第四十四話 下地




天文二十年(1551)七月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「武田大膳大夫が弟で刑部少輔信廉にございまする。今川の参議様並びに治部大輔様におかれましてはご健勝のこととお慶び申し上げまする」

刑部少輔の挨拶を受けて、父が面を上げるようにと応じた。……其処に晴信がいる。そう思わせる程よく似た顔があった。


「大膳大夫殿によく似ておられる」

「はっ、よく言われまする」

父上の問い掛けに、刑部少輔が慣れた様子で応えた。続けて"それならば影武者も務まるだろうな"と言い掛けて飲み込んだ。笑い話にならぬかも知れぬ。左馬助に続けて俺を敵対視する人間を増やす必要もない。口は災いの基だ。ここは静かにしておこう。

「久しいの、民部少輔」

「はっ。再び拝謁の栄に浴す機会を賜り恐悦至極にごさりまする」

付き人として共に来駿した、馬場民部少輔に向かって父上が声を掛けた。あ、こちらにも目線が来た。目礼をしておこう。


「この時期は雨も多い。道中泥濘も多く大変であったろう」

「はっ、あ、いえ、それほどでは…。甲斐に比べれば駿府の道は歩き易うござりました」

父上が刑部少輔に旅の苦労を労うと、まごついた様子で刑部少輔が応える。左馬助と違って愛嬌があるな。まぁまだ十三?四あたりのはずだ。多少のあどけなさはご愛嬌だな。府中が歩き易いというのは本心だろう。興津の清見寺からは、今川より派遣された迎えの馬車に乗って来たはずだ。道の良さに驚いたに違いない。


刑部少輔が辺りを見回している。好奇心旺盛なようだ。微笑ましく思った。

「如何致した」

父上が笑いながら刑部少輔に問いかけた。

「はっ、この広間の見事さに感じ入っておりまする。甲斐にはこのように豪華絢爛な部屋はありませぬ」

「そうか、ゆるりと見るがよいぞ」

刑部少輔の褒め言葉を受けて、父上が満更でも無さそうに応じた。刑部少輔が褒めたこの広間は、通称"源氏の間"という。父上の許可を受けて俺が特別に改修させた部屋だ。世辞とは言えど、俺としても嬉しいぞ。


源氏の間は熊本城で有名な昭君の間を模倣したような豪華絢爛な造りになっている。当初は二条城の大広間のような、襖だけでなく全ての欄間に絵入れする案もあったが、強弱が欲しくてやめた。絵が描かれた豪華な襖に、真っ白な欄間が上手く調和している。


絵師には洛中から土佐派の土佐光茂と光元親子を招聘した。ちなみに源氏の間の由来は、襖に描かれた景色が全て源氏物語の場面を描写しているからだ。この建物が焼けずに残ってくれれば、将来国宝になるのは間違いないな。松竹梅や鳥獣が力強く書かれた狩野派の絵も良いが、流麗な源氏物語の世界に囲まれるのも面白い。中々に気に入っている。だが俺以上に喜んでくれたのは父上だ。この部屋を見るや、直ぐに下向している公家衆と歌会を開いた。公家衆も随分驚いていたな。また下向希望が増えるかもしれぬ。


居並ぶ重臣達も自分の事のように嬉しそうにしている。今川に仕える事の誇りを感じているだろう。そりゃ主家の広間はすきま風吹き荒ぶあばら屋より、豪華な方が気分はいいよな。前世でもそうだった。賃料は高くなるかもしれないが、良い立地に見た目のよいオフィス。其処に優秀な人材が集まる。コストとの見合いは重要であるし、行き過ぎると排他的、屈折した忠義になるから気を付けないといけないが……。


「して、わざわざ甲斐から見えた用向きを聞くとしよう」

刑部少輔が"これは失礼をば致しました"と申しながら、居ずまいを正して話を切り出した。

「我が武田家としては、当主大膳大夫が嫡男へ今川家より姫君を迎え入れたくお願いに参りました」

"おぉ"

家臣達がどよめいた。母上が亡くなってから今川と武田の血による繋がりは薄まった。何かせねばという気持ちは誰もが持っていただろう。具体的な提案に皆が固唾を飲んでいる。


