第三十六話 尾張出兵




天文十九年(1550) 八月下旬 遠江国豊田郡龍川村 峰之澤 吉良 義安




「おぉ、良い出来合いだな」

若殿が、木材に釘と言ったら良いだろうか?

鉄の柱が櫛状に何本も連なった器具を見ながら笑みを浮かべている。


「若殿、これは何でござりますか」

嬉しそうに器具を眺める若殿を見て、つい尋ねた。敵の侵入を防ぐような、新たな陣地用の防具であろうか。


「これはな、穂の実った稲をな、こうやって鋤くのだ。さすれば容易に脱穀できよう」

なんと、農具であったか。

「昨年に領内を回った時、民が必死に稲を叩いていただろう。何事かと聞いてみれば脱穀をしているという。あれは難儀だ。何とかしてやりたいと思うてな」

若殿がまだ青い稲を持って穂を櫛に掛ける。僅かに実り始めた実が、所々でほろほろと落ちている。これは素晴らしい。実った穂ならば容易に落ちそうだ。何とも簡単な道具に見えるが、目から鱗とはこの事じゃな。吉良領でも民達が懸命に稲穂を脱穀する姿は見てきた。苦労を掛けるとしか思わなんだ己が恥ずかしい。


「うむ。良いな。あとは実際に実った稲を使わねば何とも言えぬが、問題は無かろう。歯扱き器と名付けよう。鉄次郎、良くやった。これは多くの民草が喜ぶぞ」

歯扱き器か。これは間違い無く売れるだろう。それも飛ぶように。


若殿の労いを受けて、鍛冶師の鉄次郎が額を地に擦り付けている。弟子達も後ろで肩を震わせている。今川の若殿から直々に労いの言葉を受けたのだ。感極まるのもよく分かる。


鉄次郎は、元々濱松の町で鍛冶屋を営んでいたが、今川家が峰之澤に施設を作る際に峰之澤へ移り住んだ。はじめは黙々と鉄砲を作っていたが、元来からくり物が好きらしい。鉄砲を工夫して、長身の鉄砲や短筒を作っていたところに若殿が目を掛け、何かと新たな器材を作らせている。


「お殿様」

「何だ」

鉄次郎が直接若殿に話しかける。初めて若殿に付いて峰之澤までお越しになっている三浦左衛門尉殿や、庵原安房守殿が驚いた表情をしている。鉄次郎の様な職人が、若殿に直答している事を驚かれているのだろう。心なしか儂や新次郎らに御家老衆の視線が厳しい気がする。


初めの頃は近習の誰かが嗜めていた。その度に若殿が面倒そうに直答を許されていたが、先だって若殿が痺れを切らした。

"鉄次郎においては常に直答を許すゆえ、思うことを発言せよ"と仰せになったのだ。鉄次郎は恐れ多いと固辞していたが、若殿が構わぬと強く仰せになるので、皆で嗜めるのをやめることにした。


「……そのう、お命じ頂きました風起こし器が出来ましてございまする」

「……! で、あるか!」

一際大きな声で若殿が嬉しそうに応じられた。風起こし器?何でござろうか。

「案内せよ」

「はい」

鉄次郎達が別の建物に案内をする。先ほどよりも幾分大振りな建物に、同じような形をした機材が五機置かれている。それぞれの機材は細い葉のようなものが三枚連なっている。

「良いぞ。回してみよ」

若殿の下知を受けた鉄次郎の弟子たちが、風起こし器なるものの取っ手を廻し始めた。三枚の葉がくるくると回り始める。

“おぉ!”

“なんじゃこれは!”

葉の回転に勢いがついてくると、風が起きた。団扇で起こす風など比較にならぬ程の大きな風が吹いている。


「これも良くできているではないか。でかしたぞ鉄次郎」

「すべてお殿様が下さる絵図面のおかげでして、手前どもは大したことをしておりませぬ」

「謙遜しなくともよい。俺が渡した絵図面では、羽根が回る仕組みをどうしたものか考える必要があったはずだ。そうか、二枚の歯車を組み合わせたのか。まったく、鉄次郎はからくりが得意だな」

若殿が風起こし器のからくりを褒めると、鉄次郎が嬉しそうに応じた。職人だけに、技術的なことを褒められて嬉しいのかもしれぬ。この仕組みをすぐにご理解される若殿も凄いが……。


「若殿、これはいったい何に使うのでござりましょうや」

関口刑部少輔殿が不思議そうな面持ちで尋ねられる。左衛門尉殿や安房守殿も同じような面持ちだ。関口刑部少輔殿は御由緒衆と呼ばれる御一門の一人にあたり、御屋形様の重臣であったが、若殿が駿河を拝領されたのに伴って若殿の家臣となった。


「見ての通り風を起こすために使うのだ。春先は茶畑に霜が降りるであろう。霜に苦労している者たちを見て、何とかできぬかと考えたのだ。これで風を起こせば少しは霜が防げるであろう」

御家老衆が感心したように頷いている。若殿の素晴らしいところは、次々と新たなこと、新たなものを生み出されることにあるが、何よりも民を労っておられることだ。


ダダァーンッ!!

