第四十三話 揺らぐ水面




天文二十年(1551)六月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 義元




「太閤殿下から文が届いた。先般朝廷の取り計らいによって成立した、当家と織田の和議が弾正忠亡き後も維持されるか不安なようだ」

「某にも義兄上から同じような内容の文が届いておりまする」

そうか。治部大輔には内府殿が送ったか。しかし太閤殿下と内府殿の双方から来るとは、余程にこの和議を維持したいらしい。


「文はどのようなお立場で書かれたものだったのですか」

母上が余と治部大輔を見ながら訪ねてきた。

「あくまで私信でしたが、内実は幕府からの依頼ですな。どうも公方様の意向のようです」

"公方様の"

母上が確認をするような相槌を打ってくる。そうなのだ。朝廷の斡旋で行った和議だが、維持に執心しているのは公方のようだ。美濃守護である土岐家の事が書いてあったが……。

「余への文には、土岐美濃守の美濃復帰を支援されたしとあった。治部大輔への文は如何であった」

「某への文にも同じような事が書いてありました。重臣である斎藤山城守の専横著しく、今にも美濃を追われそうだと」

どこも守護が不甲斐ないの。斯波に土岐、名家が落ちぶれる姿を見るのは忍びないのだがな。


「公方様は上洛に御執心であれば、支援を頼む六角殿への後押しとして、背になる美濃を落ち着かせたいのでございましょう」

雪斎が静かに話出した。母上が"成る程"と頷いている。雪斎の言うとおりだろうな。問題は土岐による美濃支配、これが成るか否かだ。

「成ると思うか」

治部大輔の顔を見ながら呟いた。もう国持大名なのだ。しっかり世との流れを見ているか試したくなった。


「成らないと思いまする。美濃の実質的な支配者は斎藤山城にごさりまする。加えて斎藤山城と織田上総介は縁戚関係にありますれば、織田には土岐のために動く利がありませぬ。幕府は交渉相手を違えております。ただ、幕府の当家に対する依頼だけを考えれば、当家と織田の和議にあるのですから、和議をこちらから敢えて破る必要もありませぬ。ここは幕府の顔を立ててやりましょう」

「拙僧も若殿の仰せの通りかと存じまする」

うむ。余も二人の意に異論はない。三河の支配強化には刻が必要だ。そのためには織田との和議は悪くない。上手く幕府に貸しを作ってやろう。


「そうだな。三河の慰撫の最中に和議をこちらから破る必要は無い。しばらくは三河の統治に専念だ。松平を縁(よすが)とする陪臣共の取り込みもせねばならぬ」

先般の和議によって朝廷は今川による三河支配を認めている。だが松平の家臣たちは未だに松平による三河支配を目論んでいる節がある。誠に頑固な者達よ。竹千代を懐柔して間接的に治めるか、松平の者共を解体して力ずくで治めるか考えねばならぬの。三河は坊主どももややこしい。時間を掛けて対処するしかあるまい。


「 それにしても織田の若造だが、上総介を名乗るとは成り上がりらしい。笑止千万よ」

「今川の歴代が上総介を名乗る事が多いゆえ、対抗したのでございましょう」

雪斎が相槌を打つ。そうなのだ。今川の当主が元服して名乗ることが多いのが上総介だ。

「よいではありませぬか。織田のそれは僭称に過ぎませぬ。それに対して今や父上は公卿でありますれば、格が違いまする」

治部大輔の言葉に溜飲を下げる。左様、織田上総介等と名乗ってはいるが、所詮守護代の家臣に過ぎぬのだ。我らとは格が違う。

「そうだな。一々目くじらを立てても致し方無い。笑って許してやろう」


「そういえば治部大輔殿、伊豆方面の視察は如何でした」

母上が治部大輔に問いかける。少しばかり棘のある口調だ。新妻を置いて視察に出たことを申しておるのかもしれぬ。もっとも、母上のお顔には笑み、これは諦めの笑みだな……が浮かんでいる。治部大輔が政に熱心なのは何時もの事だ。新妻には気の毒ではあるが、政に熱心な事を咎める訳にもいかぬ。


「色々と得るもの大でございました」

「ほぅ」

「北条の動き、伊豆の状況、そうそう、富士の御山も我が今川のものとなりましたぞ」

"少しばかり聞き及んでおります。富士大宮司殿を臣下としたとか……。"

ほぅ。母上もご存知であったか。流石だな。母上は独自に寺社や公家と交流がある。秘匿している訳では無いとはいえ耳が早いな。


「お耳が早く御座いますな。その通りでございまする。富士大宮司を家臣に迎える事が叶いました」

「富士氏の土地は駿府東を守る要所なれば、よくやりましたね」

これは母上の言う通りだ。大永の頃の武田攻めでは富士氏は我が今川に協力して共に甲斐へ出兵している。その後も何かと当家に協力してきたが、家臣ではなかった。此度正式に服属したことで、今川の守りが強化された。治部大輔は田子の浦を開発すると言っていたな。商いで今川と切れない関係にしていく。息子は早速辣腕を振るっているようだ。


「富士氏の菩提寺である先照寺という所に行って参りました。雄大な富士の山に庭の櫻が掛かって、何とも美しい景色にごさりました。刻が許せばぜひ行きましょう」

治部大輔の言葉に、母上が嬉しそうに頷いた。全く頼もしいやつよ。富士氏と富士山の話をすることで、伊豆の金山については触れさせないという訳だな。それで良い。母上と言えど、どこで金山の存在を漏らしてしまうか分からぬ。不必要に知る人を増やす必要もあるまいて。


「それと北条ですが、兵は動かしたものの、当家を攻める気は無かったようです。怪しい動きはありませんでした」

「そうですか。北条は当家を敵にする気は無いようですね。かつての様に手を携える関係があっても良いと思いますが……。」

母上が余の顔を覗いてくる。北条に嫁いだ妹の事を言っているのだろう。やむを得ない事ではあるが、母上は何かと北条寄りだ。まぁそろそろ話しても良いか。

「北条の事でござりますが、来月に親善の使者が来る予定にございまする」

"親善の使者?"

