第三十五話 咳嗽の猛威




天文十九年(1550)六月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 氏真




「治部大輔殿……。母はもう長くありませぬ。お嶺とお隆をお頼み申します」

「何を気弱なことを申されますか。まだまだお若いのに弱音を吐かれますな。病は気からですぞ」

母上が"コホコホッ"と辛そうな咳をしている。骨と皮だけになった、とても三十の半ばとは思えない手を握って励ます。


「あなたの……っ、コホッ……、晴れの姿を見ることができました。立派でしたよ。思い残すことはありませぬ」

弱々しく、俺の手を握り返していた母の手に、僅かに力が入った。……これは助からないだろうな。前世で、病に倒れる人を何人か見送って来た。食が細くなり、動くことも難しくなり、日に弱くなっていく。今の母上はその姿そのものだ。ワクチンと点滴があれば、まだ若い分助かる道もあるやも知れぬ。だがこの世界では抗生物質等手に入るはずがない。


最近領内で風邪が流行っている。堺や京でも例年より多いようだ。もともと身体が弱かった母上と妹のお隆が罹患し、二人とも症状が長引いている。遠い記憶のかなたに、母上が若くして病に倒れるとは覚えていた。だからこそ日頃から細い食を気にしていたのだが……。


「……っ」

「ご無理をなされますな」

母上が無理をして起き上がろうとしている。

「……あなたの、あなたの顔をしかと見たいのです……ッ!」

背中を支えて少し身体を起こす。母上がまじまじと俺の顔を見ている。

「いつの間にこれ程大きゅうなって」

ぺたぺたと母上の手が俺の顔を触る。いつの間にか母上の目元からは、ほろほろと雫が溢れている。


「母上」

自然と涙が流れた。

母上に付いている侍女たちの啜り泣く声が悲壮感を募らせる。


「あなたは、わ……私の自慢の息子です……、自信を持って……強く、……おのれを……己を信じて生きるのですよ」

今思えば、この世界の母に何か孝行をしただろうか。急に後悔の念が立った。

「某は、思えば母上に孝行らしい事を何もしておりませぬ。面目ござりませぬ」


「そのような事はありませぬ……。治部大輔殿は、妹たちの心配をしてくれていたでは有りませぬか。それに……、私の……私の子供はあなた方だけですが、お、御屋形様と治部大輔殿には今川の民がおります……。幾万の子がおるのです。……お気になさいますな」

母上がこの期に及んでも気丈に振る舞っている。武家の方だと思った。

「母上……」

「龍王丸……。母は天からあなたをいつまでも見守っておりますよ」

不甲斐ない所は見せまいと、涙を拭って力強く頷いた。




天文十九年(1550) 六月中旬 駿河国安倍郡府中 今川館 今川 隆




「お隆、今少し食べよ。そのようなことでは、治るものも治らぬぞ」

兄上が粥を口元まで運んで下さっている。粥には米とねぎと卵が入っている。鰹の出汁に少しだけ塩気が入っている。味はかなり良い。だからこそ頑張って頬張ったが、兄上はもっと食べよと言う。

「結構に頂きました。隆のおなかは一杯にございます」

先日、私と同じように病に掛かっていた母上が見罷られた。母上の死をまだ受け入れられない中、食が進まない。


「ならばこれを飲めば許そう」

兄上がすかさず湯飲みを差し出してきた。中には温められた液体が入っている。

「これは……何ですか」

「生姜に砂糖が入っている。少し苦味があるが、良薬は口に苦しと言う。気にするな」

"飲まないのは許さぬ"と言わんばかりに厳しい表情の兄上を見て、諦めて飲んでみる。

「……美味しい」

「で、あるか」

兄上が私の顔を見て笑みを浮かべている。



「俺が来れぬ時もしっかりと食べるのだぞ。よく食べ、よく寝るのが快方への近道だ」

「はい」

"よく食べ、よく寝よ"

兄上の私に対する口癖だ。もともと私は食が細かった。邪気に毒されたと思ったが、兄上が身体が弱いだけだと一蹴した。侍女が私の快方を願って夜な夜な念仏を唱えてくれていた時も、過ぎたるは及ばざるが如しと止めさせた。寝るときは寝よと。確かに、兄上の介抱を受けてから身体が快復していると思う。