“おぉ!?”

“何事じゃ”

突然、凄まじい砲撃の音がした。左衛門尉殿達が驚いて大きな声を上げた。丹波守殿が思わず鯉口に手を掛けている。儂や新次郎、又太郎達は動じていない。峰之澤に来る度によく聞く音だからだ。


「鉄砲の試し撃ちだろう。気にするな」

若殿がクスクスと笑いながら左衛門尉殿達へ話しかけた。

「これが試し撃ち?一丁二丁の音ではありませぬぞ」

「それはそうだ。試し撃ちしているのは一丁や二丁ではないからな」

左衛門尉殿や安房守殿の顔がますますポカンとしている。すると若殿が“よい機会だ。付いて参れ”と仰せになって鉄砲の製造場と試打場を見てまわる事となった。


“ダダァーンッ”

再び大きな砲撃音がした。その音を受けて、若殿が“先に試打場を見るとしよう”と仰せになった。少し歩いて試打場に着くと、五十名程の兵が黙々と鉄砲撃っては再び弾を込め、また撃つ事を繰り返している。


「左衛門尉に安房守、鉄砲は知っておるな。弾込めに幾ばくか時が掛かるが、弾はこの通り小さい。これが目にも止まらぬ速さで強力に飛んで行くのだ。一町先の鎧も貫く事もある。これだけ強力な鉄砲だが、火薬を使うゆえ鉄砲に煤が付いてな。連続で撃てる数に限りがある。そこで、だ。この鉄砲は連続して何発撃てると思う」

「あ……いや、某は皆目分かりませぬ。ずっと打てるものでないのでござりますか」

左衛門尉殿が言葉を詰まらせる。安房守殿も同様だ。


「刑部少輔と大蔵尉はどうだ」

若殿に問われた関口刑部少輔殿と安倍大蔵尉殿が顔を顰めている。困った顔だ。

「二十発でいかがでござりましょうや」

嬉々として試打を見ていた岡部丹波守殿が声を上げた。

「ほう。丹波、その数字はどうやって算盤を弾いた」

「はっ。弓兵が通常持つ弓矢が二十程でござりまする。根拠は有りませぬが、それよりも多ければ大したものじゃと思ってござりまする」

「うむ。なかなか良い見通しだ。これはこれまでの試し撃ちを続けて得た結果であるが、大体にして四十から五十は撃つことができる。それ以上は煤が付いて無理をすると危険だ」

「五十……!」

丹波守殿が驚いている。


「そうだ。鉄砲は弓と違って扱いさえ分かればある程度撃てるようになる代物だ。五十、百人と連なって撃てば敵は相応の被害を負うと思わぬか。それに弓の倍以上弾を持てる」

若殿がニヤリと不敵に笑われている。御家老衆はそんな若殿を恐々と見ている。


"ダダァーンッ!!"

再び試し撃ちが行われた。兵達に乱れがない。同じ作業を緩慢になることなく粛々と真面目に取り組んでいる。


「鉄砲はこれからの戦を変える。俺はそう考えている。だがな、もっと早く撃つにはどうすべきか、雨の時はどうすべきか、煤が付いた後はどうすべきか、どの程度使えば壊れるのか、知っておくべき事は多い。だからこうして撃たせているのだ」

「……戦道具に対する入念な御準備、この丹波、感服致しました」

丹波守殿が感心した様子で若殿に頭を下げている。若殿は華々しく結果を残されるが、地道な準備や小さな結果を積み重ねておられての事だと分かってきた。そう、何事も積み重ねなのだ。儂も精進せねばならぬ。




天文十九年(1550) 九月中旬 駿河国安倍郡府中 練兵場 今川 氏真




「「「一つの今川、一人の主君、我も今川。万歳!」」」

徹底的な忠誠を叩き込まれた親衛隊の兵達が掛け声と共に一斉に歩き出す。三間はあろうかという長槍を持ちながらも、一子乱れぬ分列行進だ。アレクサンドロスのファランクスはこんな感じだったのだろうかと思いながら見ていた。


部隊の兵達は三十間先の標的にたどり着くと、長槍を"えぃっっ"と大きな掛け声と共に突き刺した。


「随分と重いだろうに、しっかりとしたものよ」

「相当に鍛えましたからな」

「彦次郎の事だ。しごいてくれたのだろうな」

「ハハハッ、なぁに、みな胆力のあるものばかりでしたぞ」

井伊彦次郎が自慢の子供達を眺めるように親衛隊を見ている。何年も手塩に掛けて育ててくれた。思い入れも有るだろう。


「尾張攻めの軍令が発令された。駿河と伊豆は合わせて三千を出さねばならぬ。今回は府中の第一、下田の第二親衛隊からそれぞれ千名を抽出し、そこに譜代衆、与力衆の千名を加えた三千の兵力で出陣する」