「うむ、当家にとっても良い話だ。異論は無い。我が娘の嶺を差し出そう」

「有り難き幸せにござりまする。主、大膳大夫に変わりましてお礼申し上げまする」

「うむ、ところでご使者殿。娘を差し出す先のご嫡男殿はどのような人物かな」

父上の問いかけに、刑部少輔がじっと父上を見て応える。

「はっ、身贔屓かと謗りを受けるかも知れませぬが、大膳大夫の嫡男は文武に秀で、よき当主になろうかと存じまする。治部大輔様とも同じお歳でありますれば、よき盟友にならんと思うております」

刑部少輔が相当に自信のあるような言い振りで応えた。ところで武田義信って同い年だったの?知らなかったな。先の甲斐出兵時に挨拶でもしておけば良かった。


「そうか、嫡男殿と治部大輔は同じ歳か。なればこの婚儀で益々今川と武田の縁が深まればよいの」

「はっ。大膳大夫も同じ思いかと存じまする」

刑部少輔が深く頭を下げた。大役を無事に終えて肩の荷がおりたというところか。今日はまだ長いぞ。また後でな、刑部少輔殿。頭を下げる刑部少輔を尻目に、父上と共に部屋を下がった。




天文二十年(1551)七月上旬 駿河国有渡郡宇津ノ谷村 柴屋寺 武田 信廉




満月と蝋燭の灯火が作る明かりの中で、松風の音が部屋に小気味良い音をもたらす。


流れるような動作だ。あくまで茶を入れるための動きのはずだが、所作の一つ一つに気品がある。治部大輔様は長らく上洛もされていたと聞く。上方ではこのような作法があるのだろうか。いや、駿府には下向している公家が多い。公家たちに師事をされたのだろうか。


輿入れに関する拝謁が終わると、今川館の一室に案内された。部屋で旅の疲れを取っていると、参議様の小姓がやって来て"戌の刻の涼しい頃に、場所を移して茶でもどうか"と誘いを受けた。偶然にも北条からの使者が来駿しているらしい。くだけた茶の席とするゆえ、皆で同席しないかという誘いだった。断る理由もない。快諾すると、所定の刻限に馬車が迎えに来て郊外の寺へと連れてこられた。手入れが行き届き、静謐な趣を感じる寺ではあるが豪奢な様子は無い。拝謁をした時の広間のような、今川の力をまざまざと見せつける場所を想像していたので肩透かしを受けた気分だ。しかし、今思い出しても驚く。あの謁見の間は凄かったな。


茶を立て終えて、治部大輔様が畳の縁に茶碗を置いた。これは……常なら取りに行くが、どうしたものか逡巡していると"余が"と参議様が仰せになって茶碗を某の前に運ばれた。

「一人さんです」

治部大輔様が呟くように申された。某の分だけということか。

「頂戴致す」

肌触りの良い茶碗を手にとって中の茶を口に含むと、豊潤な香りと、角の取れた円やかな味が広がった。旨い!このような茶ははじめてだ。

「大変結構な味でござる。感服致しました」

率直な感想を伝えると、僅かに笑みを浮かべて治部大輔様が頷いた。治部大輔殿が静かに次の茶を点て始める。薄暗くて見えにくいが、赤い茶碗のようだ。中々に良い器だ。

しばらくして次の椀にも茶が立つと、参議様が隣に座している馬場民部少輔に運ぶ。民部少輔もこのような茶席には手慣れてはいないはずだが、そこは年の功というべきかそつなく受け取った。


続けて民部少輔の隣に座る遠山左衛門佐殿の手前に椀が置かれた。左衛門佐殿が受け取って飲み始める。さすがは北条の名代として来ているだけはあるな。随分と落ち着いている。先程も参議様が左衛門佐殿を甲斐守と紹介するや、"受領名にござりますれば、今宵は左衛門佐とお呼び頂きたく"と返していた。我ら甲斐の者に気遣われたのであろう。席次も北条の当主名代としてきているのだ。俺はともかく民部少輔よりは上になるが、末席で構いませぬと配慮された。年の功は民部少輔と同じ位だろうか。四十手前程度に見える。

印象は悪くない。むしろ良き御仁と思う。


「左衛門佐殿は親善の使者として参られてな。ちょうど時を同じくして刑部少輔殿が見えた。武田家としても北へ向かうに北条殿と誼を通じるは悪くなかろう。急ではあったが一席設けさせてもらった」