"神仏を信じるのは良い。だが、縋るものでは無い"

兄上があの時、まっすぐと私を見て言った言葉だ。兄上は神仏に頼らない。信じておられぬわけではないと思うが、兄上の心の強さはどこから来るのだろう。


「姉上は如何なさっておられますか」

「俺の前では泣かぬ」

「前では?」

「フフッ」

兄上が何かを思い出したように笑った。


「侍女の話では、お嶺は父上や俺の前では泣かぬようにしている。だが俺や父上が去った後では静かに泣いているらしい」

姉上らしいと思った。


「兄上……此度は色々とありがとうございます。兄上のお陰で日に日に力が出て来ている気がします」

「で、あるか。それは良かったの」

最近では自分で起きることが出来るようになってきた。少しずつではあるが、食事の量も増えて来ている。もっとも、兄上が頻繁に来ては私に食べさせるからかも知れないが……。


「兄上がお見えで無ければ、私も母上に続いていたかも知れませぬ。ありがとうございます」

「うむ。生あるものが簡単に生きることを諦めてはならぬ。母上の分まで生きるのだぞ」

兄上は元服をして駿河と伊豆の統治を任されたと聞いた。兄上の事は以前からも、歳以上に大人びていると思っていた。


……兄上は大人びているのではない。もはや立派な大人なのだ。私を案じて隣に寄り添ってくれている兄上の横顔は、威風堂々とした国主の顔をしていた。




天文十九年(1550)六月下旬 駿河国府中 今川館 今川 氏真




領内での風邪の流行が収まりつつある。府中では所々に手洗い所を設置し、手洗い所には今川の負担で石鹸を置いている他、領民へ無償で配布も行った。効果が見えはじめてから、堺の商家や行商から石鹸の発注が殺到している。石鹸は従来から人気商品だったが、最近では作った瞬間から蒸発するように売れている。


手ぬぐいも大人気だ。そりゃそうだよな。手を洗ったら拭かなければならない。ということで綿花も大増産体制に入った。綿花は土地を選ばず、育てやすいが寒さに弱い。だが駿河は温暖な気候のため綿花の栽培に適している。駿河の難点は平地が少なく米の栽培が多く望めないところであるが、丘陵や山岳は広大にある。駿河全土が俺の所領となったことで、府中から北に向かって茶畑と綿花、椎茸や自然薯の開発が急速に進められている。


今回の流行り病は、改めて疫病の怖さを痛感した出来事だった。前世で流行り病の文献を読んだ時を思い出した。インフルエンザの様な疫病は近世だけの話では無い。日本でも古くは平安時代から類似の事例が存在している。奈良時代からあったのではないかと書かれているものもあった。人口の集中、都市化は疫病との戦いとも書かれていたな。


今回の疫病は災難だったが、領民には手洗いの重要性が認知されたはずだ。今後も継続的に啓蒙していくことで、次の疫病を予防していくとしよう。


あとはあれだな。蒸留酒の開発にも本格的に取り組むとしよう。蒸留設備があれば高濃度のアルコールが作れる。殺菌に効果があるはずだ。となると蒸留設備をどうするかだが、蒸留技術は既に大陸にあるはずだ。琉球にもあるかもな。もしかしたら九州には既に有るかもしれぬ。


まぁしばらくすれば明の船が府中まで来るはずだ。そうしたら蒸留設備の技術も取り寄せよう。その次はウイスキー造りだな。うん、俺が飲みたいわけではないぞ。いずれは南蛮、それも英国からの船が来る日もあるだろう。その時は驚くだろうな。極東の島国にウイスキーがあるのだから……。


酒造りは時間がかかるゆえ、追々やっていくとして、まずは喫緊の課題への対策だ。俺の元服後に予定されていた尾張への出兵は、領内の流行り病と母上の逝去を受けて先延ばしになっている。武田家出身の母上が亡くなったことで、武田家との外交が最優先課題となった。父上は悲しむ間もなく対応にあたっている。


武田家としても、今川との盟約は重要だ。何分南をがら空きにして信濃攻めをしている最中だ。伊豆介に確認したところでは、晴信は信濃守護である小笠原長時の居城である林城に攻め入るために兵を整えていたところらしい。


