない。先程も申したが三國の誼は成る可能性が高い」

「そうですな。後は何を持って盟約とするかでごさりますな」

「その通りだ。今川家と武田家は婚姻で結ばれることになる。三國ともご嫡男と姫がいるが、これをどう融通するかであるな ……。ま、臣下の立場でこれ以上考えるのは恐れ多い。お主は今夜の酒を心配しておればよいぞ」

「お、今晩は気兼ね無くやれると言うことでござりますな」

「馬鹿者」

酒好きな四郎の足取りが明らかに軽くなった。……婚姻か。治部大輔様が既に姫をもらっておられる故どうしたものか……。四郎には考えるなと申しておきながら、気が付くと頭の中で考えを巡らせていた。




天文二十年(1551)七月下旬 駿河国安倍郡府中 由比 静




「こうやって、その次にここをこうしてな、最後にこれでどうだ」

若殿が小さな箱のからくりを手慣れた様子で解いていく。

「まぁ、殿!箱が空きました」

"カチッ"という音がしたかと思うと、小箱の蓋が開いた。聡子様が楽し気に声を上げられた。

「絵柄、形、それにこのからくりといい、愛らしゅうございますね」

「気に入ったか。であれば所望して聡子に進ぜよう」

「まことにございますか!嬉しゅうございます」

“うむ。これは良いな”

若殿がしみじみと呟かれた。聡子様への贈り物としてお気に召されたようだ。

若殿が三浦内匠助様の顔をご覧になる。目線を受けて内匠助様が店主の元へ向かっていく。代金のお支払だろう。


今日は久方ぶりに若殿と聡子様とで府中をお忍びでまわられている。もっとも、今訪問している赤鳥堂の本店でお忍びにはならない。若殿がお出でになるや、店主や番頭が応対をされている。若殿のお供は内匠助様に吉良上野介様、聡子様のお供は六條美代様に私だ。


私は定恵院様がお亡くなりになられると御屋形様から化粧料と暇を頂戴した。長年の出仕に対する労いを頂いたのだが隠居する歳でもない。暇を持て余していると、若殿と御裏方様が拾って下さった。都から下向された摂関家の姫君へのお仕えが務まるか不安はあったが、美代様をはじめ皆様に良くしていただいている。京から見えたお付きの皆さまは、都の文化にはお詳しいが、ここには今川独自の文化もある。そうした時には重宝頂いていて新たなやりがいを感じている。


長年に渡って定恵院様と共に若殿を見てきた私が見ても、若殿と御裏方様……最近は親しく聡子様と呼ぶようお許し頂いているが、お二人の仲は睦まじい。今も武田家への輿入れが決まった妹君に贈る品を二人で選ばれている。若殿は妹のお嶺さまを可愛がられている。輿入れが決まったために、"何か贈り物をしてやりたいが、聡子も共に選んでくれぬか"とお声を掛けられた。そしてここ、赤鳥堂に来ていると言うわけだ。


「まぁ、これなど如何ですか。ちょうど小物入れにはよい大きさで、温かみのある形をしております」

「指物の箱か。確かに良いかも知れぬな」

「指物……でございますか??」

聡子様が若殿に問いかける。仕草とお顔がとても愛らしい。

「そうだ。これはな、釘の類いを一切使ってないのだ。この形だと……恐らく隠し網組み継ぎと言って、木目が一続きに見えるが、中には網のように継ぎ目があって交差しているはずだ。作った者の腕が光る一品だな」

若殿が店主に目線を寄せる。すると店主が感心したように話しを始める。

「さすがは治部大輔様にございます。ご明察の通りで、この指物は留型隠し網組み継ぎという継ぎ方で、網目状の形を繋ぎあわせて作っております。そうだ、こちらに見本があります。よろしければご覧になってください」