「……いよいよ親衛隊の出陣ですな」

「此度はその方の参陣を許す」

彦次郎が感慨も深そうに頷いた。井伊谷の騒動から六年か……。

「随分と待たせたな。戦場では存分に腕を奮ってくれ」

「……お気遣いありがとうございまする。存分に暴れて見せまする」

「と言いつつも、今やその方には親衛隊の監督もある。単騎で敵陣奥深くに斬り込んでくれるなよ?」

「お任せくだされ。親衛隊の仲間達と共に、御由緒衆や譜代衆の兵に劣らぬ活躍をして見せまする」

かなり気合が入ってるな。それに"仲間"か。ずっと面倒を見てくれているからな。俺よりも彦次郎の方が隊員と過ごした時間は遥かに長い。ここは働きに大いに期待するとしよう。


「父上は織田弾正忠の体調が悪いと見ているらしい。この機に乗じて大きく尾張を取ろうとされている。そこでな、今回は遠江から一万一千、三河から九千が動員される。遠江衆が本体となって苅屋から吉田方面へ、三河衆は北から三吉方面に攻め込む予定だ。我々駿河伊豆部隊は知多方面に陽動を掛けるよう要請されている」

弾正忠の体調が芳しく無いのは間違い無い。荒鷲の調査でも同じ結果が出ている。最近は末森城から出ることも少ないらしい。


「知多方面でござりますか……。水軍はお使いの予定で?」

さすがは彦次郎だな。鋭い指摘だ。

「その通りだ。知多の南側にある富貴村に奇襲上陸して北上し、成岩城を目指す。成岩城を落とした後は北進と西進を並行して行って織田を驚かせてくれよう」

「織田の蔵所を脅かすのですな。陽動としては十分過ぎる内容ですな」

彦次郎が老獪に笑みを浮かべている。

「そのためには奇襲の成功が肝になる。我らが富貴村に上陸したという報と成岩城の陥落が同じ位に織田方に届けば良い位だ」

「左様ですな。成岩城の戦力は分かっておりまするか」

「うむ。荒鷲の調べによれば三百程のようだ。図面もある。富貴村に抑えとして五百を置き、二千五百で攻める。上陸地点から成岩城までは一里半だ」

「相変わらず入念な御準備ですな。そこまで分かっているのならば心配入りますまい。十の内八つは成功するでしょうな」

十の内八つか。意味深な事を言うな。どういうことか教えを乞うとするか。

「残り二つは何が不足している」

「戦場は何が起こるか分かりませぬ。急に野分けが来ることもあれば、荷駄が届かなくて兵が散り散りになることもある。十の十になる事は慢心を防ぐ為にも無きものと思われるべきです」

彦次郎が真顔で迫ってくる。経験豊富な彦次郎だからこその至言だな。大きく"うむ"と頷いた。

「成岩城を落としたあとは北と西に進む部隊に分ける。彦次郎は親衛隊を率いて北の半田城を目指せ」

「はっ」

「半田城は成岩城より半里北の砦だ。荒鷲によれば百から二百程度の守備兵がいるようだ。千の兵力でも落とせるだろう。半田城を攻略した後は、北に向かう素振りだけで良い。岩滑城や飯森城へ向かう素振りをな。必要なら城を攻める程度まではしてもよい。だが落とす必要は無いぞ。それ以上の北上は進む度に兵を分散させ、兵站が伸びることになる。陽動ならば半田城を落とすまでで十分だ」

「委細承知仕りました」

「うむ。頼むぞ」

伝えたい事を言い終えて訓練に目を移すと、彦次郎が問い掛けてきた。


「此度の出陣で鉄砲や長槍はお使いになられるので?」

「出陣は野分けや雨が多い時期だ。奇襲に鉄砲は荷物になるだろう。長槍も重すぎる。あれは野戦で使うものだ」

彦次郎が大きく頷いた。

「その通りにござります。もしお持ちになろうとしておったら、ご注進申し上げようと思っておりました」

「うむ。古強者の彦次郎の注進は聞くべき所大だ。これからも頼むぞ」


「それではもう一つ。奇襲は気を逸らせます。また、人は思い通りに行く事を好みまする。逸らぬこと。それに上手くいっておっても、常に不測の事態を考える事です。ただ、慎重過ぎては失う勝利もある。この加減が難しいのです」

「……重みのある言葉だ。深く胸に刻むとしよう」

彦次郎の目をしっかりと見ながら頷いた。



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