武田家からはすでに先月の下旬、母上の見舞いを名目として使者が派遣されてきた。使者は高白斎記で有名な駒井高白斎だった。だが、残念ながら高白斎が府中に滞在している最中に母上が見罷られた。高白斎は訃報を聞くや急いで飛脚を甲府に飛ばし、晴信の指示を仰いでいるという。


妹のお隆が快方に向かっている。史実では母上と同じ時期に命を落としたはずだ。お隆は助ける事かなったが、母上は救えなかった。母上の死は残念だが史実の通りなのだろう。お隆が助かったのは嬉しいが、今川と武田の関係に影響を与えるものでは無い。お嶺かお隆のどちらかが武田に輿入れすることになるだろうか……。




天文十九年(1550)六月下旬 駿河国安倍郡府中 今川館 駒井 政武




「治部大輔様にはお初にお目に掛かります。武田家家臣、駒井孫三郎政武にござります。今は剃髪し、高白斎と名乗っておりまする」

「今川治部大輔氏真である」

「高白斎、して、大膳大夫殿はなんと」

治部大輔様と参議様の言葉に"はっ"と応じて、御屋形様から届いた文をご近習に預ける。近習の方が参議様へ渡し、参議様がお読みになっている。先日、今川では龍王丸様が元服し、駿河と伊豆を任されたと聞くが家督を継がれた訳ではない。今川の当主は現在も参議様ということになる。文が先に運ばれるのも参議様になるということか。


それにしてもあの方が治部大輔様か。甲斐を出る前に左馬助様から治部大輔様の人となりを、一挙一動をよく見てくるようご指示があった。特に変わったところは無いが……。


参議様が文を読み終えて治部大輔様に渡される。淡々と治部大輔様が文字を追っておられる。


「大膳大夫殿は、我が今川との盟約をこれまで通り続けたいと、そう書かれておりますな」

治部大輔様が仰せになられた。

「はっ。主、大膳大夫からはそのように聞いております」

「当家としても異存は無い。武田殿は大事な盟友じゃ」

参議様のお言葉に治部大輔様も頷いた。

今御屋形様は信濃攻めに忙しい。今川家と事を構えるのは得策ではない。今川殿とて西に進もうとしている。武田と今川の利害は一致しているはずだ。


「治部大輔は何かあるか」

「は……そうですな。大膳大夫殿に武運を祈るとお伝え下され」

「はっ」

武運……か。奥が深い言葉だ。治部大輔様は武田がすぐにでも小笠原攻めをすることをご存知なのであろうか。いや、まさかな。ここのところ常に武田は信濃で戦っている。治部大輔様は小笠原勢との戦いに援軍でお見え下さったこともある。ただの社交辞令だと思うが、左馬助様には報告しておこう。

さて、もう一つの主命を済ませるとするか。


「恐れながらお尋ね申し上げまする」

「続けよ」

参議様が鷹揚に頷かれた。


「はっ。我が主、大膳大夫におきましては、来月早々にも小笠原攻めのために兵を動かす所存にござります。喪の最中に出兵となるは恐れ入りますが、参議様にはご承知おき願いたく平にお願い申し上げます」

「……戦は兵家の常じゃ。やむを得まい」

「武田は北へ忙しいゆえ援軍は出せぬ。そういうことでもござりましょう」

参議様から了承を得て謁見は終わりかと思っていると、治部大輔様が微笑みながら仰せになった。心なしか目は笑っていないように見える。


「左様な事までは……。某では分かりかねまする」

「で、あるか。武田が北に忙しいように、今川も西に忙しい。東とて、北条との関係は落ち着いておるとは申せどうなるか分からぬ。ゆえに今川にとって武田殿との関係は重要じゃ。大膳大夫殿には引き続きよろしく願うとお伝え下され」

「はっ、必ずや」

……これはどう捉えるべきか難しいな。治部大輔様が仰せになったのは、武田と今川の縁は重要で切れぬ縁とご教示下さったのか、このような折りに信濃攻めへと注力する我らを批判されているのか、単純に援軍の確認をされたものか……。中々に人となりが掴めぬ方だ。儂が深く考え過ぎなら良いが……。




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