店主が見本という木材を持ってくると、聡子様や美代様が感嘆の声を上げられた。

「なんと細かい……丁寧な仕事ですね」

美代様が驚いている。初めてご覧になると驚かれるのも無理はない。それに先程ご覧になられたのは駿河細工の最高峰のものだ。赤鳥堂が若殿に半端な物を見せるはずがない。

「木は切られた後も息をしておりまする。僅かではありますが、雨の日、晴れの日、寒い日、暑い日で大きくなったり小さくなったり致しまする。釘ではなく、こうした継ぎ目であれば、息をする木材に無理をさせませぬ。大事にすれば百年、二百年と使えまする」

「ハハハ、二百年とは大きく出たな」

商売上手な店主の語り口に、若殿がお笑いになった。だが、あながち嘘を申している訳ではあるまい。良い品は長く使えるのは本当だ。


「ま、大事にしておれば二百年使えるのも誠だろう。当家の宝物で百年より前の物も少なくないからな。それに聡子が選んだこの無垢の箱は、使えば使う程に色が変化してくる。よく触れるところが深い色になったりしてな。それがまた良い。世に二つとない代物となるのだ」

「これはまた、治部大輔様は商いの御才能がおありでございます」

店主が若殿を褒めると皆が大きく笑った。


皆で楽しく品定めをしていると、番頭がやって来て店主に耳打ちをした。

「治部大輔様、奥方様、赤鳥堂と懇意にしている櫛屋が参っております。お品をご覧になられますか」

店主が話すと、聡子様が若殿の顔を伺った。若殿が“もちろんだ。嶺に櫛も買ってやることにしよう。聡子にもな。無論、美代殿にもお送りしよう”と仰せになった。聡子さまがうれしそうなお顔で"聡子は箱を買っていただいておりますれば、嶺さまと美代の櫛を選びたく"と仰せになられた。近衛の姫君が来るとお聞きしたときは、何かと物入りになるのかと思ったが聡子さまは慎ましい。若殿が“聡子も買えばよい。そのくらい気にするな”と優しくお声がけされている。若殿が私の顔をみて“静もな”と仰せになった。あら、私もよろしいの?櫛を頂戴できるとは嬉しい。先ほどから美代様も楽しそうだ。やはり女子にとって櫛は大事な小道具。興味は絶えない。贈り物としても最適だろう。


……しかし、今日はまだ反物に陶器を見る事に加えて、名物のとろろを食す予定だが、無事に終わるのだろうか。先は長くなりそうだ。




天文二十年(1551)八月上旬 駿河国府中 今川館 望月 まつ




「若殿、伊豆介にござりまする。ご指示の二人を連れて参りました」

"入れ"

中から若い男の声が聞こえた。許しを得て中に入ると、若い男が一人、文机で書物を読んでおられた。若殿だろう。我々が部屋の中に入るや、お手を止めてこちらに向かって座られた。頭領に続いて近くまで伺う。まさかこの私が今川のお館に足を踏み入れる機会が来るとは今でも信じられない。きっと横にいるさちも同じ気持ちだろう。

「もそっと近くよれ。許す」

さらに近くまで?今でも十分に近いと思うが……。私のような身分の者が今川家御嫡男のお近くまで寄ってよいものだろうか。

「はっ。それでは失礼いたしまする。二人とも今少し前へ」

頭領に促され、上段に近いところにまで歩み寄る。若殿様のお顔がよく見えた。歳の割に大きなお身体だ。十三か十四とお聞きしていたと思うが……お身体といい、佇まいといい、とても若年とは思えない。厳しいお顔付きをされている。大名家の御曹司ともなればこれが当たり前なのだろうか。