成る程、北条が今川へ親善の使者か……。参議様の反応は悪く無いようだ。北条と今川が和議を正式に結ぶ日も近いかも知れぬ。


「ま、今宵は茶の席じゃ。堅苦しい事は抜きにして、肩肘張らず一服を楽しむとしよう」

参議様が仰せになった後、皆を連れて縁側にお出になられた。濃茶と薄茶で場を変えるようだ。その前に少し月でも見て間を置こうという算段のようだ。ちょうど今宵は月が綺麗だ。山裾から覗くように月が出ている。


「この寺は別名を吐月峰とげっぽうと申しての、あそこにある石に座って眺めるとな、裏山から月が吐き出されるように出てくるのじゃ。中々に雅であろう。我が祖父の時代に宗長という連歌師が名付けたのだ」

それで吐月峰か。確かに裏山の山裾から吐き出されるように月が出ている。フフッ、そう思うと面白い。


「筋状の雲が所々月にかかって綺麗でござりますね」

「誠に誠に。星も相まって美しゅうござる」

俺の言葉に左衛門佐殿が相槌をうつ。


「月と星と雲、どれがかけてもこの絵は作ることが出来申さぬ。争うのではなく互いを引き立てあえるというのはよいことでござるな」

治部大輔様が某と民部少輔、左衛門佐殿の顔を順にご覧になる。……三國のことを仰せか。三國が誼を結ぶことは悪い話ではないと思うが、兄上に伺う前に言質を取られてはならぬ。思わず口をつぐんだ。

「それはそうですな。この景色はその三つが無ければ成り立ちませぬ」

陽気な顔を浮かべながら左衛門佐殿が応える。治部大輔様が僅かに笑みを浮かべて頷かれた。そうか、俺は深読みが過ぎたか。単純にこの景色を褒めれば良かったな。月の話は月の話でしかない。やはり左衛門佐殿には経験があると感じた。



しばらくすると、部屋が改められた。特にとりとめもない部屋だ。干菓子を食した後で薄茶が点てられている。茶筅が揺れる軽快な音が響く。


「どうぞ」

飾りの無い井戸茶碗に、細かく泡立った茶が出された。丁重に頂く。濃茶も良かったがこの薄茶も良いな。干菓子で渇いた口にすっと茶が入っていく。続けて民部少輔にも茶が出される。この茶碗も良い代物だとは思うが、残念ながら俺は明るくない。最後に左衛門佐殿に出された。おや?見間違いだろうか?左衛門佐殿に出された茶碗にひびが入っていた気がしたのだが……。

ズズズッと左衛門佐殿が茶を飲みきる。

間違いない。罅が入っている。他の椀が無いとは思えぬが、あのようなみすぼらしい茶碗で出さずともよいものを。


「大変美味しく頂戴し申した。茶も素晴らしいが、この茶碗が素晴らしい。色艶、手触りと言い、この鎹といい、お心遣い感謝致しまする」

気遣い?罅の入った茶碗が素晴らしい?誠にそう思っているのか?世辞も過ぎたるは及ばざるが如しだと思うが……。


「某はその器を気に入っておりましてな。罅を埋める鎹がまた何とも言えぬ味わいを出している」

「仰せの通りかと存じまする。裂け目を埋める鎹……。何とも奥深い。結構な代物と拝見しますがご由緒は」

治部大輔様と左衛門佐殿のやり取りが続く。あまり持ち上げすぎてもいかぬと思うが……。左衛門佐殿の言を冷めた気持ちで聞いていた。


「平相国が宋より手に入れたものと聞き及んでおり申す。角倉家から偶然入手した、東山御物の一つでござる」

「それはそれは。そのようにご由緒あるものだとは。忘れ得ぬ茶になり申しました」

東山御物……。さすがに聞いたことがある。八代の公方様が所有された茶器のはずだ。そのようなものを持っているとはさすがは足利一門と言うべきか。


高いのだろうな。だが、俺ならば兵糧、槍、刀を買うだろう。茶器が何を生むというのだ。今川治部大輔……。人柄は悪くなく、聡明な印象は受ける。ただ武は感じないな。それに公家かと思うような佇まいに結構な金の使い方だ。……今は乱世だ。余力があれば少しでも武をつけるべきだろう。左馬助兄上から治部大輔様には気を付けるよう言われたが、どこを気を付けるべきだったのか、ついぞ分からなかった。



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