母上が驚いている。治部大輔もまだ知らない事だ。眉が僅かに動いた。


「雪斎と話をして北条とは親善を図るべきだと思いましてな。西に向かうに後顧の憂いを断つ必要がありまする。北条とは色々と蟠りがありまするが、ここは大を成すために目を瞑ろうかと」

「そうですか。今川と北条は元来縁戚のはず。妾は手を携える事のできる仲だと思うております。今川と北条の縁のためなら協力を惜しみませぬ」

「ま、両家のしこりを取るには時間が掛かりましょう。追々お力をお借りするかも知れませぬ」

余の言葉に母上が頷く。口元が僅かに上がっている。言葉には出さないが嬉しいのであろう。母上はいつも妹の事を可愛がっていたからな。


「それから来月は時期を同じくして武田からも使者が来る。大膳大夫殿の弟君だ」

余の言葉に、治部大輔が訝しんだような顔をした。誰が来るのか気になっているようだ。

「府中に来るのは刑部少輔殿だ。左馬助殿ではない」

「刑部少輔殿?大膳大夫様と左馬助殿の同母弟の?」

ほぅ、知っておったか。相変わらず世情に明るいな。

「そうだ。此度は刑部少輔殿が大膳大夫殿の名代として府中に来る。要件は嶺の輿入れだ。嫡男の太郎殿に嫁がせる」

「嶺を?参議殿、それは少しばかり早くありませぬか?」

「致し方ありませぬ。武田としては我が妻が亡くなって今川との縁が薄くなり、危機感を感じている様子。信濃平定に向けて邁進するためにも今川との縁を確かなものにしたいのかと」

「これも戦国の世のならい。尼御台様におかれましては何卒ご承知置き願いたく」

当家の外交を担う雪斎が母上に頭を下げる。治部大輔は……顔が合うと頷いた。うむ、息子は輿入れの必要性を理解している。

「……妾とて、輿入れに反対するわけではありませぬ。必要な事とは分かっております。なれど、年端かも無いお嶺がもう輿入れとは余りにも不憫で」

母上が袖の隅を目元にやって滲んだ涙を拭う。余とて不憫に思わない訳ではない。なれどこれは今川のために必要な事なのだ。それに武田は清和源氏の名門。輿入れ先も次期当主たる嫡男が相手だ。悪い話ではない。己の心に言い聞かせた。




天文二十年(1551)七月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 遠山 綱景




「北条左京大夫が家臣、遠山甲斐守にごさりまする。参議様ならびに治部大輔様にお目通りがかない、祝着至極に存じまする」

儂が口上を述べると、参議様が"うむ、よく参られた。面を上げよ"と鷹揚に応じられた。許されて面を上げると、謁見の間の豪奢な造りが目に入った。金箔を惜しみ無く使った床の間に、細かく絵の入った違い棚と、今川の財力を見せつけられた気がする。府中の賑わいに圧倒されていたが、ここでも改めて今川の豊かさを感じた。目のやり場に困っていると、治部大輔様が"遠路ご苦労であられた。お久しゅうござる"と労いの言葉を掛けて下さった。思いがけない一言に間の抜けた顔をしていると、

「兵糧の取引の一件でござる。その節は世話に成り申した」

「あ、いえ、某の方こそお手間をかけ申しました」

まさか覚えてお見えだとは……。嬉しく思うと共に、少しばかり恥ずかしくなった。

「手間等と。それを申すなら手間を掛けたのは某の方でござる」

治部大輔様が笑みを浮かべながら話しかけてくる。恐れ多い事だが、少し距離を近く感じた。そうなのだ。あの時は予想外の兵糧の量にあたふたした。手勢が持っていた軍資金では到底足りず、小田原まで早馬を出したのだった。蔵の金も底をついて後が無い我らは、戦いに明け暮れた。関東管領が率いる八万の大軍も撃ち破った。ここは一つ社交辞令でも申しておくか。


「今川様からの兵糧を鱈腹食べて、我が兵は一層奮起して敵を退け申しました」

「そうか、元気が出る源を入れておいたのだ。役に立ったようで何よりだ。もっと高値で買ってもらえば良かったの」

"ハハハ"と笑いながら治部大輔様が仰せになった。儂もつい笑いが溢れる。参議様や雪斎殿も笑みを浮かべておいでだ。お陰で場が和んだ。


「さて、御使者殿の用件を聞こう」

一頻り笑った後、参議様が問い掛けてきた。心なしかはじめよりも優し気に感じる。

「はっ。我が主、左京大夫は今川家と北条家の間において、正式に和議を結びたいと申しておりまする」

「和議、か」

参議様が静かに呟かれた。治部大輔様は……お顔からお考えは伺い知れない。

「すぐに回答はしかねる。審議して回答するゆえしばし府中にてゆるりとされよ。滞在中の宅は当家が用意しよう」

「は、……ははっ」

直ぐに回答を得るか、後日文にて回答を得るか。この二択かと思っておったが、まさか逗留することになるとは……。思いがけない返答に、答えにまごついた。




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