「若殿、この二人は古くから我が狩野家に仕える家の出で、信頼のおける二名にございまする。忍びとしての教えもしておりますれば、どうぞ駒としてお使いください」

「今川治部大輔である。よく参った。面を上げよ」

許しを得て面を上げると、“名は何という”とお言葉があった。

「まつと申します」

「さちと申します」

「うむ。まつとさちか。まつ、さち、その方らに頼みがある」

親しく名前を呼んでいただいたかと思うと、若殿が低い声で話し始めた。


「その方ら二人を我が妹、嶺に付ける」

「「!!」」

若殿の思いがけないお言葉に驚いた。日頃からの修練で、高貴な身分の方のお付きになるのだと思ってはいたが、武家か公家の家にでも仕えに出されるのかと思っていた。まさか今川の姫君のお付きをすることになるとは……。

「嶺は来年武田家に嫁ぐ予定だ。その方ら二人が嶺に付く手はずは整えてある。輿入れまでに嶺の信頼を得るよう努力せよ」

「はい」

何とか声を絞り出して応じた。私とさちが頷いたのを見て、若殿様が隣に置いてあった箱を持ち上げる。すかさず頭領が出向いて恭しく受け取った。駿河細工の箱のようだ。同じようなものが三箱ある。


「まつ、さち、その方らにこの箱を一箱ずつ与える。好きに使うが良い」

この箱を?見たところ指物の上等な品だ。このようなものを頂いて良いのだろうか……。頭領の顔を見ると、小さくうなずいた。頂戴してよいということか。少し心が弾んでいると、若殿が私とさちの顔をじっと見ながら厳かに話し始めた。

「これより話すことは他言無用である。厳に密なるを要す」

若殿の言葉に空気が緊張する。背筋に冷や汗が流れる気がした。頭を下げるべきか、いや、じっと見られているのだからこのまましかとお話を伺おう。

「その方ら二人は嶺の付き人となり、輿入れに帯同の上、甲斐入りの後は嶺の身の回りを世話せよ。表の仕事としてこれを命じる。だがその方らは裏の仕事として、武田の内情を調べるように」

内偵か……。修練はやはりこのために行われていたのだと思った。

「その箱はからくりになっている。一見普通の箱に見えるだろう?だがな、裏を返していくつか手順を踏むと、こうやって外れて僅かな隙間ができる」

若殿が隣に残った一箱のからくりを手慣れたように操作すると、箱の裏が外れて内底との間に僅かな隙間があることに気づいた。

「武田の軍機……、軍備、兵力、石高、人とのつながり、機微な情報を聞いた折には忘れぬ内に書き溜めてそこに入れておけばよい。定期的に人を遣わすゆえ、そうだな……茶菓子にでも紛れ込ませて渡してくれればよい。俺が茶を好んでいる由は武田でも知られている。怪しまれることは無いだろう」

「修練を積ませて参りましたゆえ無事に務めると思いまするが、輿入れまでの期間、引き続き厳しく教えまする」

我ら二人に代わって頭領が若殿に応える。

「今でこそ武田とは盟約で結ばれているが、少し前までは血で血を洗う間柄だったのだ。油断はならぬ。よいか、武田の者たちも嶺やその方たちを外からの者と訝しむはずだ。嫡男の正室とは言え肩身の狭い生活を強いられるだろう。よく嶺を支えてやってくれ」

ずっと厳しいお顔だった若殿が僅かに笑った。恐れ多くもそのお顔が美丈夫だと思った。しかしすぐに笑顔が無くなり厳しいお顔付きに戻る。

「良いな、表は武田家の者として振る舞い、裏で今川のために動くのだ。心は今川であれ。努々忘るるな」

「「はい」」

さちと深々と頭を下げると、袱紗を置いて若殿が立たれた。そのまま部屋をお出になるかと思ったが、障子の前で立ち止まって“取っておくが良い”と仰せになって出て行かれた。


頭領の許しを得て袱紗を開くと、今までに見たことも無い程に立派な櫛が二つ入っていた。赤鳥の紋が入れられている。今川を忘れるなということだろうか……。


まさか今川の御嫡男から命を頂けるとは。頂戴した櫛を懐に入れ、修練に励まねばと改めて思った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る